第175話「日々を糧に」
「大丈夫、大丈夫だからね。神様が見ていて下さる」
母は子を強く抱きしめる。逃げるのは間に合わなかった。ただ見つからないように祈るしかない。突如として現れた軍隊は町を破壊し尽くして行く。奪い尽くして行く。母と子がいる建物に1人の兵士が入って来た。屈強な身体つきの男だ。そして母と子を見つけ出す。
「逃げるのが間に合わなかったのか」
兵士は呟いた。
「お願い、子供には手を出さないで」
「……可愛いな」
母はゾッとする。
「子供に手を出したら呪ってやる」
母は噛みつかんばかりの形相で兵士を睨みつけた。
「……娘に似ていると思っただけだ」
兵士は無造作に椅子に座る。
「俺は手を出さないよ。それは仕事では無い。俺の仕事はただ、北に損を与えるだけだ。戦争を継続することを損だと思わせる。その為に町を壊す。そのような訓示を受けている。決して人を殺して来いなんて言われていない」
兵士はぶつぶつと語る。母は恐怖しながらもその言葉に耳を傾ける。
「俺は不真面目だからな、命令されていないことはやらない」
「見逃して、くれるんですか?」
「俺はな」
兵士は立ち上がると、出ていった。
母は嘆息する。夜まで待てば、兵士たちは一度引き上げて行く筈だ。その隙に逃げよう。一瞬一瞬が針が皮膚を刺すように感じた。時間の流れは際限なく引き伸ばされていく。無限にも思われたが日は段々と落ちていく。
もう少し、もう少し。そう思っていると扉が開いた。若者が2人入って来る。鍛えてはいるのだろうが線は細く感じられた。
「あの、助けて下さいませんか」
母は思い切って若者の前に進み出でた。子はクローゼットの中に隠す。
「おい、人が残っていたぞ」
「本当だ。運いいな」
若者は母の言葉など耳に入っていないかのように会話をする。その語調は軽かった。
「運が良いって。そんな訳ないだろう」
「でも、実際に使ってみたらどうなのか気になるだろう」
「それは、そうだけれど。でも――」
「お前は意気地無しか。みんなやっているんだ。それに本当の男になれる筈だ。親父みたいなクソ野郎じゃない」
「お願いします。どうか助けて下さい」
母は屈むと手を床に付けて深々とお辞儀をする。若者はやはり母の声など聞こえていないように、背負っていた筒状のものの先端を母に向けるように構える。そして破裂音が響く。
「ヤベ、撃っちゃったよ」
「本当にヤベーよ」
母は、背中に熱い液体が流れていくのを感じる。力が入らない。失敗した。自分から姿を現すなんて馬鹿みたいだった。いや、どのみち見つかっていた。だからこそ、子供だけは見つからないように囮になったのだった。
でも一縷の望みを持ってしまった。もしかして見逃してくれるのではないか。あまつさえ助けてくれるのではないか。結局ことは上手く運ばなかったが、囮が上手くいったのならば良かったとしよう。そんなことを考えていると衝撃が続け様に襲う。だが、既に感覚は麻痺し始めていた。
「ヤベ、撃っちゃった、撃っちゃった」
どうか、我が子は上手く生き延びておくれ。母は今際に強く願った。




