第24話「二百年前」
「らあああああああッ!」
自身を起点に体を回転させ、遠心力を加えた大剣の横薙ぎを鬼の巨腕にぶつける。大剣の刃が鬼の巨腕に食い込み、勢いがそこで止まる。切断できずに、切り裂けたの薄皮程度。恐ろしく硬い筋肉に大剣の刃が通らない。
その時、もう片方の鬼の腕が羽虫を薙ぎはらうかのように、手の甲をミスラに叩きつけた。全身がバラバラに分裂するような衝撃がミスラの身体に巡り、鬼に比べて軽いミスラの身体は紙切れのように横に吹っ飛び大木に叩きつけられる。
「……っあぐッ!」
ぬるりと粘り気のある赤黒い血が、ミスラの口端から顎を伝い地面に滴り落ちる。そのたったの一撃を受けただけで体が思うように動かなくなり、身体が痙攣を起こす。この一撃をもらう間に何発も攻撃を加えたはずなのだが、ミスラに対して鬼の肉体に目立った外傷はない。薄皮一枚の傷など、できたそばから治っている。
その回復力をもってしても治らない右目の傷は一体どのようにして出来たのか、ミスラはそれを突破口だと考えて混濁する思考の片隅で思案するが、思い浮かばない。
視界が赤い。意識があるのが信じられない。腕、足が思うように動かない。呼吸がままならない。この状況で、
(撃てる【勇者秘技】は残り一回)
ただこの秘技も鬼には通用しなかった。薄皮一枚、一番よくて指の第一関節程度の深さの傷しか与えられなかった。それでも、これ以外にない。
「……っぁ」
大剣を杖代わりにして、ミスラは無理矢理立ち上がる。
「……まだ」
まだ身体は動く。こんなところで倒れてはいられない。こいつを打倒しなければ、誰も救えない。
勇者である自分がこいつを倒さなければ、みんなが不幸になる。
それなら、命を賭けてでも、まだ……
「……まだ負けるわけにはいかないんだからぁぁああああああ!」
ボロボロの身体に喝を入れるように、あらん限りの声で吠え、ミスラは大剣を構える。
『ァアアアアアアアアアアッ!』
鬼の雄叫びが森の中に響き渡り、巨大な拳が風切り音を伴って放たれた。それを迎撃するべく、ミスラは大剣を振りかぶり、
「……【勇者秘」
言いかけ、口が止まる。
大剣を構え、迫り来る拳に向けて秘技を放とうとしたミスラの声は、ミスラの背後の黒い霧の中から飛び出してきた予想外の少年の登場によって、簡単に遮られてしまった。
「【英雄規定】」
黒い霧から出現したその少年は、登場する前から既に体に小さな生傷を幾つも作っていた。少年は無謀にも鬼とミスラの間に割って入ってくると、ミスラに迫っていた巨大な拳に、人間相応の鬼くらべて小さな右拳を勢いよく叩きつけた。ゴンッ! と鈍い音が鳴り響き、鬼の拳は勢いを止める。
「……痛すぎだっての、くそ」
ミスラに背を向けつつ悪態をつくその少年は、ミスラの盾になるように鬼の前に立ち塞がり、あろうことか目の前の巨悪に臆することなくファイティングポーズをとりはじめる。
「……なんで、なんで来たのよ!」
ミスラの叫びに、少年は背を向けたまま答える。
「それは勿論、愛すべき嫁のピンチだから」
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……あ、あい、愛、愛⁈ こんな状況で何言ってるのよ! 一般人のあんたが来たところでどうにもならないわよ!」
「いやいや⁈ そんな悲しいことは言いっこなしにしようぜ。俺だって、デカすぎる大剣持ってる所為で盾が持てない奴の肉壁ぐらいにはなれる。見ただろ、俺がこいつの一撃を食らってぶっ倒れてないところを!」
「……っでも! 死ぬかもしれないってことが分かってるの⁈」
「……いや、俺は死なない」
ミスラに背を向けたまま、俺はは自信満々に答えてみせた。
「なんでそんな確証もないこと言えるのよ!」
「俺が死んだら、ミスラが悲しむ。……そんな気がするからかな!」
今度は多少自信なさ気に、それでも、そうだといいなという思いを込めて俺は言葉を口にする。瞬間、俺に向かって巨悪の薙ぎ払いが飛んできた。その攻撃はしゃがんで避け、もろに受けたら即死しそうな一撃は空を切っていた。この調子で俺を狙う攻撃ばかりだといいのだが、ミスラを狙う攻撃の場合はミスラの盾としてこの身一つで攻撃を防がなくてはならない。
