第8話 ためらい、予感〔5〕
バイトなんかで家をあけてから、帰るときには、いつも美沙が玄関まで駆けてくる。
玄関のベルを押したわけでもないのに、気配を察してくるのか。
ドアを開けると美沙はいつもそこにいて、僕を迎えてくれる。
その表情はとても嬉しそうで、でも同時になんだかほっとしたような目をしていて。
二階から駆け降りてくるらしく、少し息を切らして玄関で僕を迎える美沙は、まるでなついた子犬か何かみたいだ。
不安な気持ちで待っていたんだろう。そう思わせる美沙の様子が、なんだか微笑ましかった。
だから最近は用事があるとき以外は、寄り道もせず、まっすぐ家に帰る癖がついていた。
僕の生活の中心に、美沙が居る。それはいつしか自然なことになっていて。
だからまさか、今日みたいな日が訪れるなんて、想像もしていなかった訳で。
バイトを終えて、美沙が待っているだろうと、急ぎ足で帰ってきた我が家。
時間はもう7時半を過ぎている。いつもより少し遅くなってしまった。
少しでも早く美沙を安心させてやろうと、僕は急いで家の鍵を開けようとした。
けど途中で、僕はいつもと勝手が違うことに気がついた。鍵が開いているのだ。
出るときは確かに鍵をして行ったのに。
「ただいま。美沙……?」
ドアを開けて、家の中に向かって呼びかけてみるけど、返事はない。いつもなら玄関で待っているはずなのに。
もしかしたら、夕飯の買い物にでも行ったのかもしれない。鍵もかけ忘れただけだろう。
そう自分に言い聞かせながら、でもなんとなく何も手につかないまま、僕は美沙を待った。
だけど待っても待っても、美沙が帰ってくる気配はなくて。時計は8時を回っていた。
いくらなんでも遅い。連絡もなしに美沙がいなくなったことなんて、今まで一度もなかったのだ。
痺れを切らして、僕は美沙のケータイに電話をかけた。すると、何回コールを鳴らしても反応がないではないか。
そこで僕は、予感として感じていた危機感を、現実のものとして認識した。
僕の心を一気に焦りが支配する。最近は物騒なのだ。何かの事件に巻き込まれていたとしても不思議じゃない。
考えが悪い方にばかり向かっていくので、落ち着け、と何度も自分に言い聞かせる。
まだ決まったわけじゃない。とにかく探せるところは探してみなければ。
とりあえず冷静になって、僕は頭を働かせた。美沙の行きそうなところ。
このあたりでは真央ちゃんの所か……今日会ったあの少年のところだ。
どっちかなんてわからないので、両方確かめるしかない。今、僕にわかるのは真央ちゃんの家だけだ。
切羽詰まったまま、僕はバイトのために着たスーツを着替える暇もなく、家を後にした。
真央ちゃんの家までは、そんなに遠くない。車で行けば5分もかからないほどの距離だ。
ほどなくして辿り着き、車から降りた僕は、すぐに真央ちゃんの家の玄関前、ベルを鳴らした。
一度鳴らしてもなかなか出てこないので、再度鳴らす。
すると家の中から、聞き覚えのある声が、気だるげに返事をしながら近づいてくる気配がして。
空いたドアの向こうから顔を出したのは、予想外にもなじみのある人だった。
「拓斗……?」
真央ちゃんの家なのに、なぜかそこにいた伊藤先輩は、僕の姿を認識し名前を呟いた後、数回瞬きをした。
むこうにしてみても、僕が来るなんて予想外だったんだろう。先輩が少し首をかしげながら僕に問いかけてきた。
「どうしたの、突然」
「……先輩こそ、なんで真央ちゃんの家に?」
美沙が来ていないか早く聞いてみたかったが、突然来てそんなことを急に聞くのも気がひけて。
僕が問い返すと、先輩は少し微笑みながら素直に答えてくれた。
「あたしは、真央の両親が今日いないから、真央の世話にね。……それはいいから、拓斗のことでしょ? そんな恰好で出てくるなんて、ただ事じゃなさそうだけど」
僕の様子を察した先輩がそう切り出してくれた。確かにこんなスーツ姿、バイト帰りだと言うことは明らかだ。
先輩の後押しを借りて、僕はためらいつつもようやく本題に入った。
「……こっちに美沙が、お邪魔してないかと思って。見つからないんです」
「え? 来てないけど……、何かあったの? ケンカでもした?」
先輩の答えと同時に、心配な気持ちがさらに増していく。ケンカでもしたなら話はわかるが、本当に突然だったのだ。
でも確かに、バイトに行く前、美沙の様子はどこかおかしかった。あの少年のことも気にかかる。
幼馴染なんだと、美沙は言った。だけど幼馴染との再会の場面にしては、雰囲気が固いと思った。
過去に何かあったんだろう。そう思わせるには十分な、あの2人の間に流れていた空気。
本当は、何があったのか聞きたかった。だけど、それをためらわせたもの。
踏み入れない領域。踏み込まれたくない、心の奥の部分。美沙は心に何か重いものを抱えている。
美沙のことを知ったつもりで、僕は何も知らないんだと思い知って。家族と言ってみても、まだ遠い存在なのかもしれない。
そのことに気がついた時、美沙のことをもっと知りたいと思った。
だから、今。僕は約束を守らないといけない。どんな時も、美沙を見つけ出すと言ったのだ。




