第10話 笑顔の向こう側〔5〕
気付けなかった自分の気持ちに、気付かされた。美沙は僕の気持ちに、僕より早く気づいていた。
少しの驚きと同時に、美沙を大切に思う気持ちは、より一層大きくなって。
美沙がくれた言葉は、ずっと僕の心に残っていくだろうと思った。
「っいた……」
消毒液を傷跡につけた瞬間、美沙が涙目になって呟く。
あれから車に乗り、無事家にたどり着いた僕と美沙。
美沙は痛くないと言ったが、転んだ時、膝をすりむいていたらしく、血がにじんでいた。
砂浜で転んだのだから、傷口には砂がついていたわけで。つまりこうして傷の手当てをする展開になった。
転んだ時は痛くないといったくせに、水で洗い流した時の美沙の痛がり方といったら尋常ではなかった。
洗った後拭いてから、こうして消毒を始めたわけだが、痛いはずなのにどういうわけか美沙の顔は笑っている。
「痛くないの?」
思わず僕が美沙に尋ねてみると、美沙はにこりと笑って言った。
「痛いよ? でもこうやって手当てしてもらうの、兄妹って感じで幸せだなって」
僕はくすりと笑う。些細なことでも幸せだと言ってくれる。そんな美沙の一面を愛しいと思った。
それにしても、こうして手当てをしていてわかったことだが、美沙の膝には他にも古い傷跡が残っている。
今日のように転んでできたものなのだろう。
「傷跡が他にもあるね。あまり傷を残しちゃダメだよ。女の子なんだから……」
少し説教臭いとは思いつつ、僕は言った。ただでさえ抜けているところのある美沙なのだ。
活動的なところは美沙の長所だが、もう少し気を付けてほしい。美沙は平気で無茶をすることも多い。
見ているほうもハラハラしなければいけないのだ。
そんな僕の内心を知ってか知らずか、今度は美沙が、何か思い出したようにくすっと笑った。
「昔から、よく転んですりむいてたの。そのたびにね、マ――お母さんがこうして消毒してくれた。そしてね、今のお兄ちゃんと同じこと言ってたよ。お兄ちゃんって、お父さんみたいだと思ってたけど、お母さんみたいなところもあるよね」
美沙にそんなことを言われてしまったので、僕は神妙な心持ちで思わず黙ってしまった。
これは喜ぶべき場面なのか……とても複雑だ。とりあえず僕は手当てを終えた。
「夏休み、あと少ししかないんだね」
話に脈絡がないのはいつものことだが、美沙がふとそんなことを言ったので、僕は消毒薬をしまいに行こうとする足を止めた。
座ったまま動こうとしない美沙の視線の先には、カレンダーがあった。
日付を見たらわかるが、夏の終わりはますます近づいてくるばかりだ。夏休みは長いようで短い。
離婚のことを知ってしまったから、そういうことを感じるたび、気持ちに迫ってくるものがある。
美沙も同じなのだろう。カレンダーをじっと見つめる、美沙の何とも言えない表情を見るのは、辛いものがあった。
「どこにでも毎日でも、連れて行ってあげるよ。美沙の宿題が終わったらね」
とりあえず美沙の表情を和らげようと、僕が冗談めかして言ってみたら、美沙の表情がぱっと晴れた。
自ら地雷を踏んだかもしれない。……恐ろしい話だが、美沙は本気に取ったらしい。
「じゃあ、明日までに終わらせる!」
美沙が勢いのまますっくと立ち上がり、意気込んでそんなことを宣言した。今の美沙ならやりかねないのが逆に怖い。
今までの経験からして、宿題が終わったその日から、休みなくあちらこちらに連れまわされることになるだろう。
だけど、それもいいかなと思ってしまう自分がそこにいることに、僕はひっそりと苦笑する。
「行きたい所はいっぱいあるよ! カラオケとね、ボーリングとね、水族館とかもいいなぁ、遊園地、ドライブ、動物園、映画館、それから……」
楽しそうに、指折りしながら次々と行きたい所をあげていた美沙だったが、ふとそこで言葉を切った。
我に返ったように、美沙が困ったような笑いをもらす。
「でも……きっと全部行くには、夏休みだけじゃ足りないよね」
まるで、諦めたような言い方だった。
美沙は思っているんだろう。夏休みの終わりが、僕たちの家族生活の終わりだと。
確かにそれは正しいのかもしれない。もう離婚は避けられないところまで来ているんだろう。
形式上他人になってしまう僕たち。……だけど、それで本当に終りなんだろうか?
これまで一緒に過ごしてきた時間が、離婚というきっかけだけで、そんなに簡単に崩れ落ちるのだろうか?
「大丈夫。全部連れて行ってあげるよ。夏休みが終わっても」
僕が言うと、美沙は少し不安げな色を残したままの瞳で、僕を見上げた。
僕の言葉は、美沙の心に届いたのか、届かなかったのか。
親の再婚も離婚も初めての経験だから、これからどうなっていくのかはわからない。
でも僕の方から手を放すことだけは、したくないと思った。




