第8話 ためらい、予感〔9〕
いつ帰ってくるのかもわからない。もしかしたら、しばらく帰らないつもりなのかもしれない。
僕からの連絡に、美沙は一切反応しなかった。そして美沙と一緒にいるというあの少年。
美沙が僕を避けている。思春期にはよくある話だ。恋愛に夢中になって、家族を煩わしく思う時期。
こんなときには、そっとしておく他はない。冷静に考えれば、そんなことは明らかなはずなのに。
帰りついた家の玄関、靴を脱ぐこともせず、僕は玄関に座って美沙を待っていた。
連絡があるかもしれない。そう思って、ケータイも握ったままだ。
もう一時間は経っただろう。ここにこうして座っていても何の意味もない。でもここを動く気にはなれなかった。
無駄だと分かっていながら、どうして僕はこう必死になって待っているのか。自分でも自分の行動に驚いていた。
『拓斗さぁ、らしくないよね。最近ほんと。……それとも、それが拓斗の本質なのかな』
さっきの、先輩の言葉がなんとなく思い出された。確かにそうだ。
自分の本質なんてことはわからないが、らしくないことは確かだ。出会ってからずっと、乱されたままのペース。
少し疲れたような気分で溜息をつき、僕は座ったまま横の壁にもたれかかった。
心配したり、もやもやした気分になったり。思えばこんなに感情の起伏が激しくなったのは本当に久しぶりだ。
どうして急にこんな行動をとったのか。どうして僕を避けるのか。さっきからずっと考えている。
あの少年とのことという、はじめに出した結論は、一般論でもありそれが一番妥当なわけだけれど。
だけど僕の心はどこかでそれを否定している。それは少しおかしいんじゃないか、と。
恋愛に夢中になったからと言って、それだけで美沙は本当にこんな行動をとるだろうか。
違うような気もする。でもそれならいったい何が理由でこんなことになったのか、見当もつかない。
自然と自嘲的な笑いがもれた。結局僕は、さっき思い知らされた通り、美沙のことを何も知らないのだ。
家族だなんだと言って、できたばかりの妹を、必死に大切にしてきたつもりだった。
だけど、美沙との間にあった距離を埋め尽くすのには、時間があまりにも足りなかったのかもしれない。
まだ、本物にはなれていないのか。家族になろうとするだけのことが、こんなにも難しいのか。
感じる焦燥感が、僕をこの場から動けなくさせていた。
だけど、それだけじゃないのだ。僕の心にある、また別の感情。家族、それだけの言葉で片付けられるようなものでなく。
家に入った瞬間、家が広いと感じる。駆け寄ってくる美沙がいないだけで、他人の家かのような錯覚を起こす。
ほんの少し前までは、父親も仕事で家をよく開けていたし、ひとりの家が当たり前だったはずだ。
いつのまに、美沙がいることが“あたりまえ”のことになってしまったのか。
大切な家族、僕よりもずっと年下の妹。見守ってやるべき大切な存在。
いつか本当の意味で家族になれて、一緒に笑っていても。ずっと一緒にいられるわけじゃない。
いつか家族よりも大切なひとりを見つけて、美沙は僕から離れていく。それを見守るのが、僕の役目じゃないか。
もしかしたら美沙にとって、その大切なひとりというのは、あの少年なのかもしれない。
そこまで考えてまた我に帰る。まだずっと先のことだ。どうしてこんなことまで考えているのか。
自分の心の奥にある得体の知れない感情の、存在は自覚している。でもそれ以上、詮索してはいけない気がした。
ずっとそう思っていたのかもしれない。考えることを、無意識に避けていたのだ。無意識に――
『――無意識に、気持ちの奥に隠しちゃうのかもしれないね』
その時唐突に、頭の上から先輩の声が降ってきて、僕は顔を上げた。
瞬間、玄関の扉が開いて。そこから顔を出したのは、あまりにも見慣れた、大切な笑顔。
僕の心が安堵に満たされて。自然と僕は立ち上がり――
……そこで、場面は途切れた。さっき開いたはずの玄関の扉は、閉まったまま。
意識が少しぼんやりとしている。ああ、夢を見ていたみたいだ。夢なんて久しぶりに見た。
いつの間に眠っていたんだろう。意識が少しづつ現実に戻ってくるとともに、近くで鳴っている騒音が耳につく。
手の中で、振動しているケータイ。それを見て、やっと電話の着信だと気がついた。
そこに表示された名前に、僕は慌てて通話ボタンを押した。




