10. 最後の試練
VRゲームが出回るような20XX年的な時代背景なので医療業界の事情なんかはフィクションです。
何度か注射をすると聞かされて瞬時に逃走を計った僕であったが、先読みされていたのかあっけなくコージに捕獲されてしまった。
今はせめてもの抵抗にと短い手足と尻尾をジタバタ動かしてはいるが、空中に抱えられたのでは虚しく空を切るばかりである。まして今やその体格差は大人と子供、こうなってしまっては敵うはずもなかった。
「離せー! テメーこの野郎コージお前裏切りやがったな!?」
「俺はいつだって合理的で効率的な行動を取るだけだ、その行動原理を裏切った覚えはないな。血液検査も予防接種もお前に必要なものだというのになぜ逃げる?」
「いいや必要ないねっ! 少なくとも今回の注射はあくまで念の為であって必須じゃないッ! これまでの他の検査で身体に異常が無いことはだいたい分かってるし、予防接種なんていうのも感染しないよう気を付けてれば要らねーんだよ! だからせめて注射は1回までにしてくださいお願いします!」
「最後で急に腰が低くなったな」
あわよくばと僕は必死に抵抗しながら反論を試みたり、何なら譲歩して交渉したりもしたのだがその一切は無駄に終わった。
あちら側の主張は僕のためとの一点張りで、容赦する気は全く無いらしい。こちらとしては僕のためでしかないのなら、あくまでも任意なのではないかと思ったのだが。
「それじゃあ司が逃げないよう、後は任せたぞパナコさん」
「まっかせてください!」
しかも僕のことをよくよく理解してやがる親友は、その腕に抱えた僕を椅子に座らせるとパナコさんに身体をしっかりと抑えさせた。
今の僕は後ろから腰に手を回して抱きつかれ、左右の狐耳の間に顔を突っ込まれている完全制圧姿勢。いやこれケモ耳を堪能してるだけじゃねぇか。
しかし悲しいかな、この状態が僕の動きを封じるのに効果的なのも事実。下手に動けば女性に手を上げることになりかねず、また身体が密着しているが故に背中に感じる軟かさが童貞の僕から正常な思考を奪い取る。
地に足の着いたこの体勢ならば体格差を加味しても一般女性に力負けする妖狐ボディではないはずだが、その辺の理由から見事に抵抗を封じられてしまった。悔しい、腕力さえ使えれば逃げられるのに……!
「ふむ、そろそろ良さそうだな。それではまずは採血から行くとしよう」
そんな僕の無抵抗状態を好機と見た倉尾は、手始めに血液検査から始めるべく採血用の太い針を取り出した。
それを見た瞬間、ビクンと身体が強張るのを感じる。いや別に注射が怖いわけじゃないんだけど。針を刺されるだなんて絶対痛いわけだし、こんなのが嫌じゃないハズがないだけっていうか。すいません本当は怖いです。
「や、やめろぉ! そんな太いの入るわけないだろうが!」
「安心したまえ。入れるのではなく刺すだけだ」
「余計に怖いわ!」
しかしこの恐怖はなんなのか、これまで経験してきた採血よりも一層怖く感じるのだが。
もしかするとこれはあれでは? 身体が小さくなったから相対的に採血針が大きく感じるとかのやつでは? だとすれば僕が怖がっているのは正常な反応ということだろう。なら一安心だな安心できないけど。
「うーむ……飯塚は身体に精神が引っ張られるようなことは無いと言っていたが、これは充分に子供の身体から影響を受けているのでは?」
「いや、司は割とこんなもんだぞ。必要に迫られなければ極力注射をしたがらない。インフルエンザの予防接種も、かかった方がマシだと頑なに受けたがらないぐらいだからな……流石にここまでだったかどうかは怪しいが」
「ふむ? そうなのか。なぜ嫌がる? 痛いのは一瞬ではないか」
「だって注射なんて絶対痛いんだぞ!? 大人だろうが子供だろうが、嫌か嫌じゃないかで言えば嫌に決まってんだろうが! それに痛いのがすぐ終わるんだとしても、今回はその一瞬が何回もあるんだぞ!? 逃げれるものなら逃げたくもなるわ!」
「ふはは、それは違いないな! だが良い大人なのだ、我慢してくれたまえ」
「やっだもーん! やっだもーん! 子供だから注射とかしたくないですー!」
「む、コイツ急に都合よく子供になりおって……」
「いや司、子供だろうと必要な注射はしなければならないぞ」
