第11話 夏休みの終わり〔1〕
弱いようで強いところがあり、強いようで、脆い一面を持っている。
誰でも笑顔にはきっと種類があって、一瞬の表情にも小さなメッセージを残しているものだから。
ほんの小さなそのひとかけらさえ、見逃したくないと思っていた。
見逃さないと思っていた、特に大切な彼女についてだけは。
けれども彼女の根底には、揺るぎない強い意志のようなものが息づいていたのかもしれなかった。
あの一瞬の笑顔の意味に、その時気が付けていなかったと、後からわかってしまうほど。
大好き!お兄ちゃん☆ 第11話 〜夏休みの終わり〜
海に行った日から2日間はかかったが、驚いたことに美沙は宣言通り宿題をすべて終わらせた。
まさか本当に実現するなんて思っていなかったのだが、約束は約束だ。
美沙の遊びに連れてってコールは毎日途切れることなく。
残った夏休みをフルに使うように、美沙に連れまわされる毎日が続いていた。
いくつあるかもわからない、美沙の行きたい所がひとつづつ減って。減るたびまた増えて。
とても穏やかで、平和な日々に、僕は夏休みが終わった後のことなんて、すっかり忘れかけていた。
その日は、いつもに増して暑い日だった。夏真っ盛りとばかりに、じりじりと焼けつく日差し。
もう8月も終わりかけているはずなのだが、暑さはまだまだ衰える兆しも見せない。
少し用事があって大学に来たのだが、明日にしておけばよかったのかもしれない。
予定で行けばそのままバイト先に向かわなくてはいけないが、家に帰れるなら水分補給して涼みたい。
汗を不快に思いながらも、僕は大学の門を出る。
結局はバイト先に向かうしかないのだ。のんびりしていたが、実はぎりぎりの時間帯だ。
ふとその時、ジーパンの後ろポケットに入れているケータイが鳴って、メールの着信を伝えた。
見ると、送り主は伊藤先輩だった。内容は特に大したこともない、サークルの予定についての連絡だった。
あんなことがあって、先輩と気まずくなるのではとも思っていたが、やっぱり先輩はあくまでも先輩で。
数日前に会った時にはすでに、いつもどおりの先輩に戻っていた。
わかりましたと一言だけ打ってから、返信を終える。とにかく急がないといけない。
ケータイを後ろポケットに再びしまってから、駐車場に向かう足を動かし始めたとき、またケータイが鳴った。
今度は電話の着信だ。さっきから忙しく鳴り続けているケータイに眉をひそめながら、もう一度ケータイを手に取ってみた。
今度の着信は、美沙からだった。とりあえず通話ボタンを押してみる。
『もしもし!? あのね、私今どこにいると思う?』
僕が何か言う前に、受話器の向こう側、いかにも楽しそうな声で美沙がまくしたてた。
そんなことを突然言われてもわかるわけがなく、僕は何と言葉を返そうかと考える。
「美沙、ごめん。ちょっと今急いで……」
考えた末にそんな言葉を返した僕だったが、言いきらないままに口を閉ざす結果になった。
思ってもみなかったことだが、視界の中に、見慣れた人物の姿が入ってきたのだ。
通話のためケータイを耳にあてたまま、こちらに近づいてくるその人物。
『見つかっちゃった?』
美沙は、いたずらがばれた子供のような声でそう言ってから電話を切った。
そして突っ立っている僕の前まで来て歩みを止める。美沙が大学まで来たのは初めてだ。
確かに歩いてこれない距離ではないが、この暑い日にここまで来るのは大変だったはず。
よく見てみると、美沙の頬が赤くなっている。日に焼けたのだろう。
「どうしたの? 何か用事?」
驚きつつ、僕は美沙に問いかけてみる。確か今日は真央ちゃんの家に遊びに行くと言っていたはずだが。
第一、今まで美沙は迷惑になるからと言って、決して大学まで来ようとはしなかったのだ。
「お兄ちゃん、今日は大学に行くって言ってたでしょ? だから、来ちゃった」
理由になっていない理由を言いながら、美沙がにっこりと笑う。態度からして急用というわけでもなさそうだ。
とにかく今は急いでいる。美沙にその旨を伝えようとしたが、またしても美沙が先手を取って口を開いた。
「ねぇお兄ちゃん、ちょっとかがんで?」
「どうして?」
「いいから!」
有無を言わせぬ美沙の口調。すっかりペースを奪われるのはいつものこと。わけがわからないまま僕は従う。
もう少し、もう少しと美沙に言われるがまま身体を曲げると、美沙と目線が合ったくらいの位置でストップをかけられた。
すると、すぐに美沙の顔が近づいてきた。まるで一瞬の出来事。美沙の唇が僕の額にキスを落としていったのだ。
驚いたあまり、僕はあっけにとられる。けれども目の前の美沙といえば、無駄にうれしそうな顔をしている。
「あのね、ありがとう! それだけ言いたくて……」
照れたように言って、美沙はえへへと笑う。何かおかしいと直感で思った。
けれど僕が口を開こうとしたら、美沙はたてた人差し指を僕の口に当てて制してしまった。
いぶかしむ僕とは対照的に、笑みを深める美沙。
「大学に行ったあと、バイトって言ってたよね? いってらっしゃい。私も、行ってくるね」
美沙はそう言うが早いか、身をひるがえして走り出す。僕に口を挟む隙も与えてくれなかった。
美沙を呼びとめようとしたけれど、僕が口を開こうとしたその時、ケータイの着信音が鳴った。バイト先からだった。
美沙を追うこともできず、心に引っかかりを抱えたままで、僕はただ後姿を見送っていた。
家に帰れば美沙がいる。家に帰って、美沙にもう一度話を聞けばいい。
――その時の僕は、そんな安易な考えに、どこか安心しきっていたのかも知れなかった。




