第190話「空と夢1」
逆立ちの少年に導かれて馬車は進んで行く。周囲の風景は水面に映る風景のように揺らぎ、流転していく。
いつの間にか町は消え去っていた。木々も消えた。道も無い。続いて現れたのは凍える大地であった。雪が吹き荒れ、外が見えにくくなる。だが、それも消えて、ナナ達は河を渡っていた。流れは強かったが、足腰の強いペガサスは流されることなく渡り切った。
それから切り立つ山の斜面が現れた。草原が現れた。砂漠が現れた。或いは村があって、城壁があった。馬車が止まる。ナナは心が疲弊して少しぼんやりしていた。その場の皆、そうであったのだろうか。幾らかの空白の時間の後に扉が開かれる。
ナナ達は馬車から降りた。
周囲の風景は実に奇妙だった。薄汚れた雲を長方形に切り出したような建物が無数に立ち並んでいた。そして建物群は低く暗く唸りを上げているようだった。人の気配は無い。立ち並ぶ建物の区別をナナは出来なかったが、逆立ちの少年はその1つに迷うことなく進んで行った。ナナ達も少年に従って建物に歩み寄る。
建物に入ると、少年は廊下を進む。廊下の突き当たりで立ち止まると、少年は器用に片手で立ち、何らかの手順を行ったのだと思われる。
目前の扉が開き、小さな部屋が現れる。少年は小部屋に入った。当然、ナナ達もそれに倣う。扉は静かに閉まり、その一瞬後にナナは浮遊感を覚える。これは大都コーサカにあった馬車を昇り降りさせた機構と良く似ている。だが、あれよりも一層洗練されていた。全ては無音の内に行われる。
ナナはその時、この天空の世界に来てから、まだ音を聞いたことが無い事に気がついた。自分達より生じる音の他に、音を耳にしていない。そして、それは目に見える幻惑よりもずっと恐ろしい事のように思われた。
扉が静かに開く。少年に導かれてナナ達は進んで行く。少年は確固たる足取り、或いは手取りで進んで行く。そして不意に消えた。皆が立ち止まる。
少年が消えたその先には扉があった。滑らかで均質な扉である。ナナが扉を押すと、扉は音も無く開いた。スーが小さく悲鳴を上げる。
部屋に歩み入る。部屋は三方が壁で囲まれ、一方が一面、窓であった。広い窓からは均質な光が降り注ぐ。部屋の内は極めて質素であった。机が1つ。椅子が1つ。どちらも素朴な作りのものである。だが、極めて精緻であった。隠れる場所は無さそうだが、少年の姿は見当たらない。
ナナは椅子に近づく。逆立ちの少年はどのように椅子に座るのだろうか。そんなことを考える。ナナは少年の思考を追うように椅子に腰掛ける。
「ナナ!」
スーが叫んだ。スーと目が合う。その瞬間、何もかもが消えた。




