第8話 ためらい、予感〔10〕
まだ、私の心の中の弱い部分が、逃げ出したいって叫んでる。同時に、膨らむ自己嫌悪。
時間だけが迫ってくるような緊張感の中、私の心はいろんなことでいっぱいになっていた。
マキちゃんも出て行ってしまって、ひとりきりになった部屋の中。
やっぱり、ひとりって大嫌いだ。ひとりだと変にいろいろ考えてしまって、余計に不安になる。
「……おねえちゃん?」
その時、ふいに部屋の電気がついて。同時に、幼い声が私を呼んだ。
いつの間に部屋に入ってきていたんだろう。そこに立っていたのは、幼い女の子だった。
みどりちゃん。このお家の娘さんだって紹介してもらった。今年小学校に上がったって。
黒目がちの大きな瞳が、心配そうに私を見あげていた。
「だめだよ。かなしそうなかお」
みどりちゃんは私のスカートの裾をぐいぐいひっぱりながら、小さな唇をとがらせて。
そして、まるで当たり前のことを話すように、必死で私に訴えかけてきた。
「あのね、先生がいってたよ。おともだちとケンカしてもね。心のなかの手は、まだつないでるんだって。でもその手まではなしちゃったら、とおくに行っちゃうかもしれないんだって」
私は何も言えずに、目の前の小さな女の子を見ていた。小さくても、今の私よりもずっと大人なのかもしれない。
少なくとも今、私の不安定な気持ちを感じ取って、この子は必死になってくれている。
私の内心を知ってか知らずか、みどりちゃんは大きな瞳を細めてにっこりと笑うと、また続けた。
「だからね、おねえちゃん。また、握手すればいいんだよ。そしたらずっといっしょだね?」
ストレートなその言葉は、思った以上に私の心に響いた。それはきっと簡単なこと。
だけど簡単なことがどうしてこんなに難しくなったんだろう。
また、揺れ始める私の心。――その時、扉の向こうから聞こえてきた、ふたつの足音。
心臓が大きくどきりと鳴った。と同時に、開いた部屋の扉。そこに立っていたのは、マキちゃんと、そして――
「みどり。こっちにおいで」
無表情に近い顔をしたマキちゃんが、短くそれだけ言った。
みどりちゃんはまだ何か言いたげな顔をしてたけど、素直に従ってマキちゃんのもとへ走っていく。
そしてそのまま、マキちゃんとみどりちゃんは出て行って。部屋に残されたのは、私と、そしてもうひとり。
目の前にいる、お兄ちゃんの顔がまともに見れない。近くに居るのに、私の心が自然とお兄ちゃんを遠ざけていた。
「まず、最初に。一言だけ、厳しいことを言うね。お兄ちゃんとして」
唐突に、お兄ちゃんが話を始めた。それにはっとして私も思わずお兄ちゃんを見る。
お兄ちゃんは私が何も言えそうにないことをわかっているのか、私の返答を待たずに言葉を続けた。
「家族として一緒に暮らすってことは、ルールだってあるんだよ。美沙が僕のこと少しでも大切だと思ってくれるなら、突然いなくなって僕がどれだけ心配したか……わかるよね?」
お兄ちゃん、厳しい顔。……怒ってる。そこで初めて、自分のしたことの大きさを改めて思い知った。
もし逆の立場だったら、私だってきっとものすごく心配してた。何も手につかないで、ひたすら待ってたかもしれない。
私……バカだ。そんなことも考えつかないほど、自分のことで精いっぱいになって。
自分が不安になったからって、逃げ出して。もっと大きな不安を、お兄ちゃんに与えてしまったのかもしれない。
「ごめんなさい……」
申し訳なさでいっぱいになりながら私がそう言うと、お兄ちゃんの表情が少し和らいだ。
いつものお兄ちゃんの優しい瞳。ううん、今までだって本気で怒ってるって風じゃなかったのかもしれない。
厳しいことを言うのも優しさ。お兄ちゃんって人の根っこにあるのは、やっぱり優しさ。
だから大好きなんだ。失うのが怖くて、逃げ出したくなっちゃうくらいに。
