第23話「鬼」
北の森の奥の奥、ゴブリンの巣と人間が呼ぶそれは酷く静かだった。それは、ゴブリンの巣にゴブリンがいないからなどではなく、ゴブリン達が無意識的に引き起こしている現象。原因はゴブリンの巣の中で最も厳重な場所に眠っていた、最悪の放つ歓喜にも近い殺意。その殺意が、ゴブリンの巣の中を満たし、ゴブリン達に声の一つも上げさせないでいた。
やがて、最悪は動き出す。巣の奥で、食べては寝てを繰り返し続けていた最悪が、重い腰を上げて巣の中から這い出てくる。ギラギラとした獰猛な瞳を覗かせて、ばっくりと開いた口からは研ぎ澄まされた牙が伸びる。
「銀ノ……英雄……」
一度倦怠の海に身を沈め、振るうべき力の矛先を見失った存在が、歓喜を孕んだ呟きを零した。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「…………これは?」
少女には少々不釣り合いな大剣を振るい、ミスラが剣の鍛錬に邁進している時。北の森の奥から流れてくる異様な黒い霧にミスラは気がついた。
若干の歓喜を孕んだ、殺意の塊のような黒い霧は木々の間を通り、北の森全体に行き渡っていく。チクチクと肌に突き刺さるようなその黒い霧、殺意に、ミスラは思わず顔を顰めた。北の森で勇者としての務めを担ってから一度も経験したことがないこの異様な状況に、大剣を振るう手を止め、頭を回転させて幾つかの推測を立てる。
「……ゴブリン。それか、別の魔物。もしくは、周期的にやってくる現象」
と、考えてみたものの、ミスラの今までの経験上ではゴブリンはありえない。人間を殺すことを遊びと思っているようなゴブリンの殺意は、軽い。肌を突き刺すこの殺意には、天地がひっくり返ろうとも到底及ぶことはない。
次に、周期的な現象もありえない。もしも、このような現象が周期的にくるのであれば、勇者としての務めを引き継ぐ際に先代の勇者から代々伝えられ続けてもおかしくはない。
そう考えると、別の魔物というケースが一番答えに近いのでは、とミスラは考えつく。
「……今日、ゴブリンがうるさくないのは、この殺意を生んでいる別の魔物がゴブリンを殺し尽くしたから。……それならゴブリンが未だに現れないことに結びつく」
だが、そうなるとその別の魔物は、ゴブリンに叫び声一つ上げさせることなく殺し尽くしたことになる。この強烈な殺意を鑑みれば、おかしくはないのかもしれないが……。そして、急に殺意を感じたということは、この殺意を発している魔物が近づいてきている証拠である。もう、魔物との距離は殆どないかもしれない。
「…………でも、やることは変わらない」
大剣を握る手に、より一層の力がこもる。どんな敵が現れようと、勇者であるミスラがするべきことは、どんな状況でも変わらない。ただひたすら大剣を振るい、脅威をはねのけ続けるだけだ。それが勇者の務めであり、ミスラの願い。
誰も不幸にさせない為に、誰も悲しませない為に。その一心でミスラは勇者の務めを果たす。今でも憎しみで戦っている節はあるが、それでも自分と同じような境遇の人を作らない為に勇者の務めを果たし続けるのはミスラの本心。
辛いのは、悲しいのは、自分だけでいい。
その自己犠牲にも近い願いが、ミスラを勇者たらしめている。
「……来るなら、来い」
息を吐き、吸って、呼吸のテンポを整える。肌を突き刺すような黒い霧に混じる殺意が、その密度を増しているのが肌から伝わってくる。ゆっくりと、ゆっくりと確実に近づいてくる。ミスラは大剣を力強く握り、構え、研ぎ澄まされた瞳を殺意の濃い方へ向ける。トスンッ、トスンッという音は、ドスンッ、ドスンッと重い音に変わり、振動が足から伝わってくる。森には野蛮な呼吸音が響く。
そして遂に、黒い霧の中に煌々とした紅い一つの光が現れる。
