第8話 ためらい、予感〔8〕
強くなりたかった、ずっと。余裕な顔して言いたかった。家族なんていなくても、ひとりだって平気だよって。
だけど。誰かに嘘をつくのは簡単だけど、自分自身をだますことなんて不可能で。
簡単に強くなんてなれなかった。だからひたすら逃げて、逃げて、自分の心を守って。
「美沙ちゃん? どうしたの?」
おばさんに優しい声で問いかけられて、私ははっと我に帰った。
いけない。慌てて作り笑った私は、お箸でお茶碗のごはんをすくって、急いで口の中に入れた。
マキちゃんに連れられるまま、私はマキちゃんのおじさんの家にお世話になっている。
美味しい晩ご飯も出してくれた。いろんなこと話しかけてくれる。
笑顔の食卓。今日も明日も、あさっても。毎日ずっとこんな笑顔は続くんだって、みんな信じて疑わない。
あたりまえすぎて気付かないほどの幸せ。私のずっと欲しかったもの。
だけど当然だけど、私はこの家族の中にいてあたりまえじゃなくて。
マキちゃんのおばさんが私に気を使うたび、違うんだって思い知らされる。
ここでは、私はよその人間。ここは、私の居場所じゃない。
――じゃあ、いったいどこが私の居場所だって言うの? どこに私の居場所があるって言うの?
そう考えてしまったら、だめだって思っても、今の私の心には、たったひとりが浮かんできてしまう。
泣きたいけど泣けそうにない、変な気分だった。ただ、どうしようもなく胸が痛かった。
突き放したくせに。怖い気持ちに耐えようともせず、逃げだしたくせに。
ごはんも終わって、私は貸してもらった空き部屋の窓から、空を見上げていた。
電気も付けてないから、星が良く見える。久しぶりに見た。
そういえば最近は、夜空を見上げることが、だんだん減ってきてたんだ。
『拓斗さん、心配してるよ……?』
受話器の向こう側から聞こえた、真央ちゃんのとまどいがちな声が頭から離れない。
お兄ちゃんに会う勇気がなくて、内緒にしてって頼んだ。お兄ちゃんの優しい気持ちを無視して。
心配してるかもしれない。ううん、それよりもう、呆れられてるかもしれない。
どっちにしろ、私最低なことしてるんだ。情けない。こんなことをしておいて、まだ――
「美沙」
その時、唐突にノックもなく部屋の扉が開いて、慣れた声が私を呼んだ。
部屋に入ってきたマキちゃんは、少し不機嫌な顔だった。
それもそうだ。食事の間、私ずっと上の空だったんだから。
おばさんたちにも失礼なことしちゃったし、マキちゃんも気を悪くして当然だよね。
だけど私の前まで来たマキちゃんは、私の頭にぽんと手を置いただけで何も言わなかった。
いつも、お兄ちゃんもこんな風にして、私の頭をなでてくれる。思い出すと更にどうしようもない気分になった。
こんなどうしようもない気持ちの時は、誰かの優しさが本当に――痛い。
こんな私に優しくなんてしないでっていうマイナスな気持ちと、優しくしてほしいっていう甘えた気持ち。
ぐちゃぐちゃになった心の中、結局最後に浮かぶのは、どうしてもお兄ちゃんのことばっかりで。
「ねぇ、マキちゃん。私、今度は“菅谷”になったの」
そんな気持ちを振り切るように、私は笑って、わざと明るい声を出した。
マキちゃんは黙っていて、それが気まずくて、私は必死になりながら冗談めかして言葉を続ける。
「あはは。おかしいよね。私は私なのに、苗字だけ変わり続けて。いろんな名前経験できて、楽しいけどね」
「……美沙。無理して笑うなよ」
だけどマキちゃんはにこりとも笑わずに、そう言葉を返してきた。変わらない。簡単にごまかされてくれないんだ。
作り笑いもできなくなった私は、もう沈んだ声しか出せなくなった。
「苗字も同じ。両親も同じ。住んでる家も同じ。でもね、私たちは昔から一緒にいたわけじゃないから」