「あと、これは兄妹としてじゃなく、僕個人としての話。聞いてくれる?」
お兄ちゃんが少し微笑みまじりに切り出してきた。
さっきより少しだけやわらかくなった雰囲気の中、お兄ちゃんの声は自然と私の心を開いていくようで。
一瞬ためらうようなしぐさをした後、お兄ちゃんがゆっくりと話しだした。
「僕たちは普通の家族みたいに、ずっと同じ時間を積み重ねてきたわけじゃないから……過ごしてきた時間も、話した言葉もまだ、全然足りないんだ」
私は驚いてお兄ちゃんの顔をまじまじと見つめてしまった。私も同じことを思っていたんだ。
だから本物になれないんだって。開きかけた心を、また閉ざしたくなる。少しづつもどってくる苦い思い。
だけどそんな私の気持ち、次のお兄ちゃんの一言が簡単に吹き飛ばしてしまった。
「だから、お互いに近づこうとしなきゃ、何も始まらない」
瞬間、お兄ちゃんとまっすぐに目が合った。お兄ちゃんが少し、困ったように微笑み、また続ける。
「僕のことが嫌になる時もあると思う。それは当たり前のことだと思うんだ。簡単なことじゃなくて、家族になろうとしてるんだから」
お兄ちゃんのその言葉に、嫌になったんじゃないよって、慌てて言おうとしたけど。
すぐに、私は口をはさむのをやめた。今は、そんなちっぽけなことが大事なんじゃなくて。
真剣な目をしたお兄ちゃんが、伝えようとしてくれること。私が見落としていたこと。
「それでも最後には帰ってきてほしい。美沙の帰る場所は、あの家だ。僕はずっと待ってるから」
お兄ちゃんが言い終わったころには、私の目にはいっぱいに涙がこみ上げていた。
どうして、逃げ出すことしか考えられなかったの。何も見えなくなって。
でもお兄ちゃんの中には、壊れることなんて存在してなくて。作り上げていこうって。大切に、守っていこうって。
「……言いたかったのは、それだけ。ちゃんと食べて寝て、無理はしないようにね。無理するのは、美沙の悪い癖だから」
お兄ちゃんはそう言って小さく笑うと、そのまま部屋を出ていこうとする。
頭で考えるよりも先に、私の口が動いていた。
「待って……!」
私の涙声に、お兄ちゃんが振り向く。気づけば、必死になっていた。かっこわるくても、涙を隠すこともできずに。
ただ、お兄ちゃんに伝えたい言葉が、頭の中、パンクしそうなほどいっぱいになってて。
「ごめんね。私……強くなろうとしても全然だめで。情けなくて。お兄ちゃんにいつも、いろんなもの、もらってばっかりで」
しどろもどろになりながら言って、私は懸命に次の言葉を探し出そうとしていた。
なかなか出てこない私の言葉を、お兄ちゃんはちゃんと待ってくれている。
そんなお兄ちゃんに後押しされて、私はとてつもなく勇気の要るはずの言葉を、恐る恐る口にした。
「だけどね。だけど……帰っても、いい……?」
次から次から、涙が止まらなかった。自分の言いたいこと、まとめられないまま口に出していた。
「あの家が、居場所だって。私っ……居場所を見つけたって。私……」
うまく言葉になんかならない。お兄ちゃんを前にして、ただ、抑えきれない涙が込み上げるばっかりで。
いつも上手くやれない私。だけど、私に大好きなお兄ちゃんは、やっぱりお兄ちゃんで。
静かに微笑んだお兄ちゃんは、何も言わずにただ、私に向かって手を差し出して。そして、一言だけ。
「……帰ろう?」
――“だからまた、握手すればいいんだよ。そしたらずっといっしょだね?”
ひたすらにこみあげる、この気持ちを抑えるすべを、私は知らない。
子供みたいに、思いっきり声をあげて泣いた。お兄ちゃんの手を、握ったまま。
こんなに素直に泣いたのは久しぶりだった。つないだ手の温かさが、私の心の中の不安を、ゆっくりと溶かしていった。