瞬間。黒い霧の中から突如として伸びた丸太のような巨腕が、黒い霧を巻き込みつつミスラに向かって振り下ろされた。
「……んなッ⁉︎」
ミスラはその場から咄嗟に跳び退いて、不意の巨腕の一撃をかろうじて躱す。跳び退いた先でミスラが大剣を構えていると、対となる二本目の巨腕が黒い霧から伸びてきて、黒い霧を晴らすように不穏な風切り音と共に辺りを薙ぎ払った。腕を振るっただけとは思えない風が吹き、黒い霧に覆われていた周囲から黒い霧が失せ、巨腕の持ち主の姿がハッキリと目視できるようになった。
「……くっ」
黒い霧の中から姿を現したのは、閉じた右目に深い傷を負った巨大なゴブリン。いや、もはやその姿はゴブリンとは呼ぶに呼べない。煌々と輝く左眼、ゴブリンの十倍はあろうかという巨軀、天を突くように下顎から伸びる太い牙。その姿はゴブリンなどという小鬼ではなく、真性の鬼だった。
真性の鬼は、がぱっと口を開くと
『ガァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』
空を砕くように、天に向かって咆哮を放った。
※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※ ※
「……なぁ、ラトラはこの日記を残した英雄を、どう思う?」
「どうって……。可哀想だとは思いますけど」
「俺も、そう思う」
愛する人を残して死ぬなんて想像を絶する程に残酷で、誰も笑顔になれない最悪な結末だ。
「…………愛する人の為に、お前が死んでたら意味ねぇだろうが」
残されたやつはどうなる。愛する人を失って、そいつに生きてる意味なんてあるのかよ。お前を愛した人の隣に、愛してくれた人と笑い合えるお前がいなくてどうすんだよ。
…………わかってる。この英雄がめちゃくちゃ頑張って、周囲の人をめちゃくちゃ強い魔物から守ったことなんて百も承知だ。
それでも、
「…………お前が死んでたら、意味ねぇだろうが」
「うん? 何か言いました?」
口から零れ落ちた小さな呟きに、ラトラが訝しげな表情で小首を傾げる。
「……気にしないでくれ、ただの独り言だから。それじゃ、もう少しゆっくりした…………ラトラ、今何か言ったか?」
「いえ、今の変な雄叫びは貴方じゃないんですか? よく出してるじゃないですか、馬鹿っぽく」
「出してないよ! お前は俺をなんだと思ってやがる! ……それより、今の雄叫びは」
小さくだが、地下図書館まで届いてきた『ガァァァアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアアア』という雄叫びは、人間の声とは根本からして違うような異質な声だった。昨日聞いたゴブリンの叫び声に似ている。
と、そこまで考えていくと自然と体が動いていた。
もしこの声をゴブリンが出しているのであれば、そこには勇者である俺の嫁、ミスラが少なからず関係しているはずだ。威勢の良いゴブリンの断末魔とかならいいが、そうでないなら……。
「……ラトラ、少し外に出てくる。あと、引き篭もりのお前には言わなくても無縁かもしれないが、一応外には出るなよ。危ないからな」
そう言葉を残して、ラトラの返事を聞くより先に俺は地下図書館のドアを開き、一目散に外に向かって階段を駆け上がる。昨日の今日で不幸が重なるのは勘弁していただきたいところだが、この目で確かめるまで真相は闇の中。
階段を駆け上がり外に出ると、雄叫びを聞いた町民が家の中に避難したのか、外を出歩いている人は見当たらない。
「一体何が起きてやがる」
外に出てきてみれば、地下図書館にいた時とは比べものにならない雄叫びが幾つも発せられていた。この世の終わりを感じさせる、と言ったら言い過ぎかもしれないが、砲弾が飛び交うように雄叫びが放たれている。
