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最終話 『大好き!お兄ちゃん☆』〔3〕



 告げられた、さよならの言葉。一切を拒絶するかのような美沙の瞳に、僕は映っていなかった。


 美沙をつなぎとめたかったのに、その手を放したくなかったのに、何も言えなかった。

 何を言ってももう、届かないような気がした。僕を「お兄ちゃん」と呼ぶことを、やめてしまった美沙。


 けれども僕の心の中を占める美沙の存在は霞むことなく、揺るぎない気持ちは、まだ美沙を想っている。

 一方的に切った電話。ケータイのボタンをカチカチとわけもなくいじりながら、やがて飽きた僕はそれをたたむ。


 そのまま、ジーンズの後ろポケットにねじ込んだ。電話しておいて勝手に切って……何をしてるんだ、自分は。


 居酒屋の玄関先、ベンチに座り、僕は夕方の曇り空を見上げた。今夜は、星は見えないだろう。

 聞いた話によると、美沙の母親は夜、仕事に出るらしい。美沙は大丈夫だろうか。


 居酒屋の中から、ざわめきが伝わってくる。


 サークルの飲み会に顔を出したはいいが、逆に疲れる結果となった。

 ぼんやりと、何をするでもなくそのまま座っていたら、ふと誰かが僕の隣にそっと座った。


 横を見やると、座ってきたのは伊藤先輩だった。そういえば、この人も出席だったか。


「驚き。拓斗も、嫉妬なんてするんだね」


 先輩が唐突にそんなことを言った。今日、先輩と言葉を交わすのは初めてだ。

 それなのにそんなことを言われる根拠として、思い当たるのはさっきの電話しかない。

 

「電話、聞いてたんですか?」

「飲み会盛り上がってるのに、途中で抜け出してまで電話して。声が聞きたかったんでしょ?」


 先輩は肯定とばかりに、否定の意は示さずからかうような言い方をした。

 僕も否定はしないが、あえて肯定するほどできた人間でもない。僕は話題をすりかえることにした。


「どうして先輩も出てきたんですか?」

「だって全然飲んでもいないのに、酔い覚ますなんて言って出ていくから」


 言って、先輩がくすりと面白そうに笑う。なんでもお見通しといわんばかりの態度だ。

 それはいいが、僕にしてみれば心を見透かされるのはあまり面白くもない。


 無駄かもしれないと思いつつ、僕は取り繕おうと試みてみる。


「僕はただ、夕方から飲む気になれなかっただけで……」

「わかってるんでしょ? それ、ただの言い訳だって。拓斗は、自分の気持ちに対して自覚が足りないのよ。ここ最近の拓斗、とても見てられなかった」


 僕の悪あがきを、先輩がすっぱりと切り捨てる。さすが、としか言いようがなかった。

 先輩の言うことは当たっている。つまり僕が一方的に電話を切ってしまったのは、嫉妬という感情故にだろう。


 受話器の向こうにタマキという少年がいたというだけで、僕の心に生まれたあまり思わしくない感情。

 彼と話しているとき、イメージがどことなく美沙とかぶる。感情を隠さない。いや、隠す術を知らないのか。


 まっすぐで、ひたすら純粋で。自分の感情に正直に生きている。つまり、年相応。

 彼らは年も近く、合わせようとしなくても同じ目線に立っている。


 遠ざかってしまった今、僕よりも、彼の方が美沙に近いんじゃないか、と。

 そんな考えは僕の心に痛みを伴う摩擦を生む。僕は自分で思っていたほど、自分の感情を把握していなかった。


 先輩の言う通りだ。僕は、自分で自覚していたよりもずっと――……


「好きなんです、美沙が。本当に、好きで……。離れてみてわかった」


 独り言のように吐き出した僕の言葉を聞いて、隣の先輩は満足げにほほ笑んだ。


「やっと言ったね」


 やれやれといった感じの口調だった。その意図するところがわからず、僕は先輩に視線で問いかける。

 ふぅ、と小さくため息をついて、けれど笑みは崩さないまま先輩が話し出した。


「知ってた? 拓斗さ、美沙ちゃんのこと好きだって、ちゃんと言葉にしたの初めてだよね」


 そうだっただろうか。確かに、美沙を大切だ大切だと言ってきたけど、好きだとは表現したことがない。

 家族だったから、妹だったから。そういう言い訳をするのは簡単だが、本当はもっと違う理由じゃないだろうか。


 気持ちのどこかで、セーブをかけていたのだ。のめりこみすぎないように、と。

 自覚が足りないというのは、きっとこのことだ。


 それは長年培ってきた僕の悪い癖で、簡単に変われてはいなかった。だから今、美沙とこんなに離れてしまった。


 今まで美沙のほうから繋いでくれていた手を、美沙から突き放されて。

 だけど美沙にそうさせたのは、きっと彼女のトラウマからだ。そんなことわかりきっていたのに。


 ――どうして、もう一度美沙の手を取ることができなかったんだろう。


 美沙にさよならを告げられた時、何も言えなかったのも。美沙の意志を大切にしたように見せかけて。


 本当は、傷ついただけだった。美沙のさよならの言葉が痛くて。それ以上傷つくことから、逃げていただけだった。

 大切な人を、みすみす逃してしまったのは僕自身の弱さのせいだ。


 ふと、まるで僕の思っていることを見透かしたかのように、先輩はまた核心をついたことを言いはじめた。


「簡単に言えない。好きって気持ちは、人を不器用にさせるよね。そのせいで間違ったり、弱くなったり、傷つけたり……でもね、」


 話の途中で、僕は状況も忘れて少し笑ってしまった。本当に、この人には敵わない。

 先輩は一瞬、そんな僕の態度にちょっとむっとした顔をしたけど、すぐに余裕を取り戻し、そして続ける。


「あたしはね。実はその本質っていうのは、いたってシンプルだと思うの。つまり、惑わされてるだけってこと。本当は気持ちって、人を強くするものなんだよ」


 先輩は教えさとすように言い終わってから、あまり見せたことのない、満面の笑顔を僕に向けた。


「素直にひとこと、言えばいいじゃない。会いたいって」


 先輩のその言葉は、僕を動かすには十分すぎたのかもしれない。まだ間に合うだろうか。いや、間に合わせる。

 先輩に飲み会は途中で抜けると伝え、僕はその場を後にする。今どうしても、美沙の笑顔が見たかった。


 今まで美沙は、僕にたくさんの笑顔をくれた。今度は僕が、美沙を笑顔にする番だ。



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