第9話 彼女の仮面の、その下に〔4〕
涙を見たわけじゃない。でも泣き顔よりももっと、悲しい目をしていると思った。
星のない夜が怖いと言う美沙。泣き虫なくせに、どんなに辛い時もひとりで耐えようとする美沙。
僕が家に帰ると、決まって駆けてくる美沙。僕が帰ってきたというだけのことを、まるでとても幸せなことのように笑う。
でも、ほっとしたようなその瞳の中に、不安の色が見え隠れしていることにも、気づいていた。
最初はそれを、微笑ましいとさえ思った。でもきっとそれは、そんな簡単なことじゃない。
確実に帰ってくるはずの僕を待つだけのことが、どうしてそこまで美沙を不安にさせるのか?
ずっと感じていたのだ。だけど今まで他人の気持ちになんて、干渉しようともしなかったツケが回ってきたのか。
どんなに頑張ってみても、美沙が心に抱え込んでいるものが何なのかわからないままで。
何が美沙にそんな顔をさせるのか、何が美沙を不安に縛り付けているのか。
ただ、美沙のそんな顔を見たくない。させたくない。募る想いが、自然と僕を動かして――
気づけば、身体が勝手に動いていた。僕の行動に驚いたのか、美沙は僕に抱きしめられたまま固まってしまった。
そのまま時間の感覚さえ鈍くなっていく。まだほんの数秒なのか、それとも数分たったのか。
だけどそんな時間が永遠に続く訳もなく。終わりを告げるきっかけは、すぐにやってきた。
扉の方からのわずかな物音。だけど、僕も美沙も黙りこんだままのしんとした台所に、それはとても大きく響いた。
台所の入口に視線をやってみると、そこには、さっきの小さな物音を発したであろう人物が立っていて。
彼女もまた、美沙と同じように固まってしまっていた。
「亜子さんっ!?」
美沙の上ずった声が彼女の名前を呼び、流れていた沈黙を破った。と同時に、急いで僕から離れる美沙。
見る見るうちに顔を真っ赤に染め、美沙は言葉を失ってしまっているようだった。
そこで僕も、やっと我に帰った。幼い妹に、僕は一体何をしているんだ。まったく自分らしくもないことを。
気まずい空気の中、唯一そんな空気に負けない先輩が、少し困ったように笑って口を開いた。
「真央が、バケツの水こぼしちゃって、水道の場所聞きに……。邪魔……しちゃった?」
冗談めかした言い方。いつも通り、余裕の先輩。何も思われていないようだった。――そう、思ったのに。
相変わらず笑みの形を作った先輩の口からは、思いもよらない言葉が出てきた。
「ねぇ。もしあたしが泣いたら、さ。……同じように、抱きしめてくれる?」
いつもと同じ声のトーン。だけど、先輩は俯いてしまって、一向に顔をあげようとしない。
けれど気づいてしまった。俯いたその頬から、一筋こぼれ落ちていった涙――
「先輩……?」
先輩の様子もおかしいとは思っていたけれど、予想外の展開だった。僕は恐る恐る先輩に声をかける。
すると先輩がやっと顔を上げた。やっぱりいつも通りの先輩が、笑ったまま言った。
「なんて、らしくないよね」
あまりに自然だったので、一瞬、さっき見た涙は見間違いだったのかと思った。
だけどそうではなかったらしい。先輩は耳もとのピアスに手をやりながら、背中を向けてしまった。
「……ごめん、用事思い出しちゃったから帰るね。拓斗、真央は送ってあげてくれる? もう暗いし、夜道は危ないから」
「何言って……そんなの、先輩だって同じじゃ……」
自然なようで不自然な先輩の物言いに、僕は不可解な気持ちのまま言葉を言い淀む。
付き合いはそれなりに長いが、先輩は昔から、自分の身を守ることについてもきっちりとした人だった。
夜道のひとり歩きなんて絶対にしないタイプだ。それがこんな行動をとるなんて明らかにおかしい。
先輩に何が起こっているのかはわからないが、とにかくこのままひとりで帰すのはまずいと思った。
先輩と真央ちゃんは歩いてここまできたらしいので、当然、帰りは送っていこうと思っていたのだ。
理由は、さっき先輩が自ら説明してくれた通りだ。夜道は危ない。先輩は真央ちゃんについてだけ言ったつもりのようだが。
僕がそんなことを考えている間に、先輩はためらいなく玄関に向かって歩き始めてしまった。
無理にでも送るくらいのことはすべきだ。咄嗟に後を追おうとしたが、その時、後ろから服を引っ張られた。
振り向くと、必死な顔をした美沙が僕を見上げていた。
先輩の様子がおかしいことに気をとられてしまっていたが、美沙だって今日は様子がおかしかったのだ。
それなのにさっき勝手に抱きしめ、さんざん動揺させておいて、このまま美沙を置いてはいけない。
冷静に考えて、先輩を放ってはおけない。でも心の中、感情的な部分が僕をためらわせて。
困り果てた僕は、どうしていいのかわからなくなってしまった。表情から、美沙も同じように困惑しているのが伝わる。
一瞬、美沙も一緒に連れて行こうかと思った。
でもその場合、真央ちゃんがひとりになるので、必然的に真央ちゃんも一緒に、ということになる。
態度からしてひとりになりたい様子だった先輩に、大勢でついていくのは適切じゃないだろう。
そんな風にして台所に立ち尽くす僕と美沙の所に、また別の足音が慌ただしく近付いてきた。
「拓斗さん! お姉ちゃんがひとりで――」
派手な音をたてて扉を開け、慌てて入ってきた真央ちゃんは、部屋に入ったと同時に言葉を途中で切った。
瞬間、びくりとした美沙の手が、しっかりとつかんでいた僕の服の裾から離れていった。
「ごめんね。私大丈夫だよ! だから行ってきて?」
美沙がそう言って作り笑い、元気なふりをする。相変わらず下手な演技だ。大丈夫なわけがない。
だけど今は、美沙のその下手な演技に甘えるしかなかった。
ぽんと美沙の頭に手を置いてやると、今は頼りなげな色をした大きな瞳が僕に向けられた。
「ごめん。すぐに帰ってくるから」
そんな一言を残して、僕はまだためらおうとする気持ちを抑え、家を後にしたのだった。