「……ゴブリンの断末魔ってわけじゃ、なさそうだよな。……急がねえと」
なんだが嫌な予感がして、俺はミスラがいる北の森に向かって走り出す。町中を走っている最中にも、町民の人と出会うことはなかった。走ること数分で北門前に到着する。北門の門番である中年のおっさんの姿は、そこにはない。おおかた仕事を放棄して逃げ出したのだろう。まぁ、それを咎めるつもりはさらさらないが。
ゴブリンが突然姿を現さないことを祈りながら俺は門を押し開いた。その瞬間、開いた門の隙間から黒い風が勢いよく流れ出てくる。
「……な、なんだよこれ⁈」
ひとまず門を少しだけ開き、その間に体を滑り込ませて門の向こう側に出てすぐさま門を閉じた。
目を前に向けると、それはそれは絶句せざるえないような光景が広がっている。
「…………黒い霧」
朝っぱらだというのに、謎の黒い霧で覆われた北の森は数メートル先が見えない闇の世界と化していた。この闇の中にミスラが囚われている。そう考えると立ち止まってなどいられない。ひとおもいに闇の世界に足を踏み入れようとしたその時。
「ちょっと! ソーマちゃん⁈」
横から聞き覚えのある声を投げかけられた。
「……なんだシェストか」
声のした方を向いてシェストの顔を確認する。シェストは苦虫を噛み潰したような、苦しげな表情をしていた。
「『……なんだシェストか』じゃなくて! 早く町の中に戻って! ここから先はソーマちゃんの仕事じゃないんだよ!」
「……いや、これは俺の仕事だね」
「何言って⁈」
「シェストの顔を見てりゃわかるよ、おおかた昨日の今日でまたミスラに何かあったんだろ? だったら俺の仕事だ」
そうだ、これは俺の仕事だ。この仕事だけは誰にも譲ってやらない、それがシェストであってもだ。いつまでもシェストに頼ってはいられないからな。手は沢山借りるかもしれないが、それでも最後の最後、ミスラを助けるのはこの俺だ。なんたってミスラは、
「ミスラは俺の嫁だ。だから、これは俺の仕事なんだよ」
「…………いけるの?」
「さぁ、わかんねぇ。でも、ミスラが苦戦してる相手にシェストは勝てないだろ。だったら、強さ未知数の俺に任せた方がいいだろ」
「ゴブリン二匹で手一杯だったじゃない」
「はーっはっはっ! あんなの本気じゃありませんことよ? つまりこの俺、ソーマの力は未知数ってことなわけよ!」
「…………」
見え透いた嘘だった。本気じゃなかったら、あんなボロボロになるまでゴブリンと戦ってなんかいない。しかしシェストは俺の気持ちを汲んでくれたのか、重苦しい表情を作りながら、
「……行かせたくない。お姉さんの妹、ミスラの大切な人だもの。だけど…………止められないわね」
「悪いな、シェスト」
「……町の方はお姉さんに任せない。だからソーマちゃんは、ミスラを助けてあげて。感覚でしかわからないけど、巨大な殺気がミスラの周りを包んでる。方角はここからまっすぐ、北よ」
「……ありがとうシェスト。それじゃあ行ってくるよ」
深い闇の中に、俺は足を踏み入れる。
北の森の中は真っ暗で、殆ど何も見えない。辛うじて足元がぼやけて見えるぐらいで、他には何も見えない。何度も、木に真正面からぶつかって、根には足を持ってかれ、細い枝で引っ掻き傷を作りながら真っ直ぐ我武者羅に走った。すると、わかる。
確実に俺は巨悪に近づいている。肌に突き刺さるようなピリピリした刺激が強くなっているきがするからだ。
もう少し、あともう少し。
もう少しでミスラのもとに。
その刹那。俺の体を押し戻そうとする黒い豪風が吹いた。
それと同時に聞こえてきた声。
『……まだ負けるわけにはいかないんだからぁぁああああああ!』
前から押し寄せる黒い風を掻き分けて、俺は声のした方に向かってひたすらに走る。