というわけだから、かっこよく決めてやった登場シーンの時のような無理をしなければならない。あと何回までなら身体は持ってくれるだろうか。少なくとも俺の体がぶっ壊れる前に、なんとか突破法を考えなければならない。
「……あ?」
目の前のゴブリン進化系のようなビジュアルの巨大な魔物の右目に、瞼を縦に割かれた傷跡があることに目がいった。
「……日記のあの魔物と同じ傷跡か」
思考を巡らせ、一つの最悪な答えに行き着き、口元が薄く笑ってしまった。
「お前かよ、バルバロス」
自問自答で解決した答えは呟きとなって口から漏れたが、その呟きは誰かの耳に届く前に、バルバロスの天を貫く咆哮によって掻き消される。轟音に、思わず両手で耳を塞ぎ、一瞬怯んでしまった。その機をチャンスと見たか、バルバロスの右拳が飛んでくる。俺は両腕を盾にその一撃を受け止める。
足を踏ん張り地面にしがみつくが、バルバロスの力に押されて体が浮いた。その刹那。バルバロスの二本目の腕が、俺の体の側面に叩き込まれる。
空中で無防備だった俺の身体は吹き飛び、地面に体を擦り付けながら失速した末に樹木にぶつかって止まった。視線を前に向けると、バルバロスは既にミスラに向けて拳を振りかぶっていた。ミスラは大剣を構え迎撃しようとしているが、あの傷で防ぐのは厳しい。
「……くっそ! させるかよぉおおおおおッ!」
踏み出す足に全力を込めて、弾丸のように体を飛ばす。
俺はミスラに思いっきりタックルをぶつけ、ミスラの身体を真横に吹き飛ばす。「……ぁ」とミスラの口から声が溢れるのを聞いたと同時、俺の肉体はバルバロスの拳と地面の間に挟まれて押しつぶされた。
ブチっと俺にだけ聞こえるような音を立てて何かが潰れていく。
内側から爆ぜるように、全身から血が噴き出すように。
ぶち、ぶち、ぶち、ぶち。
叫び声さえ出せない、体の感覚がない、目が見えない、音だけが唯一耳に入り込んでくる。音だけを処理すればいいからか、聴覚が鋭敏に研ぎ澄まされた気がし、微かにミスラの声が聞こえた。
「……うそ。なに、勝手に……勝手に……」
泣いているのか? 俺の為に?
「俺は死なないって言ってたのに! 悲しませないって言ってたのに! なに勝手に死んでのよぉ……」
……そうだよ俺はまだ死ねない。
俺はまだ死ねな……。
……ぶち。
ああ、全て潰された。なんつー出オチだよ、クソが。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
『……間に……て。し……ないで』
不鮮明な声は、数秒経つと鮮明に聞こえるようになった。
ポツリ、ポツリと俺の顔に何かが滴り落ちている。
「間に合って……ッ! 死なないで、死なないで! ………………お兄、様ァ」
…………お兄様?
ゆっくりと目を開くと、いつか見た時と同じような泣き顔の女神がいた。そうか、俺はまたこいつに助けられたのか。
「……昨日の今日で、また助けてもらっちまったな…………どうしたよ?」
女神は泣き顔を隠すように、突然俺の腹部に顔を埋めて両腕を俺の腰に回して抱きついてくる。涙を拭くようにゴシゴシと顔を俺の腹部に擦り付け、腰に回した両腕の締め付ける力が強くなる。
「バカぁぁ……、死んじゃうかと、間に合わないかと」
「…………すまん」
「こんなことなら。力なんて……やっぱり力なんてあげなければよかった」
「……それは、少し困るな」
苦笑いを作りながら、俺はもの寂しそうにしていた右手を女神の頭に乗せた。触り心地の良いさらさらとした銀髪の感触が、手のひらから伝わってくる。頭を撫でるたびに、この女神が愛おしくてしょうがなくなる。
どうして、俺はこんなにも、この女神が愛おしいのか。
……なんで? 女神が可愛いからだけじゃない、それならナナにだってこの気持ちが向いてもおかしくない。
なら、なんで?
「…………もう、何処にもいかないで。ここに居て」
「……それもいいけど、ここにずっとはいられない。まだ外に、大切な人を残してる。俺はミスラを、愛し……」
そこまで口にして、俺は口を噤んだ。
…………なんで?
なんで俺はミスラを愛してるんだ? 前から好きになろうと思っていた、だけどいつ好きになった? いつから愛し始めた?
