第4話「愛の園2」
〈シズカ〉足音、衣擦れ、発声、あらゆる音を消すことができる魔術をナナは自身に施す。それ程、難しい魔術ではない。詠唱も陣も必要ない程、単純な魔術である。
しかし、その単純な魔術をナナは恐ろしく精密に行うことが出来た。通常はある程度の広さをもつ空間に対して用いる魔術なのだが、そうすると辺り一帯の音が全て消えてしまい寧ろ、異変を悟らせてしまうことになる。
その為、〈シズカ〉は普通、対人には向かない魔術である。しかし、ナナは足音だけを消す、特定の人物の発声を妨害すると言った局所的な魔術の行使が可能であった。
ナナは建物に近づく。誰もが寝静まる頃――ではない。建物からは灯りが漏れ、くぐもった声が聞こえてくる。ナナは顔を顰める。
姦淫が悪徳とされていたのは今は昔のことだ。互いの合意があれば、それが罪になることは無い。それでも、ナナは建物に踏み入っていくのに忌避感を覚えた。
愛の園、その拠点をナナは仰ぎ見る。多くの者が寝静まる時間帯、赤く染まった建物は薄気味悪く暗闇に浮かび上がっている。
逡巡は一瞬だった。ナナは開いている窓を見つけるとするりと入り込む。スーは今、エハドの相手をしているはずだ。その間にナナは地下へのルートを見つける、その予定であった。
……おかしい。ナナは建物1階を探索しながら焦燥を感じていた。一向に地下へと続く道が見つからない。果たして、本当に地下が存在するのか? 余程、巧妙に隠されているのだろうか。使用中の部屋に隠し階段があればお手上げである。
今回は撤退を考えた方がいいかもしれない。けれども、どうやってスーは地下の存在を掴んだのだろう。
ナナは思考を止めた。違和感を覚える。空気の流れさえ感じない。いや、違和感ではない。この感覚はよく知っていた。今も使用中の魔術〈シズカ〉である。
……空間全体に作用している。すなわち、ナナが行使する魔術ではない。
「こんばんは、子猫ちゃん」
突然、静寂が弾けるように声が発せられた。ナナは振り返る。そこには色黒の男が立っていた。外見から年齢は30歳程度と推測される。
そして、両腕に女の子を侍らせていた。片方は恐らく元からの愛の園の一員だろう。そしてもう片方はスーであった。恍惚とした表情を浮かべ、どう見ても視点が定まっていない。
「うーん、色々尋ねたいことはあるけれど、まずは君、僕のハーレムに入らない? 好みじゃないけど、この子の友達っていうのなら特別にいれてあげてもいいよ」
ナナはとんでもない失態を犯してしまったことに気づく。どのタイミングだろうか。スーは傀儡にされてしまっていたのだ。
そして、ナナはまんまと誘き寄せられたのだ。どんなに卓越とした隠密技術も相手に待ち構えられていては意味がない。
「答えてくれないかー。じゃあ、捕らえるしかないかな? 君たちが一体、何者なのか教えてもらおう」
色黒の男、エハドは言った。それを号令としたように部屋から女達が集まってくる。
その瞬間、ナナは駆け出していた。捕まる訳にはいかない。窓を潜り抜ける。ナナは夜の町を疾走した。追手は来なかった。
スーは今の所、これ以上害を加えられることはないだろう。大事なハーレムの一員だ。
ナナの脳みそは冷静に働き続ける。一度、体勢を立て直さなければいけない。組合長にも連絡だ。
冒険者組合エージェント、ナナは立ち止まった。もう、何度目の絶望だろうか。しかし、ここで終わりにする訳にはいかない。
「大丈夫だよ、スー。ボクが必ずし助ける」
ナナは呟いた。




