第10話 笑顔の向こう側〔3〕
外に出るとすでに、日は暮れかけていた。目的地は決めていなかったけど、どこに行くか迷うことはなかった。
窓を半分ほど開けた助手席に座る美沙の猫っ毛が、ふわりと風になびいて。
目的地にたどり着くまで、目一杯風に乗ってから、車を止めると同時に落ち着いた。
それまで何も言わずに、助手席に乗って窓の外を眺めていた美沙だったが、そこでやっと僕を振り向いて一言。
「どうしてまた、この海に?」
嬉しそうなわけでも、はしゃいでいるわけでもなく、あくまで不思議そうな表情をして。
いつか初めて来たときのように、車を降りて走って行くわけでもない。
以前来た時と同じように、夕方の海は綺麗な光を反射させている。でも美沙の反応は以前と同じわけじゃない。
この場所は変わらなくても、そこを訪れる人間たちは変わっていく。それは当然のことで。
でも今はそれが少しだけ、怖いことでもあるように感じた。
「原点回帰、かな」
僕がそう言ってみると、美沙は言葉の意味がわからなかったのか小首をかしげた。
けれど美沙はそれ以上聞いてくることはなく、そのまま自然と2人、車を降りて砂浜まで歩いて行く。
どうしてまたこの海に来たのか。
一度来たことのあるこの海よりも、もっと気の利いた場所はたくさんあったはずなのに。
つまりはただ、僕自身が、美沙と一緒にここに来たかっただけなのだ。
その深い意味なんて、自分でもよくわかっていない。確かめたかったのかもしれない。
しばらく2人佇んで、なんとなく海を見やっていた。
ふと隣に立つ美沙を見てみると、魅入っているようでぼんやりとしているような微妙な表情で海を見つめていた。
結局は僕の希望のみでここに連れてきたのだ。美沙はもっと別な場所に行きたかったのかもしれない。
「楽しい?」
こんな状況で楽しいも何もないとわかっていながら、思わず聞いてしまった。
けれど美沙は僕のほうを向いたかと思うと、嘘のない満面の笑みを浮かべて言った。
「うん、すごく楽しいよ。あのね、お兄ちゃん。私うれしいんだよ。一緒にいられること」
美沙があまりに嬉しそうにそんなことを言うから、逆に胸が痛んでしまった。
美沙はよく笑う。いつも、素直に感情を伝えて。それが美沙らしく、そして僕はそんな美沙を大切に思っている。
けれど美沙は決して口にしなかった。離婚になるだろうことを、心の中に抱えたままで。
どれだけの重圧と不安を抱えてきたんだろう。
無邪気なその笑顔に見え隠れする小さなかげりは、今も消えることなく存在している。
美砂の不安定な気持ちが伝わって。その理由を知ってしまった僕だけど、そこには触れてはいけない気がした。
必死に隠して耐えているぎりぎりの美砂。ずっとそうだったのだ。
どうして気づいてやれなかったんだろう。美沙を大切に思っているのに。
離婚したって、僕は美沙のことを妹だと思い続けると思う。
でも気持ちが変わらないとしても、形式上、美沙はまた家族を失うことにはなるのだから。
「もう、貝殻は探さないの?」
ふと僕が尋ねると、美沙は小さく首を横に振った。そして得意げに笑って言う。
「あれはね、たったひと組だからいいの。大切なものはひとつで十分でしょ?」
美沙の言葉に、僕は何となく言葉に詰まった。確かに美沙の言う通りだ、だけど。
煮え切らない僕の態度に、美沙がまた小首を傾げる。
「お兄ちゃん? 貝殻、ほしかったの?」
「そうじゃないよ。でも……」
言って、僕はそこでいったん言葉を切った。言いたいことを整理しないままに口に出していた。
自分でもらしくないというか、混乱しているのかもしれない。何を言いたいのかわからなくなりそうだ。
貝殻が、ほしいわけじゃない。
けれど初めて来たときのように、美沙は貝殻を探すと思っていたし、探してほしかった。
それが多分、ここに来た理由だ。形のないものは、人を不安にさせる。
だから今、僕が美沙にしてやれることはこれだと思った。貝殻はひとつの理由にすぎない。
「何か……確かなものとして、残したいって思った。今、僕たちが一緒に居るってこと」
ここにきた自分の行動を、やっとその一言で結論付けられた僕は、けれど複雑な心境のままだった。
美沙はその大きな瞳の中、海よりも深いような色を湛えて、確かに僕を見ていたのかもしれない。
そっとのびた美沙の手が、僕の手を取ってきゅっと握る。
海のさざ波の中、不思議と安らぐような心地いい空気を共有して。
僕の手を握りしめながら、美沙は笑った。けれどそれは、いつもの無邪気な笑顔ではなくて。
初めて見せるその表情に驚きながらも、とても優しい笑みだと思った。
また、更新滞らせてしまいました。本当に申し訳ないです。




