第16話 人生を揺るがす僕の決断 ~王子・ディートリヒ視点~
「何故ゼリアと僕の婚約を、何の断りもなく破棄したのですかっ!」
もしかしたら今まで生きてきた中で、ここまで声を荒げたのは初めてかもしれなかった。
普段は大人しい――もとい、気弱だというのを自他ともに認めるような僕だから、食って掛かられた父上は、さぞかし驚いた事だろう。
その証拠に「ちょっ、ちょっと待て」と珍しく慌てた様子だった。
普段ならそんな父上を前にして「困らせてしまって申し訳ない」という気持ちになっていたかもしれないが、今回ばかりはそんな事はどうでもいい。
「あの娘の家は、没落も同然だ。一年間、王都の社交場にも顔を出せぬ。それどころか『そういう処分を受けた』という事実は、一生あの娘の汚名として付きまとうのだぞ。そんなケチの付いた娘をお前の妻なんぞに――」
「それでも僕は、破棄など決して望まない! ゼリアならきっとそんな汚名も笑って吹き飛ばすだろうし、僕だってそんなゼリアと共に人生を歩みたかった!」
「そもそもあの娘は当初から『悪女』として名が知れていた。他の令嬢たちにも厳しい物言いをしていたそうじゃないか。王族は、皆に好かれねばならぬ。爵位の関係上捨て置けなかったというだけで、元々お前に相応しい娘ではなかったのだ」
「しかし!」
だからといって、何故僕に内緒で早急に、事を進めてしまったのか。
既に王命は下された。
王命は通常、覆らない。
それこそ父上本人が、撤回しない限り。
だからこうして一縷の望みをかけてここまで来たというのに、父上はまるで聞く耳を持たない。
「お前は王子だ。お前ばかりがよくても、周りがよくなければよくないのだという事は、お前もよく分かっているだろう」
その言葉で、思考に冷や水を掛けられたような気分になった。
王子としての立ち回り、王族の心得と立ち居振る舞い。
それらは幼い頃から帝王学と称して、自分の根底に植え付けられたもので。
「……しかし、ゼリアは何もしていません」
「実際にしていないかどうかは、関係がない。彼女の家が、後見人の叔父たちが、お請けを蔑ろにし、欺こうとしたのだ。……これでも刑は軽くしたのだ。私もあの娘には、同情したのでな。これ以上の譲歩は出来ぬ」
そう言われれば、黙らずにはいられない。
ここに来る前に、ゼリアがどういう経緯で自分との婚約を破棄するに至ったかは、きちんと調べてきた。
たしかに叔父夫婦が犯した罪に対して、軽い処分だという印象は僕も抱いた。
これ以上の恩赦を与えれば、方々に示しがつかなくなる。
分かっている。
分かっているのだ。
それでも。
「僕は、ゼリアを愛しているのです。伴侶とするなら彼女だと、妾も側室も要らぬと思える程に……!」
彼女が周りからどういうふうに言われているのかは知っている。
実際に、彼女は歯に衣着せぬ物言いをする事が多く、彼女の後見人である叔父夫婦の素行の悪さも相まって、彼女という人間の人柄が誤解されている事は多い。
しかしそれでも彼女の言葉はいつも間違っていない。
少し潔癖のきらいこそあれど、一定の正しさは持ち合わせている。
そしてその正しさに、誰に何と言われようともいつもしゃんと伸びている背筋に、私は彼女の高潔さを見た。
気弱な僕にとって、彼女は理想の僕であり、憧れると共に不器用なところが、愛らしく思える人だった。
そんな人は初めてで、まさか自分が王族にあって愛する人と婚姻を結べるとは思いもよらず、自身の幸運を噛み締めた。
もうすぐだった。
もうすぐ僕は十八になり、正式にゼリアと婚姻を結ぶ。
その日はすぐそこまで来ていたのに……それなのに!
