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第9話 彼女の仮面の、その下に〔7〕



 考えたこともなかった、そんな事態が今、目の前で起きていて。僕は先輩の言葉を、素直に信じられずにいた。


 ただでさえ、人気があっても簡単になびかないひとなのだ。年下の僕は、当然対象外なものだと思っていたのに。

 どうして先輩が僕を、と考えてみても、思い当たることがまるでない。疑問ばかりが増えていくだけだった。


「気づいてなかったでしょ? 気持ちを隠すのは上手い方なの」


 先輩がまた、少し困ったように笑って言う。そして一瞬ためらいを見せた後、僕の方に向かって一歩を踏み出した。

 僕はそれにはっとする。驚いたあまりに、呆然としたまま何も言えずにいた自分をやっと自覚した。


 先輩は恐る恐ると言った仕草で、何気なく体の横にぶら下げていた僕の手を取った。


「拓斗の……心の中が見たい」


 言いながら、先輩が僕の手を胸のあたりの前まで持って来て、両手で握った。

 触れてきた先輩の手は、震えていた。……気づかなかった。先輩の手は美沙と同じように小さくて。


 ああ、そうか。先輩は先輩だけど、その前にひとりの女なんだと。邪魔をしていたのは、先入観。

 今まで先輩のことを、年上で、強い人だと決め付けて、そんな風に扱いも見もしなかった自分に少し罪悪感を覚えた。


 だけど、気持ちには答えられない。僕の心の中には既に、消せない感情が芽生えてしまっているから。

 目の前に居る先輩が今、先輩という仮面を脱ぎ棄てて、心をさらけ出している。それはきっととても勇気のいる行為で。


 だから、真剣に答えなければと思った。正直に、自分の気持ちのありのままを。


「あの子は、僕の妹で。でもそれだけじゃなくて……どう言ったらいいのかわからないけど……とても、大切で。大切だから、どう大切にすればいいのかわからなくなる」


 そう言い終わってみて、誰かに対して自分の気持ちを言葉にするというのは、案外難しい事なのかもしれない、と思った。


 言葉としてうまく浮かんでこなかった。でも一番しっくり来るのが、『大切』だという言葉で。

 思い出そうとしなくても、笑顔が浮かぶ。そしてその笑顔がまた見たくなる。それはとてもあたたかな感情。


 僕の気まじめな返答がおかしかったのか、それともわざとなのか。

 先輩が小さな笑い声をもらし、それまでのはりつめたような空気をほんの少しやわらかくした。


「やだ。なんかそれって、初恋でもしてるみたいじゃない」


 冗談のように、先輩が言った。だけど僕には、先輩と一緒になって冗談として笑い飛ばすことはできそうになかった。

 困ったことに、的を射ているのだ。先輩が言っていることは。僕は苦笑気味に口をひらいた。


「初恋、なのかもしれない。今まで、恋愛っていうのは自分の気持ちをコントロールしていくことだと思ってました」


 それは、これまで僕が築いてきた恋愛観だった。感情的になったら、そこで終わりだ。

 いかに客観的に、冷静に、相手と自分を見て恋愛できるか。だけど、美沙と会って、気持ちを自覚して初めて気がついた。


「でも、そうじゃない。本当は恋愛っていうのは簡単じゃなくて、コントロールが効かないものなんだって」


 言いながら、僕は思い出していた。あのときの、衝動が体を突き動かす感覚。

 美沙を抱きしめたその瞬間、僕の心を占めていたのは、きっと愛しいという感情だ。

 美沙がまだ幼いとか、妹で、大切にすべき家族だとか。そう言った建前の話は建前でしかなくなってしまう。


「告白、するの?」


 とても自然に握っていた僕の手を離しながら、先輩がなんでもない話をするように軽い調子で聞いてきた。

 さっき無神経だと思った言葉を使うのもどうかと思うが、こんな状況にでもあっさりしているのは先輩『らしい』と思った。

 そんな先輩の自然な態度に後押しされるように、僕はまた言葉を続けた。


「もう少し、このままの関係がいいかなって。それは逃げてるとか、そういうんじゃないんです。ただ……もっと美沙に、家族の温かさを教えてやりたい。気持ちを伝えるのは、それからだって遅くない。時間は、たくさんあるから」


 僕が言い終わってから、一呼吸の間をおいて、先輩が気を取り直したような笑顔になって言った。


「好きなんだね、美沙ちゃんのこと。……だけど、ごめん。あたしも拓斗が好きなんだ。しばらく忘れられそうにないや……」


 先輩はその一言を最後に、無口になった。僕もそれ以上何も言えなくて、そのままどちらともなく歩きだした。

 無言のまま並んで歩く2人。先輩を家まで送り届けるのには、そんなに時間はかからなかった。


 家にたどり着いて、僕が言葉を探していると、僕が何か言うよりも先に先輩が一言、「じゃあね」と言った。

 余裕の笑顔。あまりにもいつも通りで、僕の方が拍子抜けするようだった。


 だけど無理をしているんだろうということは、容易に想像がつくだけに、複雑で。

 そのまま、元来た道を戻る、ひとりの帰り道。あまり晴れない心の中、なんとなく美沙の顔が見たいと思った。



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