俺はミスラを助けに森に入った。それは、あいつが俺の嫁だから。いや、それだけじゃない。それだけじゃ助ける理由にはならない。そうだ、ミスラに言ったように俺がミスラを愛しているからだ。それは、なんで?
いつから、俺はミスラを好きになった? 愛し始めた?
いつから? 出会った時からか? そんな馬鹿な。
ミスラが俺の飯を食った時か? そんな馬鹿な。
つまり。気がついたら、俺はミスラを愛していた。
なぜ、今まで気がつかなかった? 何気なく口にした『愛すべき嫁』って言葉は、どうして何気なく出てきた?
「……どうしたの?」
「いや、わかんねえ。俺の。俺のこの気持ちは、何処から湧いて出てるんだ? 俺は……。俺は…………ッ!」
どうして女神が愛おしい?
いつからミスラを愛し始めた?
……考え方を変えろ。難しく考えるな。シンプルに、いたって簡単に。
どうして女神が愛おしい? 愛してるから。
いつからミスラを愛し始めた? 気がつかないほど、それが当たり前になるような、ずっと前から。
ずっと前から? 前っていつだよ。
前っていつなん…………。
『…………お兄、様ァ』
妹、妹妹妹妹妹妹妹妹。…………え、エ。
「…………エリゼ」
俺が何気なくその言葉を発した瞬間。
女神が勢いよく顔を上げた。鳩が豆鉄砲を食ったような顔で俺を見つめる。
その表情を見た瞬間。俺の頭の中で今まで考えていた、女神が知っている俺でない俺の正体に気がついた。そして、俺が女神を愛おしく思ってしまう理由にも気がついた。
そうだったのか。俺でない俺は、
「……銀の英雄」
その生まれ変わりが、この俺。
「どうして、黙ってたんだよ……」
そして目の前の銀髪の女神が、銀の英雄の最愛の妹、
「……エリゼ」
「そ、それよりも! なんで、なんでその名前を知ってるの⁈」
「優秀な図書館の司書がなんとか復元させた日記を読んだからだよ」
「……あの日記を復元したものがあったなんて」
「俺は答えたぞ。次はエリゼ、お前の番だ。どうして、俺に黙ってた」
女神、もといエリゼは苦しい表情を作ると、小さな声で話し始める。
「……過去のことは、生まれ変わる前のことは全部知らずに、新しい幸せな人生を送って欲しかったから。それに……英雄召喚だっけ? あんなのは全部嘘だよ。英雄召喚なんて存在しない」
「なら、なんで俺に力を渡した」
「だってお僕の知ってる兄様は、英雄ですから。お兄様は英雄で、英雄はお兄様。英雄の力を与えたのは、お兄様には英雄でいてほしい僕のエゴだよ」
……こいつは本当に、兄のことが大好きなんだな。
「次の質問だ、ミスラは、あいつの愛した女性の生まれ変わりなのか?」
こくん、と女神は頷く。
……ようやくだ。ようやく全てが繋がった。
女神が愛おしい理由、ミスラがどうしようもなく気になっていた理由、その全てをようやく理解できた。
「……………………何年、待った?」
「だいたい二百年」
「……最初一つ言っておくと、俺はあいつじゃない。お前の知ってるお兄様なんかじゃない。だけど、それを互いに理解した上で提案、というか俺からのお願いがあるんだけど……聞く?」
尋ねると、エリゼは小さく頷いた。
それを確認した俺は、ゆっくりと息を吐いて吸って、お願いをしてみる。
「あのさ、俺をエリゼのお兄ちゃんにしてくれないか?」
俺はあいつじゃない。あいつの、エリゼのお兄様の代わりにはなれない。だけど、二百年という長い年月を、ひたすらに待ち続けたこの健気な女の子に俺は何かしてあげたい。……俺はお兄様にはなれない。だから、俺はエリゼのお兄ちゃんになろうと思う。
ドキドキしながら返事を待っていると、突然エリゼの瞳から涙が流れた。
「……え? そんなに嫌だった?」
「……ううん、違うよ」
エリゼは拭いきれない涙を誤魔化すように可愛い笑顔を浮かべると、
「…………よ、宜しくね。……お、お兄ちゃん!」
俺の胸の中に飛び込んできた。
「……それじゃあ、行きますか」
「うん」
かつて銀の英雄が愛した女性、その女性の生まれ変わりである今の俺が愛した人を助ける為に、俺は再びあの世界に舞い戻る。