「諦めよ、ディートリヒ。元々王族の婚姻とは、妻となった者を慈しむ事で成立するものだ」
如何にも父上の言いそうな言葉だ、と思った。
そもそも父上は、家庭よりも国を優先する方だ。
為政者としてのあるべき姿はそちらなのだろう。
それは、分かる。
分かるが、世の中には国も家族も両方を大切にしている王もいるのではないか。
同じ血を継ぐ者としてそれ程の技量が父上にも僕にもないというのなら、僕が選ぶのは……。
「臣籍降下でもすれば、好きな相手との婚姻を認めてくれますか」
「ディートリヒ!」
「それ程までに、本気だという事です。そしてこれは世迷言ではない」
ピシャリと言うと、父上は押し黙る。
「僕は第五王子です。長子であるグラン兄上は才覚に溢れ、健康上の問題もない。次子であるノイン兄上だって、補佐役として十分な働きを見せ、最悪の場合にもグラン兄上の後を任せる事ができるでしょう? 王族教育を受けているとはいえ、所詮僕は他国に嫁ぐ繋ぎ役の一つ。貴方は政治上のコマをたくさん《《作った》》。何も僕である必要はない」
父上は、ひどく驚いた顔になっていた。
僕がここまであけっぴろげに、面と向かって言ってくるとは思いもしなかったのだろうか。
だとしたら、言ってやりたいものだ。
貴方は僕を、やはり一個人として見てはいなかったのだ、と。
多くの側妃を迎え、子を孕ませるだけ孕ませて、あとはそのまま放置だった。
生活に困る事こそなかったけど、少なくとも僕は自分の存在意義を見つけられなかった。
それに悩みもした。
その時に私の手を引いてくれたのが、思った事をまっすぐに言う、忖度なんて微塵もなくて、意外と優しくて強い令嬢・ゼリアだったのだ。
「ずっと考えてきた事です。僕は王族でいるよりも、彼女の夫になりたい。僕が支えてもらったように、僕も彼女の支えになりたい。そのためになら、今の立場をも捨てる覚悟は既に決まっているのです」
幸いにも、というべきか。
母上も僕に大した執着はない。
平凡な僕より、非凡な弟に今は執心しているところだ。
事を運ぶなら、今の内だ。
弟の非凡の底が見え、それでも尚グラン兄上やノイン兄上に劣ると分かれば、あの人はまた途端に興味をなくし、僕の方にもまた目が向きかねない。
母上がそうして、自分の強い後ろ盾となり得る他国の姫などを新しく見繕って来たら。
その時こそ僕は本当に、ゼリアとの未来を諦めねばらならないだろう。
だから、その前に。
「失礼します」
ここで言うべき事は、すべて言い終わった。
踵を返し、部屋を出る。
こうして父上に話したところで、状況が上手く転ぶ――ゼリアが僕の婚約者に戻る可能性は、十分の一もないだろう。
それでも今は、今できる事をするべきだ。
ゼリアが長年虎視眈々とあの叔父夫婦を《《見ていた》》ように、僕もまた自身のやりたい事を為すために。
「……ははっ、ゼリアにはまだまだ程遠いな」
廊下を歩きながら、僕は小さく笑ってしまう。
先程までの緊張が、今になって体に現れ始めた。
手が震える。
止まらない。
そりゃあそうだ、他人に意見するなんて、しかもその相手があの父上だなんて、緊張しない方がおかしいのだ。
「慣れない事をするからこうなる、と、ゼリアならきっと笑い飛ばす」
カラッと笑う大輪のヒマワリのような彼女を、思い出す。
あの笑顔を特等席で見るために、僕はきっとゼリアを迎えに行く。
「まずは、ゼリアに会うところからだ。婚約を破棄された以上、屋敷に行ったと方々に知れれば妙な憶測を呼ぶ。そんな事を父上は許さないし、ゼリアだって嫌がるだろう。となると、やはり社交場か。父上は、王都での社交を一年間禁止した。ならば他の場所で行われる、有力者の集まる社交場には……!」
考えなければならない事も、準備しなければならない事も、数多い。
それでもまずは、ゼリアに会う事。
それを目指して、僕は思考を巡らせるのだった。




