第194話「空と夢5」
「話?」
「ええ、何かご用件があるのでしょう。だから、近づいて来た」
「うん、そうだね。その通りだ。何から、話せばいいだろうか。話したいことは沢山あるんだ。鏡の世界に招いたのはそういう理由もある。見てもらった方が理解が早いと思ってね」
少年は語る。
「高層建築群を見ただろう。あれはかつて実際に存在した光景だ。そして今は、どこにも存在しない光景だ。それどころか過去を探っても未来を探っても、あの光景は存在しない」
少年が歩み寄って来る。
「近寄るな」
御者の少女が飛び掛かる。本当に喰い殺すつもりか。ナナは慌てて、間に割って入る。腕に少女の歯が食い込む。手より先に口が出るとは、獣の習性だろうか。
「……すみません」
「大丈夫。ボク、傷の治りは早いですから」
「話に熱が入った。一歩引くとしよう」
少年は宣言通り、大股で一歩後退る。
「技術的には可能だ。だが、実現は出来ない。何せ、世界の秩序は崩壊することになるのだから」
「秩序の崩壊、ですか」
スーはただ言葉を繰り返す。ナナも脳内で少年の発言を反芻することしか出来ない。
「そう、世界は十分に破綻していくことになる。望ましい世界だ。世界なんて滅びてしまえばいい。それが定められた運命の形だ」
狂っていうるのだろうか。しかし、少年の語りはあくまで冷静である。
「道のりは既に決められている。それは世界の法則だ。鏡の結晶は世界への扉。既によく見てきたことだ。――これは善意なんだ。ずっとここにいると良い。余計な苦しみを負わずに済む」
「お断りします」
スーはキッパリと断る。当然だ。ナナも同じ気持ちである。こんな所に居続ける訳にはいかない。
「そうかい。まあ、いいさ。それぞれの歩幅で進めばよい。だが、混雑は避けたほうが良いだろうね。今ここにいる価値とはまさしくそれだ。進めばいつだって当たるものだが、傷は少ないほうが良い」
少年は自身の理論に取り憑かれているように見える。感情的では無い。だが1つの理論に妄執するのは感情的になる以上に厄介である。感情に囚われているのならば冷水でもかけてやればよい。だが、冷水で理論の牙城は崩せない。故に理論に囚われた者は何でも出来てしまうことだろう。
「話は終わり?」
「うん、終わりだ」
「では、行きましょう」
「行ってらっしゃい。いずれ、また選択の時に」
少年は案外、あっさりと解放してくれた。
「……彼の語ったことは正しいと思いますわ。彼は世界の多くを見てきた。だからこそ紡がれた言葉だと、私には感じたのです」
馬車が飛び上がってからしばらくして皇女が言った。しばらく注意を払っていたが妨害は無かった。雨が昇っていくこともない。
「ですが、正しいからと言って、それが全容であるとは限らないわ。ようやく決心がつきました。神聖狼馬帝国の隠された目的について語りましょう」