「くそっ正論で殴るんじゃねぇ! 反論できないだろうが!」
僕は嫌いな注射をなんとか子供のフリをしてやり過ごそうとしたのだが、あっけなくコージに論破されてしまった。
マズイ、このままではヤられる。なんとかしなければ……あっやめろ肘のところで血管を探すな。アルコールか何かがついたガーゼで擦るのもやめろ、順調に準備を進めるんじゃない。
「や、やめ……」
「では行くぞ飯塚、力を抜け。それと危険なので暴れてくれるなよ?」
「待て、よせ、早まるな! 後悔することになあああーっ!?」
そしてそのまま抵抗も出来ず、僕はその太い採血針をブスリと奥まで突き入れられた。
そうなってしまえばあとはもうどうしようもない。採血が終わるまでの間、早く終われと念じながらおとなしく涙目で待つことしか出来ないのであった。
「うむ、終わったぞ」
「うぅ……」
「よしよし。司ちゃんよく頑張りましたねー、えらいえらい」
相変わらず後ろから抱きしめているパナコさんからはまるで小さい子供を相手にするように慰められて頭を撫でられるが、最早その扱いに反抗する余力もない。
というかこのまま子供として甘えた方がメンタルを回復できるまである。つまりパナコママ……って歳ではないな。流石に失礼だ。パナコおねーちゃん……こっちか。こっちだな。僕の方が年上だけど見た目的にはこれで問題ない。これでいこう。
僕は心の中でパナコおねーちゃんに甘えることでなんとか心の平穏を保った。本当は彼女を脳内で姪に置き換えることができたならそれがベストではあったが、流石にサイズ感を始めとして撫でる手つきも匂いも何もかも違うのでどうしてもそう認識できなかったので諦めた。それに友人の従妹を勝手に姪にするのは流石に、寝取ったみたいで倫理的に問題があるし。
「よし、それでは続けて予防接種と行こうではないか。信用できる筋から手に入れたワクチンだ、品質については安心してくれ」
「あっ!? や、やめろ! せめてもう……そうだ倉尾、取り引きをしよう!」
「……ふむ? 取り引き?」
そうやって僕の精神に隙が出来た瞬間を見計らって追撃を喰らいそうになったが、しかしそう易々と看過する僕ではない。
僕が持ち出したのは、頼み込んで注射を勘弁してもらうのではなく相手に利のある取り引きを持ちかけるという手段。計画通り、倉尾はそれに食いついた。コイツは自分に利益が出るならば悪い相談にも乗ってくれるタイプなのだ。あとは魅力的な条件を提示するだけである。何気にそこが最難関な気もしなくはないが。
「そうだな、牛丼……牛丼奢るけどどうよ? もちろんトッピングもつけて良い」
「ハッハオイオイ、医者の給料を舐めてもらっては困るな。その程度で買収されると思ってもらっては大間違いだ」
「うぐっ……なら……身体で……!」
「無理するな飯塚。身体が変わったからといって精神が据え置きでは、男に身体を許すなど堪え難い苦痛に感じることだろう。ちなみにどこまでならばOKだ?」
「何気に食いついてんじゃねーよ」
牛丼による買収が不可能と言われた僕は苦し紛れに自分の身体を交渉のカードに出来ないかと切り出したが、具体的には特に何も考えていなかったので食いつかれても困る。完全にダメ元だったんだが。
ていうかむしろ今のこのロリ巨乳狐娘の身体に対して食いついたらダメじゃねぇかな、パナコさんもお前のことゴミを見るような目で見てるぞ。
「えーと……おっぱい。おっぱい触っていいぞ」
「ふむ、しかし今から打とうとしているのは、お前が半分イヌ科ということで用意した狂犬病ワクチン。これを打たないともなれば相応の覚悟が求められるのだが……そうだな、胸に限らず一晩その身体を全て自由にしていいのならば少しは考えよう。安心したまえ、ホテル代はこちらで出すのでな」
「は? こっちが下手に出てたら調子に乗って足元見やがってそんな条件呑むわけないだろうが」
「よし、交渉決裂だな」
「あっちょっあああー!?」
あまりに酷い条件だったので提示された条件を反射的に蹴ったところ、倉尾は即座に注射を僕の細腕へと突き刺した。
待って、見切り付けるの早いよ! どうしてそこで諦めるんだよ!? もうちょっと交渉したら行けたかもしれないだろうが! いや決してその条件を呑むつもりは無いけど、もっと自分を信じろよ!
