第8話 ためらい、予感〔2〕
修学旅行の前日の、ベットに入って寝ようとしてるときの気分みたいに。
楽しいことを待ってる時間っていうのは、どこか上の空で、何も手につかなかったりする。
お兄ちゃんと出かけるのはもう何度目かわからないけど、それでも毎回、こんなにも楽しい気分になれる。
私はお兄ちゃんを待ちつつ、居間で1人でテレビなんかを見てたりするんだけど、どうしても集中できずにいた。
そうしていると、意味もなくいろんなことを考える。
なんとなく手に取ったケータイをいじりだすと、ふと忘れていたことを思い出した。
音沙汰ないメール。ママのこと。
思い出したとたん急に不安になってしまった私は、慌てて以前やり取りしたメール履歴を捜し出した。
履歴のメールに表示された日付から、もう何日も時間がたってる。楽しいばかりの毎日で忘れかけてたけど。
改めて気づいてみると、心の隅に隠れていた不安が突然顔を出してしまったみたいで。
その時「美沙、」と背後から飛んできたお兄ちゃんの声に、私は大げさなくらいびくりとして応えてしまった。
振り向いてみると、お兄ちゃんも私のリアクションが予想外だったのか、少しきょとんとしたような顔をしていた。
「……どうしたの?」
不思議そうにそう言って、でも結局は微笑んでくれるお兄ちゃんを見たら、なんだか少し安心できた。
「ううん、なんでもない。行こうよ!」
気を取り直した私は、いつものように笑顔でお兄ちゃんとの兄妹デートを楽しむことにした。
大丈夫、だよね。こうやって心配したって意味はないんだから。
私が笑顔になると、お兄ちゃんも一緒に笑ってくれる。ささいなことだけど、お兄ちゃんとのこんなやり取りがすごく好きだ。
不安から一転、なんだかあったかい気持ちになって、私はお兄ちゃんと家を出る。家の玄関を出て、隣の駐車場に移動する。
今日は私の言ったとおりに買い物になったけど、どこに連れて行ってくれるのかな。そんな風に心を躍らせていた、その時。
ふいに鳴り始めた、私のケータイ。いつもみたいに、真央ちゃんかなって、そんな軽い気持ちでケータイを開いて。
そして、私は息を呑んだ。表示された、なつかしい番号と名前。
忘れたわけじゃないけど、とても大切な人だけど、忘れたい思い出もこの人と一緒にある。
思わずケータイを握ったまま立ち止まると、一緒に歩いていたお兄ちゃんも数歩進んでから立ち止まり、私を振り返った。
お兄ちゃんがまた不思議そうな顔をして私を見ている。
その眼差しに見守られるようにして、一瞬のためらいの後、私は通話ボタンを押した。
「……もしもし?」
『美沙?』
恐る恐る発した私の声に、すぐに返ってきたのは、お兄ちゃんとはまた違う落ち着きを持った、少し低めの声。
私が何も言葉を返せずにいると、受話器の向こうの声がまた続ける。
『会いにきた。……住所、聞いてたし』
「そっか……」
私はやっとそれだけ返した。私の様子を、お兄ちゃんが隣で見守ってる。
なつかしい人と、新しくできた家族のお兄ちゃんの隣で話している。なんだか、変な感覚だった。
『……あ。オマエ見つけたから、切るよ』
ふと受話器の向こうの声がそんなことを言い、聞き返す間もなく電話は切れた。
戸惑う間もなく、通りの向こう側から、こっちに向かって歩いてくる人物の姿が目に入った。
隣で支えてくれてたのはほんの少し前のことなのに、なんだか大昔のことみたいに感じる。
それはきっと、お兄ちゃんと過ごす日々が、私の中ですごく大きいんだって証拠。
やっと私たちの前まで歩いてきたその人物に、私は少しためらいがちになりながらも、“いつものように”呼びかけてみる。
「……マキちゃん」
「マキちゃんって呼ぶなって言ってるだろ。女じゃないんだから。オレには、五条タマキって男らしい名前があるんだよ」
返ってくる言葉は、やっぱり予想通りで。なつかしいやり取り。なつかしい笑顔。
幼馴染、ふたつ年上の彼は、あまり変わっていなかった。
“すぐに壊れてしまうなら、それは本物じゃなかったんだよ”
夢に見たばかりの過去の記憶が、私を支配し始めていた。




