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第10話 笑顔の向こう側〔4〕



 家に帰って、お兄ちゃんを起こした時から、いつもとどこか違うなって思ってた。

 具体的にどこがどう違うとか言えるわけじゃないけど、なんとなくそんな風に感じる。


 そのまま連れられてきたこの海。私とお兄ちゃんにとっては、思い出のある大切な場所だ。

 だけど、今のお兄ちゃんにこの場所に連れてこられたら、なんだか心がざわざわした。


 もしかしたらそれは、お兄ちゃん自身の気持ちから、伝わってくるものかも知れなくて。

 そしてそれは、ちょっと前、離婚におびえてただ臆病になっていた自分に、似ているようでもあった。

 不安な気持ちを抱えている瞳を、してる。


 隣に立つお兄ちゃんの手を握った瞬間、愛しさは増していくばかりで。言葉にしなくても、伝わればいいのに。


 何があったのか、本当は聞きたかった。すごく気になってた。不安なら話してほしい。

 だけどお兄ちゃんが何も言わない以上、きっと今のお兄ちゃんに必要なのは、そういうことじゃなくて。


 お兄ちゃんはいつも、私を守ってくれて、私は心から頼りにしてた。

 だけど世の中に、完璧な人はいないように。お兄ちゃんだって、不安になるときとか、弱くなるときだってあると思う。

 それが今この瞬間なら、私は何も言わずに、こんな風に手を握っていたい。


 そのまま、海に向かって一歩を踏み出した。砂を踏む感覚。私は結構好きだ。

 私と手をつないだままのお兄ちゃんは、私に手を引かれてつられるように歩き出す。

 一歩歩くたびに、波打ち際が近づいてくる。


 そろそろつま先が海の波に触れるかというところで、私は足を止めた。お兄ちゃんも一緒に立ち止まる。


 足元はぬかるんでいて、靴に少し泥がついた。でも全然気にならない。

 私もお兄ちゃんもその場に立っているだけだけど、気まぐれな海の波は、近づいたり離れていったりと忙しそうだ。


「ずっと残せたらいいのにね。この、足跡とか」


 私が波を見つめながらぽつりと言うと、同じように波に視線をやっていたお兄ちゃんが私を見た。

 私とお兄ちゃんがここを歩いた証。砂浜を歩くたびずっと続いていくけど、波にさらわれてすぐに消えていく足跡。


 だけど本当に大切なのはモノなんかじゃないんだ。

 自分の付けた足跡っていう、目に見えて安心できる形が消えることを嘆くんじゃなく、自分の中の真実を見つめること。

 見えない行き先を不安に思うんじゃなく、自分の足元をしっかり見つめて、微笑んで歩くこと。


 私の言葉に対して、お兄ちゃんは何も言わなかった。人の少ない海、波の音だけが支配する空間。

 お兄ちゃんはやっぱり少し元気がなくて、私はしんみりしたことを言った自分を後悔した。


 この状況を打破して、お兄ちゃんを元気づける方法をあれこれ考えてみる。

 周りを見回してみると、少し離れた場所に砂を落とすための水道があった。

 そしていいことを思いついた。即行動とばかりに、私は満面の笑みになりながらお兄ちゃんに提案する。


「ねぇ、あの水道まで競争しよう! 負けた方が、皿洗い一週間分担当ね」


 言うが早いか、私は颯爽と走りだした。足の長さが違うんだから、このくらいのハンデはもらわないと。

 だけどお兄ちゃんと来たら本気で走っているのか、すごく速くて、すぐに私を追い抜いてしまった。

 ハンデを勝手に貰って余裕になってたのに。思わず必死になった私は、砂に足をとられて転んでしまった。


 ずざっ! という感じに、結構、派手な音がしたと思う。前のほうで、お兄ちゃんが立ち止まる気配がした。 

 砂の上にうつぶせに転がってる私の所まで戻ってきて、お兄ちゃんが恐る恐る私を呼んだ。


「美沙……? 大丈夫?」


 お兄ちゃんは心配してるみたいだけど、そんなに痛くなかった。だけど私のいたずら心が芽生える。


「痛いよー……」


 顔を砂に伏せたまま、わざと弱々しく言って、泣きまねをしてみた。

 すると慌てたように、お兄ちゃんが私の前にしゃがみこむ。その瞬間、私はがばりと顔をあげた。

 

 一瞬驚いたような顔をしたお兄ちゃんだけど、私が笑っているので、すぐに騙されたことを悟ったようだった。

 溜息を吐きながら、困ったように笑うお兄ちゃん。2人とも砂まみれ。でもすごく楽しい。


「……帰ろう」


 私を立たせてから、お兄ちゃんが言った。いつもの優しい笑顔に安心した。

 駐車場までの短い道のりを、2人で歩いて戻っていく。お兄ちゃんは、私の斜め前をゆっくり歩く。


 ……知ってるんだ。歩幅を合わせて歩いてくれてるんだってこと。

 広い背中がいとしいと思った。衝動に動かされるまま、気づけば、私はお兄ちゃんの背中に抱きついていた。


「美沙……?」


 お兄ちゃんの声が波のように揺れて、私を呼ぶのが心地よくて、思わず目を閉じる。

 抱きついたお兄ちゃんの背中はあったかかった。


 ――“何か……確かなものとして、残したいって思った。今、僕たちが一緒に居るってこと”


 お兄ちゃんの言葉、うれしかったんだ。私と同じ気持ちを抱えてるんだって。

 涙が出るほどいとしい人。きっとこれから先生きていっても、こんなに大切に思える人はいない。

 伝えたい、言葉がある。抱きしめる腕に力をこめて。


「私、ここにいるよ。確かなものなんて、もう心の中にいっぱいあるでしょ? 私は……、お兄ちゃんから、たくさんもらったよ」


 お兄ちゃんは何も言わなかったけど、不器用な私なりに、ちゃんと伝えられたかな。

 今この瞬間の空の色も、波の音も、ずっと忘れないと思った。

 

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