第17話 決断と、想定外 ~リドリト視点~
“悪者”が屋敷にやってきた日は、すぐに分かった。
その日は朝から屋敷内が騒々しかった上に、ノイマンから「今日はなるべく、お部屋から外に出ないでください」と言われたのだ。
ノイマンは、それ以外には何も言わなかった。
でもいつも分かりやすいくらい分かりやすいこの男の表情が強張っている。
それだけで俺には十分だった。
元々この家に人は、多いけど少ない。
多いのは、この屋敷には使用人がいつもたくさんいるからで、少ないのは俺が普段から話をする相手が少ないからだ。
「兄さま。今日、お父さま、帰ってきた?」
「いや、多分違う。だから大丈夫だよ。俺たちが呼ばれる事はない」
ギュッと俺の服の裾を握る弟に、できるだけ安心してほしくて笑う。
弟だって、いつもと違う屋敷内の雰囲気を、分からないまでも敏感に感じ取ってはいるのだ。
この日俺は、俺の言葉に安心したようにふわりと微笑んだこの弟は。
純粋に俺を慕ってくれて、必要としてくれて、泣き虫なこの弟は。
俺のたった一人の“大切”は。
――必ず守ると改めて心に誓った。
俺たちの部屋は本来別々にあるが、今はニーケと同じベッドで寝起きしている。
お母さまがいなくなって以降、ニーケは眠れなくなった。
毎日寝る時にか必ずベッドの中でお母様と「おやすみ」の挨拶をしていた弟にとって、そうでないベッドはひどく心細いのだろう。
俺がお母様の代わりをやっても、意味はなかった。
それでもこうして一緒のベッドに入れば、ニーケは安心するらしい。
眠れるようになったニーケの隣で、俺も寝る。
思いの外ニーケと同じベッドの居心地がいいのは、父と母と俺たちの姿を見て怒りに染まった《《あの人》》の顔を直視したからか。
それともその後《《あの人》》が、母を思い切り張り倒した瞬間を見てしまったからだろうか。
ニーケはあの人を怖がっている。
優しかった母にあんな事をしたんだから、そうなるのも当たり前で、それは俺だって同じだった。
でも俺はもう十二歳だから。
社交界デビューも既にして、弟だっているのだから。
少なくとも弟の前で怖がっているそぶりは見せられないと思った。
俺が怖がったら、俺しか頼れない弟は、きっともっと怖い思いをする。
だから。
怖いものは、怖い。
でも怖がってはいけない。
それでも怖い物が来たのなら――先に仕掛けて追い出せばいい。
《《あの人》》相手には無理だけど、新しく来た“悪者”相手にならできる。
意地悪される前に意地悪をして「嫌だ」と思ってもらえれば、もしかしたら直接「出ていけ」と言わなくても、勝手に出て行くかもしれない。
そう思って、ノイマンに「ダメだ」と言われていたけど、あの女の様子をコッソリと見に行った。
退治しようと、色々とした。
中々うまくいかなかったけど、庭でついに水を浴びせる事ができて。
これできっとあの女は、泣いて引きこもる。
そう思ったのに、やり返された。
その上逃げたら次の日の朝に、部屋まで押しかけられた。
やる事は一々過激なくせに、言っている事はそうでもなくて、何だかひどく混乱した。
その後あの女のところに乗り込み、魂胆を聞いてやる事にした。
……温厚だったお母様とは正反対と言っていい程の女なのに、不思議とお母様の事を思い出した。
理由はよく分からない。
久々に、大人の女と長く話したからか。
それともあの女がした両親の話が、少なからず母親との思い出と被ったからか。
ホッとした様子のニーケが、あの女と同じテーブルで、あの女の淹れたお茶を美味しいと言って飲んだ。
ニーケが怖がらないなら、今はそれで十分だ。
でも俺は、簡単に騙されてなんてやらない。
ニーケが昼寝をしたのを確認し、ベッドから抜け出してノイマンと一緒にあの女のところに行ってやった。
何か隠している事がある。
理由もなくそう感じたからだったが。
――両親を殺した奴の復讐がしたい。
あの女が言ったのは、ニーケに言えなかったのはソレで、そのために邪魔のない生活環境が欲しいらしい。
自分が望むのは、それだけだ。
あの女はそう言った。
物騒な話だ。
優しくて純粋なニーケには、とてもじゃないが聞かせられない。
聞いたのが自分だけでよかったと思った。
しかし同時に、俺は選択を迫られた。
あの女を許容するか、しないか。
復讐の話を漏らしたら、あの女は誰かに殺されるらしい。
それを俺たちに敢えて話したのも、命令でも脅しでもなく敢えて「選択権は貴方にある」としたところも、とてもズルい。
ズルい大人だ。
でも、ズルい大人はどこにでもいるものらしい。
「自分がいなくなった後、また別の方がリドリト様たちの母親に建てられる可能性がある。この件については、私も同意です」
決断するのはいつでもいい。
そう言われ答えを出さずに部屋を出た俺に、ノイマンはそう言ってきた。
「でも気に食わない。あいつはズルい」
「リドリト様があの方のどの辺を『ズルい』と感じたかは分かりませんが、社交界に出れば先程のあの方の何倍もズルくて嫌な大人はいらっしゃる事でしょう」
「分かってる。俺たちは出自に問題がある。俺も去年、社交会で散々色々と言われた」
それも、今は俺だけだからまだいい。
問題は、二年後には同じく社交場に出なければならなくなるだろうニーケが、そういう悪意に突然晒される事だ。
「あの方で練習するのも手です。こちらはあちらの弱みを握っていますから、ある程度ニーケ様への当たりの強さを制限する事は可能でしょう」
「それは、まぁ」
そう思えば、あの女の毒で少しずつにでも慣らすというのは、案外いい案なのかもしれない。
一日悩んで、翌日の午前中。
俺はまたあの女の部屋に出向いてやった。
両腕を胸の前で組み、仁王立ちで胸を張り、口を開く。
「俺の望みは、ニーケが笑顔でいる事だ」
「えぇ」
「ニーケを守る。それが俺の一番大切な事だから、それが脅かされるくらいならお前の事なんて知った事じゃない。秘密なんて守らないぞ」
「ならば、私も彼を守る手伝いをすれば問題ないわね」
漏らされては困る秘密なら、漏す気にさせなければいい。
如何にもそう思っていそうなあたり、はやりこの女はズルい。
まるでこの前本で読んだ、聖書の中の堕落を呼ぶ悪魔のようだと思った。
その悪魔に呑まれないように、俺はキッとあの女を睨む。
「監視する」
「いいわよ? 私は逃げも隠れもしない」
「お前が悪さしないように、俺が見張ってやるからな!」
「えぇ、ありがとう」
お礼を言われ、思わずたじろいでしまった。
何故礼など言われねばならないのか、一瞬分からなかったのだが。
「そういう話が出たという事は、私の同居を許容してくれるという事なのでしょう?」
「っ! 別に、お前のためじゃあないからな! 俺たちのために、お前を利用してやろうってだけで!」
「ふぅん? 利用ねぇ」
訳知り顔になったこの女は、おそらく今のやり取りで、こちらの内心の八割くらいは見透かしてしまったのかもしれない。
それを忌々しく思いながらも、どうにかする手立てなどまるで持っていない自分が無力で悔しい。
絶対に仲良くなれない!!
ニーケもこいつには極力近づけない!
そう、心に決めた。
……のに。
「兄さま! 早くゼリアさんのところに行こ!」
「ちょっ、分かったから、引っ張るなって!!」
何で今俺はニーケに引っ張られて、連日あの女の部屋に出向く事になっているのか。




