第1話 “無邪気”な妹〔6〕
お兄ちゃんが謝る必要なんて、どこにもなかったのに。私が一方的に待ち合わせを取りつけて、勝手に待ってただけ。
なのにお兄ちゃんは、とても優しい目をしてごめんと言った。
お兄ちゃんの優しさに、初めて触れた日。なんだか……胸がいたいよ、お兄ちゃん。
◇ ◇ ◇
雨は通り雨だったらしくて、だんだん止みつつあった。少しづつ、慌ただしかった人の動きがゆっくりになって。
そしてそうなってくると、歩く人たちの心の余裕も出てきて、私みたいなびしょぬれの人間が目立ちはじめる。
カサをたたんだお兄ちゃんも、それに気づいてたのか。上着を脱いで私に掛けてくれた。
プリントの入ったノースリーブ一枚だけになってしまったお兄ちゃん。真夏ならこんな格好も素敵だけど、今はまだ初夏。
それにお兄ちゃんだって濡れてないわけじゃないのに。
私は慌ててその上着を脱ごうとしながら、お兄ちゃんに声をかける。
「いいよ、お兄ちゃん。お兄ちゃんが風邪ひいちゃうよ」
「大丈夫だよ。妹は素直に甘えていいんだよ」
お兄ちゃんの口から出てきた予想外の言葉に、私は脱ぎかけの上着もそのままに、驚いてお兄ちゃんを見上げた。
妹、って言ってくれた。お兄ちゃんの中で、私は他人なんだと思ってたのに。
私、少しはお兄ちゃんの妹になれたのかな? 私……大切なお兄ちゃんの、大切な妹になれるかな?
言われたように素直に上着を着直すと、雨でいつの間にか冷えてた体が、少しだけあったかくなった。
それはきっと、上着のせいだけじゃない。こんな安心感、はじめてかもしれない。
こっそり小さな声で、「ありがとう」って、呟いた。
お兄ちゃんにもちゃんと届いたみたいで、穏やかな瞳で笑ってくれた。
「帰ろうか、美沙ちゃん。今日はほんとにごめんね」
お兄ちゃんはそう言って、私の頭にぽんと手を置いた。
どきっとしながらも、お兄ちゃんの帰るって言葉に、一瞬がっかりしてしまう。
でも、確かにそうだ。私はこんなありさまだし、もう夜だし。帰るべき状況だってわかる。
わかってるけど、お兄ちゃんと一緒に街を歩きたかった。家の中以外での一緒の時間を増やしたかったんだ。
それに、気になったのが、お兄ちゃんの、私の呼び方。
いいことを思いついた私は、お兄ちゃんに少しいたずらっぽく微笑んで見せた。
「お兄ちゃんが美沙、って呼んでくれるなら、今日のことは許してあげる」
本当はこんなこと言える立場じゃないんだけど、こうでも言わないとお兄ちゃんは私の呼び方を変えてくれないだろう。
お兄ちゃんはうーん、と考えるようなしぐさをしてから、少し困ったように微笑んだ。
「じゃあ、帰ろうか。……美沙」
自分で言い出したわけだけど、実際に美沙なんて呼んでもらえたら、感激で言葉が出なかった。
照れているのか、そんな私に背を向け歩き出すお兄ちゃん。――思わず、体が勝手に動いていた。
「お兄ちゃん、大好きっ!」
無意識のうちに出た言葉。はちきれそうな笑顔のままお兄ちゃんの背中に思いっきり抱きついた。
神様、私にこんなお兄ちゃんをくれてありがとう。
これからもずっと、……少しでも長く、お兄ちゃんとの日々が続きますように。




