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第8話 ためらい、予感〔4〕



 慣れていたはずだったし、覚悟だってしてたはずだった。いつかこうなることは、わかりきってたはずだった。


 だけど実際に、離婚という言葉が目の前に迫ってくるのを感じて。

 私はめまぐるしく揺れる自分の気持ちに、どうしようもなく混乱してしまっていた。


 しばらくして足が疲れてきて。

 そこでようやく、私は自分がケータイを持ったまま台所に突っ立っていたことに気がついた。

 30分くらい、もしかしたらそれ以上、ずっと立ち続けてたみたいだ。私は何もできないまま、その場に座り込む。


 考えないようにしようとしても、臆病になった私の心が、無意識のうちに昔の記憶を思い出してしまう。

 そして、マキちゃんの“過去の人間”という言葉。


 離婚して、他人になって。いつか、お兄ちゃんの中からも、私の存在は、消えてしまうの……?


 私がそんなことを思ったとき、ふと居間の壁掛け時計が音楽を鳴らし、私はびくりと肩を揺らす。

 遠目に見た時計は、7時を告げている。お兄ちゃんが返ってくる時間が、近づいていた。


 その時、私は急に怖くなった。


 手を離したくなかった。以前の離婚のときよりもずっと強い気持ちで、手を離したくなかった。

 信じたい気持ちが、ささやかに抵抗してる。

 大切なお兄ちゃんとの思い出、お兄ちゃんと過ごした日々。お兄ちゃんがくれた言葉。

 こんな日々は簡単にはなくならない、ずっと続くんだって。そう信じていたい自分。


 だけど離婚を何度も経験して、何度も傷ついてしまった私の心は、すべて信じ切ってしまえるほど単純じゃなくて。

 今私の心を支配するのは、お兄ちゃんを失う時に訪れるだろう心の痛みから、逃げようとする弱い気持ちだけだった。


 どんなになくしたくないんだって訴えても、いずれ遠い人になってしまうのなら。

 どうしようもなく辛い気持ちが、その後に待っているのなら。


 それなら――いっそ、自分から手を離してしまえば。

 そしたら楽なのかな。もうあの時みたいに、失った時みたいに、傷付かないで済むのかな……。


 その時ふいに、玄関のベルが鳴り響いた。私の心臓が大きく鳴って反応する。

 きっとお兄ちゃんだ。鍵を忘れていったときとか、お兄ちゃんはこうしてベルを鳴らす。

 そう思ったけど、だからこそ私はますますその場から動けなくなった。


 もし今、お兄ちゃんの顔を見てしまったら。きっと私はダメになってしまいそうな気がした。

 

 一呼吸おいて、ベルが再び鳴らされた。どうしよう、出ないとお兄ちゃんが家に入れない。

 でも、どうしようもなかった。ただじわじわと鼓動の速度を増す自分の心臓の鼓動が、嫌な感じに頭に響く。


 やがて私のケータイが震えだした。お兄ちゃんがかけてきてるのかもしれない。

 恐る恐る、私はケータイを手に取る。だけど、開いた画面に表示されていたのは、予想と違った名前だった。

 とまどいながらも通話ボタンを押すと、すぐになじみのある声が飛んでくる。

 

『美沙、家にいないの? 玄関前まで来てるんだけど』


 ベルを鳴らしていたのは、お兄ちゃんじゃなくマキちゃんだったらしい。

 それに安心して、冷静さをほんの少し取り戻した私は、動揺から抜け出してなんとか言葉を返す。


「ううん、家にいるけど……」

『じゃあ開けろよ。まさかまた、追い返すつもり?』


 受話器の向こうのマキちゃんは、少しいらついているのか、それが声にも出ていた。

 居留守だとばらしてしまったようなものだから、しかたないのかもしれないけど。


 どっちにしても今は、誰かと話せそうな気分じゃないし、誰とも会いたくないのに。

 だけど家の前まで来ている人を無視するわけにもいかなくて、私は仕方なく玄関まで出てドアを開けた。

 ドアの前に立っていたマキちゃんは、私を見るとやっと機嫌を直したのか、笑顔になった。


「ごめん、また来て。やっぱ兄貴抜きで2人で話したいじゃん? だから、タイミング見計らって……」


 冗談ぽくそんなことを言いかけたマキちゃんは、そこで言葉を切った。

 そして真顔になって私の顔をまじまじと見てくるので、私は気まずい気分で思わず顔を逸らす。


 たぶん、私は今ひどい顔をしているのだ。

 ショックで打ちのめされた今の私には、表面を取り繕う余裕も元気も残ってなかったから。


「美沙。まさか、また……」


 そう言いかけて、マキちゃんはまた言葉を切った。察しのいいマキちゃん。気づかれてしまったんだろう。

 しばらくの沈黙の後、マキちゃんがぶっきらぼうな声でぽつんと言った。


「我慢しないで、泣きたいときは泣けば」


 照れ隠しの中の優しさ。つらい時、いつも支えてくれた声が、私の心の奥まで届いた。

 私――泣きたいのかな。もうそれすらよくわからなかったけど。

 なぜか、マキちゃんの言葉を合図みたいにして、私の目から自然に涙が出ていった。


「マキちゃん。私、もう何も考えたくないよ……」


 私は涙ながらにマキちゃんに訴える。マキちゃんにこんなこと言ったって、どうしようもないのに。

 でも、苦しかった。ずっと誰かに打ち明けたかった。

 お兄ちゃんへの気持ちが膨らんでいくたびに、同時に増していった、抱えきれないほどに大きい不安のこと。


 すると突然、マキちゃんが私の腕を強引に引いて、外に連れ出した。

 あまりに突然で対応できず、私は靴を足に引っ掛けたままの状態で、ケータイ以外何も持たず家の外に出てきてしまった。

 私は焦ってマキちゃんに問いかける。


「あの、マキちゃん? どこ行くの?」

「出ていくんだよ。オレだって、もう前みたいな美沙は見たくない。また悲しむくらいなら、ここに居る必要なんてないだろ……」


 迷いのないマキちゃんのその声は、少し怒っているみたいで。

 怯んでしまった私は、そのままマキちゃんに手をひかれるまま連れていかれていた。


 嫌だと言えば、マキちゃんは無理に連れていったりしないだろう。

 でも、このまま家にいれば、すぐにお兄ちゃんが帰ってくる。こんな状態でお兄ちゃんと顔を合わせられる自信がなくて。


 自分の中の弱さに負けた私は、お兄ちゃんから逃げだすことを選んだ。



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