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第12話 もしも、叶うのなら〔4〕



 夏の夜は暑く、まとわりつく空気がうっとうしい。無気力って、こういう状態のことを言うのかと思った。


 全力疾走で駆け込んで、家の扉を開けてからもずっと、心の中に重苦しいもやがかかったままだった。

 うつむいたお兄ちゃんの、表情が見えなかったのが気がかりだった。今頃、どうしてるかな。


 傷ついて、なければいいなんて。なんて自分勝手なこと思ってるんだろう。


 私――逃げて、いるのかな。ううん、きっとそうじゃないよね。だってお兄ちゃんを守るためなんだから。

 そうやって自分に言い聞かせてみるんだけど、どこか飲み込みきれないような微妙な心理のまま、もう夜を迎えている。


 住みなれないアパートは居心地がそんなによくなくて、よけいに助長させているのかもしれない。


「なーに、美沙ちゃん。どうしたの、悩み事?」


 部屋の隅っこに座って黙り込んでいた私に、ママが声をかけてきた。

 あまり広くないアパートは、当然自分の部屋なんてなくて。ひとりで悩むなんて無理な話みたいだ。


 お風呂からあがってきたばかりのママは、濡れた髪の毛をタオルで拭きながら、私の横に座った。

 ママの自慢の、腰まである明るい茶色の髪から、シャンプーのいいにおいがする。


「悩んでるのは、ママでしょ?」

「……うん、そうだね」


 平静を装おうとするあまり、思わず核心をついてしまってはっとした私だけど、意外にもママはあっさりと認めた。

 そして、咳払いをひとつしてから、おもむろに話し始めた。


「あのね、美沙ちゃん。私なりに悩んでね、それで決めたことがあるの」


 ママはそこまで言って、改まったように私に向きなおった。何事かと、私はちょっと身構える。


「私ね……ひとりで生きていこうかと思ってるの」


 続いてママの口から出てきた言葉に、私は驚いてママを見返してしまった。

 ママは一人じゃ生きていけない人だ。それなのに、こんなことを言い出すなんて、一体どうしたっていうんだろう。


「もちろん、美沙ちゃんは一緒だよ? でも、もう再婚はしないつもり」

「ママ、どうしたの? 何かあったの?」


 誇らしげに話すママに水を差すようだけど、私はそう尋ねずにはいられなかった。

 いくら自分の親でも失礼なことかもしれないけど、今までのママをずっと見てきてるから、私には信じられなかったのだ。


 するとママは、やわらかく笑って、立ち上がりカーテンを開けた。今日は星が見えている。

 外の夜景を眺めながら、ママがそっと口を開いた。


「“だれかに幸せを望むより、幸せを与えようとするほうが、本当はずっと幸せなんだと思います”」


 何の脈絡もなく告げられた詩的な言葉に、私は首をひねった。

 ママはいつもこんな感じだから、慣れてはいるけど。隣に立つママを見上げながら、私は何気なく訊いた。


「何それ、ママ。何かの本の言葉?」

「違うよ。誰が言った言葉だと思う?」


 くす、と笑って、ママは何かを思い返すように、静かに話し始めた。


「昨日、突然家まで拓斗くんが来てね。どうして何度も離婚して、また結婚するんですかって聞くの」


 思いがけないところで、思いがけない人の名前が出てきて、私は思わずすっくと立ち上がった。

 そしてママの服の裾をつかみながら、質問を投げかける。


「それで? ママは、なんて言ったの?」

「さみしいからって言った。そしたらね、怒られちゃったよ。美沙がいるのに、どうしてさみしいんですかって」


 ママは、そう言って肩をすくめた。じんわりと、心にあたたかいものが広がっていく感覚。

 そんなことを、言ってくれたんだ。そっか……、だから昨日から、ママの様子がおかしかったんだ。


「そしてね、さっきの言葉を教えてくれたんだよ。……大切なこと、見落としてたのかもね。ママの一番は、やっぱり美沙ちゃんと、美沙ちゃんのパパだから。もういないあのひとも、心の中には、ちゃんと居るの」


 ママは言い終わってから、とても素敵な笑顔を見せてくれた。今回の離婚以来、笑顔を見たのは初めてかも知れない。

 それもこれもすべて、あのひとがくれたもの。大切な宝物を、またひとつ送ってくれた。


 いいよね、ちょっとだけ泣いても。だってこれは幸せな涙だから。


「ごめんね。ママ、バカだから。遠回りしちゃったけど」


 ママは少し困ったように笑った。その笑い方があのひとにちょっとだけ似ていて、胸が痛くなる。

 私は首を横に振ってから、笑顔でママに答えた。


「ママ。私、今すごく幸せなの。いっぱい、幸せをもらえたんだよ」


 こうして離れていても、出会えてよかったって。そんな風に思えるくらい、大切な人。

 尊敬しているし、憧れてもいるし、だからやっぱり、こんなに大好きなんだ。






今日は、夜にまた更新しに来ます。


ぜひまた見に来てくださいね!




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