自分の言葉が、自分の心を傷付けていく。なにもないんだ。私とお兄ちゃんの間には。
過去に積み上げてきた時間も、思い出も、何もなくて。だから――
「二度目に離婚したとき、泣いてる私にマキちゃん言ったよね。すぐに壊れるなら、本物の家族じゃなかったんだって」
私の言葉に、マキちゃんがはっとしたように私を見た。ひどく驚いた顔をしている。
それもそうだろう。ずっと避け続けてきて、はじめてこの話題に触れたんだから。
ずっと近くで励ましてくれた、大切な人だった。一番近くにいる人だった。
でも、あのときマキちゃんがくれたその言葉は、私に大きなショックを与えるのには十分で。
私がずっと信じ続けてきたことを、一気に突き崩してしまうような。
離婚という言葉を、もっと怖いものに変えてしまったその一言。
それ以来、私はマキちゃんに上手く接することができなくなった。そのまま、マキちゃんと私の間に空いた距離。
「あれは……オレ、お前に元気出してほしくて、ただそれだけで……」
マキちゃんが気まずそうに口ごもる。わかってるのに、マキちゃんに悪気なんてなかったって。
マキちゃんを責めようとしてるわけじゃない。でも今の私を責めているのは、やっぱりマキちゃんのあの言葉で。
とめることもできないまま、私は吐き出すように言葉を続ける。
「そうだね。きっと本物じゃなかった。第一、今まで他人だった人同士が家族になろうだなんて、やっぱり無理があるし。本物になんて、なれるわけないよね」
自分で言った現実が、また私の心を傷付けた。今私の言ったことも、あの時マキちゃんが言ったことも、正しい。
家族ってそんなに簡単じゃない。それが現実っていうものなんだ。だから怖くなるんだ。
だけど信じたいって叫ぶ自分が、心の中で泣いていて。涙がこみ上げた。
「でも……マキちゃん。私……壊したくないなぁ」
声が震えた。壊したくない。だけど、ママの電話。こわれていく音がしてる。いっそ諦めていれば楽なのかもしれない。
でもだめなんだ。どうしても諦めることなんてできない。だって、こんなに大切なのに。
「もし、また壊れても。本物じゃなかったなんて、思いたく、ないなぁ……」
私の言葉を聞き終わったマキちゃんが、急に棚の上にあった私のケータイを手に取った。
そして勝手にボタンを押して、電話をかけ始めた。
「マキちゃん!? 何して……誰にかけてるの!?」
あまりに唐突なその行動に、涙も忘れた私は慌てふためいて問いかけた。
マキちゃんはといえば涼しい顔をして、そしてなんと「オマエの兄貴」とだけ言葉を返してきた。
どうして。混乱したまま、私はマキちゃんからケータイを奪い返そうしながら、声をあげる。
「やめてよマキちゃん! なんで――」
「迷いを捨てきれないで逃げてるだけなら、それは違う。間違えんなよ。傷付きたくないなら、自分できっぱりけじめつけとけ」
まっすぐに私の目を見て、マキちゃんがそんなことを言うので、私はぐっと言葉に詰まった。
逃げてるなんて言われてしまったら、何も反論できない。
私が混乱から覚めきれないまま、電話に出たらしい受話器の向こうのお兄ちゃんの声が、私にもかすかに聞こえた。
直接会話しているわけでもないのに、変に高まる緊張。
対して冷静なマキちゃんは表情も変えず、唐突に住所を告げて、すぐに電話を切ってケータイを折りたたんでしまった。
マキちゃんが言ったのは、多分ここの住所だ。
「あいつ、来ると思うから。涙ふいとけよ」
マキちゃんは私の手にケータイを返しながら、それだけ言って部屋を出ていった。
逃げ出したいと思ったけど、マキちゃんにあんなこと言われてしまったら、それもできなくて。
私は、ただ立ち尽くすことしかできずにいた。