そんな僕の心の声など知ったことかと、狼狽える僕を余所に倉尾は手際よく注射を終えると後処理をして次の準備を始めた。
「では続いては、つい最近開発されたというこのエキノコックスワクチン。人間ベースであるが故に野良の狐よりも衛生面に気を付けられる飯塚にとっては感染率も低いはずだが、万が一ということもある。可能性は低いがリスクの高さを考えればこれも打つことをオススメするが、また打ちたくないと交渉するかね?」
その手際は凄まじく、注射の痛みもあって余裕がない僕は思わず勢いに流されそうになってしまう。
恐らく僕の精神が持ち直す前に一気に攻め立てるつもりだろうが、そうはさせない。僕は嫌がるいたいけな少女に無理矢理注射をするような悪徳医者に対し、なんとか口を開いて反撃の手札を切った。
「……僕は知ってるぞ。お前がおっぱい星人だということを」
「む。それがどうした? パナコも知っている周知の事実だ、脅しにはならんぞ」
「パナコさんも知ってるのかよ。いや、それはどうでもいいんだけど……万が一ってことは、あんまり重要度は高くないんだよな? だったら今度こそおっぱいでいけるな!? 何なら尻尾もつけていい! どっちも好きなだけ触っていいぞ!」
「確かに先程の注射と比べれば必須ではない。だがまあその辺りはパナコが詳しいので、代わりに説明してもらうとしよう」
さっきはすぐに交渉を見限られてしまったため、今度の僕は割と最初から破格の条件を突きつける必死さで食らいついた。検査目的ならまだしも、男にエロいことをされると分かっていて胸を触らせるなど反吐が出る。平時なら絶対取らない手段だ。それほどにまで僕は追い詰められていた。
しかしそんな捨て身の交渉は一旦脇に寄せられて、見習いとはいえ獣医を志すパナコさんへと話が振られる。そんな彼女は僕の頭上、左右の狐耳の間から顔を出しながらという締まらない場所からではあるものの、至って真面目な表情と態度で解説し始めた。
「そうですね。狂犬病ワクチンは法令で義務付けられているほど重要度の高い予防接種です。対して狐の寄生虫疾患として有名なエキノコックスは、北海道に出向いたり野良ネズミを捕食しなければまず問題ないので本州にいる限りは安心なはずですが……近年では何件か本州でもエキノコックスの原因となる多包条虫が発見されており、稀なケースではありますが確実に安全とは言い切れない部分もあります」
「つまりやっぱりあくまで万が一の可能性ってこと?」
「ですね。しかしながら、その万が一で感染してしまった場合は……肝臓を始めとして全身の内臓をボロボロにされて、ほぼ確実に死に至ります」
「えっ怖っ」
珍しくまともな態度のパナコさんから語られたのは、思った以上にガチな話だった。つまり超低確率だが重いリスクということか。なるほど理解した。
しかしそうなってくると、如何に注射嫌いの僕といえども話は別だ。インフルエンザとかはどうせかかっても熱出るだけだしと舐めきっている僕だが、死にますとか言われたら流石にビビりまくりのビクビクである。当然ながら注射よりも怖い。
だがその一方で、確率が低いなら……と賭けに出たい気持ちもあった。なにしろ分の悪い賭けではないのだ。注射しなくても高確率で感染を回避できるというのなら、出来ればその方向性で行きたい。でも死んだら姪の成長を見守れないし……ぐぬぬぬ。
「うーんどうするべきか……うーん……うーーーーん…………んんっ!?」
選択を慎重にするあまりすっかり夢中で考え込んでいた僕は、ふと右腕に感じたチクリとした痛みで我に返った。
まさかと思って見てみると、案の定そこには勝手に注射をする倉尾の姿が。えっマジ? そういうことする?
「お前……お前ーー!!」
「残念だったな、時間切れだ。なぁに、注射はするまでが怖いだけだと相場が決まっている。気付かない内にされたならば案外平気なものだろう?」
「それはあるけど! それはあるけども! だとしても人道的に許されることじゃねぇよなぁ!?」
確かに注射の痛み自体は、あとから思えば耐えられないほどではない。現に僕だって嫌がってはいるが、実際にされてみればリアクションはこんなものである。
だがしかし、だからといって許されるわけではない。不意を突いて同意なく突き刺すなどある種の裏切りである。注射というのは医者を信頼しているからこそ身体に針を刺すことを許容しているというのに、その信頼を自ら捨て去ってどうするのか。まぁ僕は信頼がある相手でも基本的に許容しないが。
「フハハハ、問題ない。善良な医者は人命のためならば何をしてもいいと相場が決まっているのだ。それが患者の為を思っての行動ならば、たとえ人の道を外れようとも何の問題もあるまい」
「問題だらけだわ。そんなマッドな思考の医者いたら怖えーよ、一命を取り留めるために化物に改造されるやつじゃねーか」
やはりこの男、知ってたけどなかなかにイカれた倫理観をしてやがる。社会規範の塊みたいなコージと足して2で割って中和しろ。それはそれで変な突然変異とか起きそうで怖いが。
