第322話「その本は……」
1冊の本があった。
それは、連綿と続く時間の中で、綴られ、編まれ、1冊の本となった。
それは、万物の言葉であり、万人の歴史である。
その本は、大勢の人間に読まれた。
その本は、大勢の人間を殺した。
その本は、大勢の人間を救った。
その本は、歴史を変えた。
その本は、道標である。
その本は、契約である。
その本は、門番である。
命の扉の守り人は、運命の行く先を示した。
その本は……
「面白い」
若しくは、興味深い。大君の奉仕者たる「ますらを」の書きぶりは、運命の責務を果たそうとする偉大なる殉教者に通ずるものがある。
「この「うつせみ」というのは、神と人との繋がりを意味しているようだね」
神を礼賛し、人の営為を称える、これもある種の讃美歌と言えよう。『万葉集』に記された詩歌は光り輝く宝玉のようであった。熱く滾るような言葉の奔流は、その熱が冷めても失い難い光を放ち続けるものだ。夢中になって頁を捲る。
「……原書では無いか」
恐らく写本の1つである。これ以外にも多くの『万葉集』が歴史において、単一の図像を描き出し、1つの体を成した。それがバンカだ。膨大な書籍の蓄積が可能にした特別な魔術書である。
「ああ、古くから紡がれてきた言葉が今でも反響している」
物語は人よりも遥かに長い時間を旅する。物語であっても時間による損耗からは逃れることが出来ない。時間の経過により物語は時に欠落し、時に変質する。しかし、それでも、物語は時間も空間も超越し、世界を渡っていく。だから、物語を記す数々の本はきっと神に祝福されている。
「でも、ふふふ。最も祝福を受けている本は、明らかだ」
世界には様々な本が存在している。それらは誰かの言葉であり心である。だから本は、人の心の数だけ存在し得る。そうした無数の中に、1冊の本があった。その本は、あの世界で最も多くの言語に翻訳され、最も多くの冊数が出版された。その本は、愛の根拠となった。その本は、戦争の口実となった。
「くっくっく。名乗る必要もない」
名前は、重要である。名前は事物に意味を与える。祝福、呪い、願い、忌避。名付けとは人の心の中にあるものに形を与える行為である。だから、本にもきっと題名が必要だ。名が与えられることで捉えどころのない文字列は1冊の本になる。しかし、名を呼ばずとも、唯一「その本」と呼ぶことのできる本がかつて存在した。
その本は、”天国の”門番にして福音を伝える忠実なる神の従者である。或いは、その本は……
第107話を見返して頂けたら、面白いかも。




