第189話「杞喜-再演」
最も確かなものとは何だろうか。実に素朴な疑問だ。
頭上に広がる空は確かなものだろうか。けれども、疑り深い者、或いは実際にその現象を体験した者は、空が落ちてくるかもしれないと考えることだろう。
足元から伸びていく大地は確かなものだろうか。人は大地に生まれ落ちて、成長していく。偉大なる大地は命を育む。だが、大地は地下に眠るものを覆い隠す。大地は内包する全てを詳にすることは無い。
それでも上に天があり、下に地がある、その事実は覆し難い、確かなものとして存在していると思う。もちろん逆立ちすれば天地を逆とすることは出来るが、天から地へと向かうその方向性の力は疑いようが無い。
だが、もしその確かな力が反転したら何が起こるのだろうか。
ナナは窓から外を眺める。地面は遥か彼方にあった。そして未だに落下を続けている。いや、引っ張り上げられているといった方が適切か。兎に角地面に落ちるのとは逆である。そうして随分と長い間、落下し続けているように感じたが、実際には刹那のことであったかもしれない。馬車は落下を停止した。衝撃は無い。幸い馬車が破損することも無かった。
「降りましょう」
皇女が言った。扉が開けられる。御者が現れ、手を差し伸べる。ナナ達は順に馬車から降りた。
「ここはどこかしら?」
足元には一面に水が湛えられていた。小波ひとつ無く、姿見のように自身の姿が見える。ナナは足元から目線を逸らした。そして周囲を見る。何も無かった。遮るものは無い。
「地面が見える」
スーが言った。ナナは足元に目線を戻す。目線を凝らすと、水を透かして、眼下に地面が見えた。ナナは身震いをする。
「落ちないのかしら?」
皇女が言う。本来の意味での落ちるだろう。天から地へ向けての落下。いつ、水面をすり抜けて落下するかは分からなかった。
「何か、この現象や場所に心当たりはありますか?」
「無いわ」
「私もありません」
御者の少女も答える。
「ここには誰か、いないのかな?」
エイユーが言った。人影は見当たらない。遮蔽物も無い。だが、エイユーの言葉に呼応するように人が出現した。逆立ちの少年。器用に両手で立ち、無表情にこちらを見上げている。そしてゆっくりと歩き始めた。
「着いて来いということかしら」
一同は馬車に戻るとゆっくりと追跡する。馬にとっても驚愕の体験であった筈だが、さすがはペガサスということだろうか。足取りはしっかりとしていた。馬が少し進む度に周囲の様子は様変わりしていく。道が現れた。木々が現れた。町が現れた。惑わされているのだろうか。
砂漠は時に嘘をつく。果たして、この水面の世界はどうであろうか。




