第5話 ちくりと、胸の痛み〔4〕
わけのわからない、自分の感情に振り回されて。私はもう、どうしていいのかわからなくなってきていた。
だって、すごく近いんだって思ったから。
あの大人な女の人が、お兄ちゃんの名前を呼ぶ声も、話し方も、視線一つを取ったって。
私よりずっと、あの女の人の方がお兄ちゃんに近いんだって感じたから。
だから――逃げた。でもそれだけじゃなくて。
お兄ちゃんを誰よりも大切に思っている私だから、わかっちゃったんだ。
あの女の人にとっても、お兄ちゃんは特別な人なんだってこと。
それに気づいた瞬間、途方もなく苦い気持ちがこみ上げてきて。こんな気持ち、知らなくて。
気づけば、体が勝手に動き出していた。だけどまだ、お兄ちゃんとはぐれるつもりなんてなかったのに。
少しだけ走って、そして振り向いたら、お兄ちゃんはあの人の方を向いていて、何か話してるみたいだった。
あの人の、楽しそうな笑顔。そんな光景が、私の心に突き刺さって。
ほんの少しのためらいも捨ててしまった私は、そのまま背を向けて走り去った。
「っはぁ、はぁ、」
そうして少しの間走ったところで、息が上がってきた。
一体どこまで来たのか自分でもわからないまま、気づけば足元は、砂利道。下駄で走るのはすごく難しい。
第一、浴衣で走るのなんて無理があった。せっかく一生懸命着た、黄色の浴衣。もう着崩れてしまった。
でも、走らずにはいられなくて。私は疲れを訴える肺を無視して、おぼつかない足取りで走り続けた。
自分の気持ちすらわかることができなくて、パニック状態になって。
優しいお兄ちゃんの手をはねのけて、傷付けて、あげくの果てには勝手に逃げ出して。
そうやってやけになってた、報いだったのか。いきなり、視界が反転した。
「きゃっ……!」
思わず悲鳴をあげる。どうやら砂利に足をとられたみたいだった。でも気づいた時にはすでに遅くて。
転んだ拍子に地面に手をついて、手首にぶら下げていた水風船を、ぼこぼこした砂利に押し付けてしまった。
瞬間、ぱんっ、と激しい大きな音をたてて、水風船はあっけなく割れた。
ぱしゃっと水がこぼれおちて、そこに残ったのは無残な風船のかけらだけ。
例えようもない虚しさの中、私は自分の心の奥にあった気持ちに感づいてしまった。
ああ、私――追いかけて欲しかったんだ。そうやって確かめたかったんだ。
あの女の人よりも、私の方が大切にしてもらってるって。
「私、バカみたい……」
体を起こしながら、投げやりに呟いてみる。だって悲しかった。くやしかった。
私がお兄ちゃんと家族のつながりをなくして、他人になってしまっても。あの人は、近いんだ。
こんな惨めな自分を見つけて欲しくなくて、私はちょうど近くにあった大木の影に座り込んだ。
申し訳程度の隠れ方。そんなのわかってたけど、もう動く気にもなれなかった。
……ううん、動きたくなかった。だってここにいれば、完全に隠れてないこの場所にいれば、もしかしたら――
その時、打ち上げ花火が上がる音がして、私は反射的に顔を上げた。
一呼吸おいて、夜空いっぱいに広がる、きれいなひかり。
いつの間に花火が始まってたんだろう。夢中で走ってたから、気がつかなかった。
本当は、お兄ちゃんと見るはずだった。
さみしくない夜空。明るい夜空。星なんかなくたって、きっとこんな夜は幸せだ。
だからこそ、大切な人と一緒に見たかった。
だけどこんな私、見つけて欲しくない。見つけられなくていい。……でも、でも本当は――
「見つけた」
一瞬目の前が暗くなって、頭の上から降ってきた、穏やかで心地いい低さの、大好きな声。
逆光で、顔がなんとなくしか見えなくても。それが誰かなんてもう、考えるまでもない話で。
私の胸に込み上げる、切なさとともに。お兄ちゃんの背中で、七色の大きな花火が、夜空に再び円を描いて散った。
近々、ランキングの方をシリアス部門に移動しますので、ご注意くださいね^^