「ま、安心してくれたまえ。次で最後だ」
「ここまでの流れで安心なんか一切できないんだが」
穏やかな表情でそう告げた倉尾だが、一体どこに安心する要素があったというのか。こんなにも短時間で無理矢理に注射されたことは人生で初めてだぞ。絶対次もこっちの意志は無視してやりに来るだろ。
だがそんな僕の警戒する様子を見てか、倉尾はやれやれとかぶりを振った。いやこの警戒、お前が無理矢理したせいなんだけどな。
「最後は人間用だ。とはいえ……うーむ。在庫が余っていたので持ってきたが、やはりこれは必要なかったかもしれんな」
「僕もそう思うわ」
「まだ何の注射なのか言っていないのだが」
いやいや。こっちが考えすぎて時間切れになったらとりあえず無断で注射するようなお前が、要らないかもって迷うぐらいだぜ? それってつまりよっぽど必要ないってことじゃん、もう詳細聞くまでもなくない? 少なくとも僕はそう思います。
「ちなみに先生、それって何のワクチンなんですか?」
「去年のインフルエンザだ」
「絶対いらないやつじゃねぇか」
いや、思ってた以上に要らないやつ来たな。インフルエンザって確か、毎年型が変わるとか変異するとかでシーズン跨いだら役に立たないやつじゃん。そんなこと僕でも知ってるのに、なぜ持ってきたし。
「うーむ……やはりそう思うか。となれば残念だが今回は引き下がるしか……いや待てよ? 抗体として役に立たないにしても有害ではないのだから、打っておく分には問題ないのでは?」
「えっマジ? そういう結論行く? お前もう注射打ちたいだけじゃん」
なんなのコイツ怖っ。必要なくても針刺そうとするとかサイコパスかよ。必要ないって言葉の意味は知ってるんだよな?
そんな風に軽くドン引きしていた僕だったが、流石に見かねたのかこれまで静観していたコージからの援護射撃が飛んできた。
「やめておけ倉尾、流石にそこまで無駄に患者を痛めつけるだけの行為は俺としても容認できない」
「いいぞいいぞコージ、もっと言ってやれ!」
「どうしても注射し足りないというのならば、まだ意味があるニンニク注射などにしておけ」
「おお、その手があったか!」
「コージ?」
おっとぉ? 流れがおかしくなってきたぞぉ? 待ってお前味方じゃなかったの? 援護射撃だと思ってたら後ろから撃たれてただけなんだが?
「……いや、でもニンニク注射も要らなくね? この身体になってから全然疲れないし、そもそも家でゲームしてるだけだから疲れようがないぞ?」
「チッ、そこに気が付いたか。仕方あるまい、今日の注射はここまでにしておいてやろう」
「なんで残念そうにしてるんだよ」
もはや完全に悪ノリで悔しがる倉尾であったが、ようやく注射が終わったのかと僕はホッと一息ついた。
つまり逃げ出す理由もなくなったのでこれまで抑えつけていたパナコさんの役目も終わり、僕も拘束から解放され……されないな。ずっと尻尾を掴まれてる。やっぱこの人ただモフりたかっただけじゃん。
「ま、冬が近付いてきたらまたインフルエンザの予防接種でも受けに来てくれたまえ」
「ああ気が向いたらな」
「いや、子供のインフルエンザは重症化しやすいのでな。割と真面目に検討しておいた方がいいぞ」
「げっ……そっか、そういうのもあるかぁ」
そんなやりとりも一段落してようやく落ち着きを取り戻した倉尾の言葉に、子供の身体のデメリットを気付かされて少しげんなりしてしまう。今までは風呂場やベッドが広く感じるとか全然疲れを感じないとか、メリットばかり実感していたものだが……言われてみれば確かに大人の身体よりは病気などにも弱いだろう。となると流石に予防接種も検討するべきか……嫌だなぁ。できればやりたくないんだけど……
「うーん……子供の身体で重いインフルエンザ、あるいは予防接種の注射1回。どっちにするべきか……」
「む? 何を言っているのだ、飯塚」
「ん?」
僕にしては珍しく、注射を検討して結構真剣に悩んだのだが。そんな殊勝な思考はしかし、倉尾のある言葉によって跡形も無く掻き消されることとなる。
「子供のインフルエンザの予防接種は2回行うものだぞ」
「あっ」
言われてみればそうなのだ。姪も毎年、何週間か空けて2回目の予防接種を受けていた。くそっ、なんでなんだよ! 子供の身体って不便すぎるだろ! 元の身体に戻りてぇ……!
「よし、手洗いうがいはしっかりするわ」
「本堂よ、しっかり連れて来るんだぞ」
「ああ」
僕が決意と共に宣言した感染対策案はしかし即座に棄却され、また今度社長によって病院へと連行される約束が取り付けられた。
そんな当事者の意思を完全にスルーした逆らえないやりとりを尻目に、僕は死んだ目で憂鬱になりながらも。
完全にそんなやりとりの蚊帳の外で幸せそうに毛並みを堪能するパナコさんに、ただただ尻尾を弄られ続けていたのであった。




