表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
64/89

第9話 彼女の仮面の、その下に〔4〕



 涙を見たわけじゃない。でも泣き顔よりももっと、悲しい目をしていると思った。


 星のない夜が怖いと言う美沙。泣き虫なくせに、どんなに辛い時もひとりで耐えようとする美沙。

 僕が家に帰ると、決まって駆けてくる美沙。僕が帰ってきたというだけのことを、まるでとても幸せなことのように笑う。


 でも、ほっとしたようなその瞳の中に、不安の色が見え隠れしていることにも、気づいていた。


 最初はそれを、微笑ましいとさえ思った。でもきっとそれは、そんな簡単なことじゃない。

 確実に帰ってくるはずの僕を待つだけのことが、どうしてそこまで美沙を不安にさせるのか?


 ずっと感じていたのだ。だけど今まで他人の気持ちになんて、干渉しようともしなかったツケが回ってきたのか。

 どんなに頑張ってみても、美沙が心に抱え込んでいるものが何なのかわからないままで。

 何が美沙にそんな顔をさせるのか、何が美沙を不安に縛り付けているのか。


 ただ、美沙のそんな顔を見たくない。させたくない。募る想いが、自然と僕を動かして――

 気づけば、身体が勝手に動いていた。僕の行動に驚いたのか、美沙は僕に抱きしめられたまま固まってしまった。


 そのまま時間の感覚さえ鈍くなっていく。まだほんの数秒なのか、それとも数分たったのか。


 だけどそんな時間が永遠に続く訳もなく。終わりを告げるきっかけは、すぐにやってきた。

 扉の方からのわずかな物音。だけど、僕も美沙も黙りこんだままのしんとした台所に、それはとても大きく響いた。


 台所の入口に視線をやってみると、そこには、さっきの小さな物音を発したであろう人物が立っていて。

 彼女もまた、美沙と同じように固まってしまっていた。


「亜子さんっ!?」


 美沙の上ずった声が彼女の名前を呼び、流れていた沈黙を破った。と同時に、急いで僕から離れる美沙。

 見る見るうちに顔を真っ赤に染め、美沙は言葉を失ってしまっているようだった。


 そこで僕も、やっと我に帰った。幼い妹に、僕は一体何をしているんだ。まったく自分らしくもないことを。

 気まずい空気の中、唯一そんな空気に負けない先輩が、少し困ったように笑って口を開いた。


「真央が、バケツの水こぼしちゃって、水道の場所聞きに……。邪魔……しちゃった?」


 冗談めかした言い方。いつも通り、余裕の先輩。何も思われていないようだった。――そう、思ったのに。

 相変わらず笑みの形を作った先輩の口からは、思いもよらない言葉が出てきた。 


「ねぇ。もしあたしが泣いたら、さ。……同じように、抱きしめてくれる?」


 いつもと同じ声のトーン。だけど、先輩は俯いてしまって、一向に顔をあげようとしない。

 けれど気づいてしまった。俯いたその頬から、一筋こぼれ落ちていった涙――


「先輩……?」


 先輩の様子もおかしいとは思っていたけれど、予想外の展開だった。僕は恐る恐る先輩に声をかける。

 すると先輩がやっと顔を上げた。やっぱりいつも通りの先輩が、笑ったまま言った。

 

「なんて、らしくないよね」


 あまりに自然だったので、一瞬、さっき見た涙は見間違いだったのかと思った。

 だけどそうではなかったらしい。先輩は耳もとのピアスに手をやりながら、背中を向けてしまった。


「……ごめん、用事思い出しちゃったから帰るね。拓斗、真央は送ってあげてくれる? もう暗いし、夜道は危ないから」

「何言って……そんなの、先輩だって同じじゃ……」


 自然なようで不自然な先輩の物言いに、僕は不可解な気持ちのまま言葉を言い淀む。


 付き合いはそれなりに長いが、先輩は昔から、自分の身を守ることについてもきっちりとした人だった。

 夜道のひとり歩きなんて絶対にしないタイプだ。それがこんな行動をとるなんて明らかにおかしい。


 先輩に何が起こっているのかはわからないが、とにかくこのままひとりで帰すのはまずいと思った。

 先輩と真央ちゃんは歩いてここまできたらしいので、当然、帰りは送っていこうと思っていたのだ。


 理由は、さっき先輩が自ら説明してくれた通りだ。夜道は危ない。先輩は真央ちゃんについてだけ言ったつもりのようだが。


 僕がそんなことを考えている間に、先輩はためらいなく玄関に向かって歩き始めてしまった。

 無理にでも送るくらいのことはすべきだ。咄嗟に後を追おうとしたが、その時、後ろから服を引っ張られた。


 振り向くと、必死な顔をした美沙が僕を見上げていた。

 先輩の様子がおかしいことに気をとられてしまっていたが、美沙だって今日は様子がおかしかったのだ。

 それなのにさっき勝手に抱きしめ、さんざん動揺させておいて、このまま美沙を置いてはいけない。


 冷静に考えて、先輩を放ってはおけない。でも心の中、感情的な部分が僕をためらわせて。

 困り果てた僕は、どうしていいのかわからなくなってしまった。表情から、美沙も同じように困惑しているのが伝わる。


 一瞬、美沙も一緒に連れて行こうかと思った。

 でもその場合、真央ちゃんがひとりになるので、必然的に真央ちゃんも一緒に、ということになる。

 態度からしてひとりになりたい様子だった先輩に、大勢でついていくのは適切じゃないだろう。

 

 そんな風にして台所に立ち尽くす僕と美沙の所に、また別の足音が慌ただしく近付いてきた。


「拓斗さん! お姉ちゃんがひとりで――」


 派手な音をたてて扉を開け、慌てて入ってきた真央ちゃんは、部屋に入ったと同時に言葉を途中で切った。

 瞬間、びくりとした美沙の手が、しっかりとつかんでいた僕の服の裾から離れていった。


「ごめんね。私大丈夫だよ! だから行ってきて?」


 美沙がそう言って作り笑い、元気なふりをする。相変わらず下手な演技だ。大丈夫なわけがない。


 だけど今は、美沙のその下手な演技に甘えるしかなかった。

 ぽんと美沙の頭に手を置いてやると、今は頼りなげな色をした大きな瞳が僕に向けられた。


「ごめん。すぐに帰ってくるから」


 そんな一言を残して、僕はまだためらおうとする気持ちを抑え、家を後にしたのだった。



評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
このランキングタグは表示できません。
ランキングタグに使用できない文字列が含まれるため、非表示にしています。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