第12話 もしも、叶うのなら〔2〕
一瞬、逃げ出そうかと思った。裏門から出れば会わずにすむ、とっさにそう判断したのだ。
だけど足がロボットにでもなったように、私はなぜか歩き続ける自分の足を、止めることができなかった。
話ができそうなくらいの距離になり、校門に寄りかかって待っていたらしい彼が、ようやく私を振り向いて。
目が合った瞬間、私は泣きそうな気持ちになった。
少し離れていただけなのに、随分遠くに行っていた気がした。お兄ちゃんを目の前にして、私は言葉を失う。
私の心が警鐘を鳴らしはじめ、次第に大きくなるそれは、やがて私の頭の中でも鳴り響いていた。
いつかの記憶がよみがえる。二度目の離婚のあと、ママと2人で引っ越して。
家族だった人たちに会えなくなって、しばらく経ったある日。何気なく言った私の一言だった。
『――ねぇ、ママ。また、お姉ちゃんとパパたちに会いたいな……』
私の言葉に、ママは一瞬驚いたような表情を見せた後、それをとても困ったような悲しい表情に変えた。
会うのはいけないこと。できないこと。それは幼い私にでもわかる、暗黙の了解だった。
あの時の心の痛みを、悲しさを、ずっと忘れられずにいる。
気づけば、二度と会えない、遠い存在になってしまった大好きだった人たち。
幸せだった、過去の記憶だけを置き去りに――
「美沙を待ってたんだ」
ふと、物思いにふけっていた私は、お兄ちゃんのそんな言葉で我に返った。
あんな過去の出来事を、思い出すのも久しぶりだった。
すぐに返答できなかったのは、私が混乱しているからだろうか。頭の中を整理しつつ、私はあえて無難なことを訊いた。
「どうして、こんなとこまで……」
「約束は、まだ有効だから。……って言っても父さんから、転校はしてないって、聞きだしただけなんだけどね」
お兄ちゃんは少し冗談ぽく言って、笑った。約束――私がどこに行っても見つけ出してくれるっていう、あの約束のこと?
だけどあの約束は、私とお兄ちゃんが家族だったから成立していたもので。
私は何か言おうとしたけど、どう言葉にしていいか、何と言っていいのか分からず、もどかしいままに終わる。
そうこうしているうちに、他の生徒たちがこっちを見てひそひそと騒いでる声が耳に入った。
ここじゃ、場所が悪すぎる。とっさに、私はお兄ちゃんの手をつかんだ。
面喰った様子のお兄ちゃんを無視して、私はつないだお兄ちゃんの手を引いたまま走り出し、学校を後にした。
ある程度走った後、自動販売機の横に小さなベンチのある場所を見つけて、私はやっとそこで立ち止まった。
9月になっても、相変わらず日差しは強い。ここは日陰になっていて、少しだけ暑さをしのげそうだ。
2人とも、息が少し上がっている。息を整えるのを理由にして、私はお兄ちゃんから目をそらしていた。
何も言わずにいると、背中を伝っていく汗が余計に気になって、不快だった。
状況も忘れて、自販機のジュース買って飲みたいな、なんてどうでもいいことを考えていた。
「どうして、何も言わずに出て行ったの?」
不意打ちのように、お兄ちゃんがそんなことを尋ねてきた。
もう息も整っていたのに、まだ息が上がっているふりをしていた私はどきっとする。
息が上がっている間は会話もできないから、核心を突かれることはないと思って油断していたのに。
思わずお兄ちゃんを見てみると、とても真剣な顔をしていた。取り繕う余裕もなく、私は本音を口にするしかなかった。
「ごめんね。……自分のためなの」
お兄ちゃんはちょっとだけ驚いたみたいだった。
無理もないよね。何も言わずに出て行ったのは、私の単なるエゴだったんだから。
「お兄ちゃんのためとか、お母さんのためとか。……そんな風に言えたら、かっこいいのかもしれない。でもね、本当はさよならをしたくなかっただけなの。さよならは辛いから、何も言わずにいなくなるほうがずっと楽でしょ? お兄ちゃんの気持ち、無視して。ただ自分を守っただけなんだ」
私の言葉を聞いて、お兄ちゃんはとてもつらそうな表情をした。
そんな顔、しないでほしい。お兄ちゃんの笑顔が好き。私のことでつらい思いをさせるなら、それはきっと、違うんだよね?
もう家族じゃないから。他人だから。ママが悲しむから。これ以上、この人に会っちゃいけないんだ。
さよならしないままでいれば、どこかでつながっていられる気がしてた。だけど、それじゃ駄目で。
――“だから、笑顔でさよなら……できるよね?”
辛さと苦しさのなか、いつかの私の想いが、心の中でこだまする。
どうしようもない悲しさとともに、泣き出したい気持ちが、私をがんじがらめにして。
だけど幸せをくれたお兄ちゃんに、私も精一杯で返さなきゃって思った。
お兄ちゃんの記憶の中、泣き顔じゃなく、辛い顔じゃなく、お兄ちゃんを幸せにできるくらいのすてきな笑顔でいたい。
私泣かないよ、お兄ちゃん。だって幸せだったから。これから先もずっと、この幸せな気持ちは消えないから。
たとえ、家族じゃなくなっても。遠く離れても。そばに、いられなくても。
ずっと一緒にいたいって。願う自分の気持ちを、お兄ちゃんの幸せを祈る気持ちに変えて。
願わくば、星の光にすがるんじゃなく、誰よりも強く在りたい。
「さよならだね。お兄ちゃん」
ためらいながら言ったはずなのに、自分の言葉は、やけにきっぱりと言い放つように口から出て行った。
いやな展開で申し訳ありません!
美沙のトラウマは、私が思っていた以上に深く大きかったようです。
最後まではこのシリアス加減も続きませんので、最終話にご期待くださいね。




