第2話 とまどいの気持ち〔5〕
僕の服の裾をつかんだ美沙は、一瞬泣きそうな顔をした。
毎日、くるくる変わる表情。でも、美沙の悲しい顔だけは、いつも変わらず痛々しい。
不安なら、それを取り除いてやりたい。
もうすっかり兄気分の僕は、自然とそんなことを思ってしまうのだった。
◇ ◇ ◇
眠れないのか、さっきから美沙は何度も寝がえりを打っている。
眠るまでそばに居てやろうと思った。
とりあえず、美沙の前でテレビを見てうるさくするわけにはいかないので、僕は大人しく本を読んでいた。
体調が悪い時というのは、わけもなく不安になったりする。美沙の様子からして、そんな心境なんだろうと思った。
絨毯がひいてあるとは言っても、寝心地は悪そうだ。居間ではゆっくり休めないだろうと思うけれど。
意外に頑固な一面がある美沙には、言っても譲らないだろう。
「ねぇ、お兄ちゃん」
ふと、眠ろうとしていたはずの美沙から、少しくぐもったハスキーボイス。
本から彼女に視線を移すと、美沙はかぶった布団から鼻から上だけを出して僕を見ていた。
僕は努めて優しい声で呼びかけに応える。
「何?」
「……ううん、ただ呼んでみただけ」
そう言って、美沙は少し、はにかんだような表情をした。そんな美沙に、ため息交じりに微笑んでやる。
そしてまた、しばらくの静寂。僕の目はまた本の文章を追う。
数ページめくり、そろそろ眠っただろうかと美沙を見ると、美沙の目は僕を向いていた。
眠ろうとしているとばかり思っていたのに。
「美沙。早く寝ないと、風邪が治らないよ」
「お兄ちゃんの、一番好きなものって何?」
僕の諭すような言葉には答えず、美沙は唐突にそんなことを言った。
不意打ちのような問いかけに、一瞬言葉に詰まってしまった。好きなもの、と言っても範囲が広すぎる。
「難しいこと聞くね。美沙は?」
答えに困った僕は、質問をそのまま返してみた。すると美沙は静かに微笑む。
いつも無邪気なものだが、美沙はたまに、中学生とは思えないほどの大人びた表情をする。
「私はね、星がすき」
美沙の口から出てきたのは、予想外の返答だった。もっと食べものとか、スポーツとか、そういう類の話だと思っていた。
僕が「星?」と聞き返すと、いつのまにか目を閉じていた美沙は、頷き、言葉を続ける。
「本当のパ……お父さんがいなくなった時にね。お母さんが、星になったって言ったの」
パパ、と言おうとしたのを、途中でお父さんと言い変えたのが微笑ましいが、今はそんなことを気にする雰囲気じゃない。
何と言葉を返していいのか、わからなかった。
僕も早くに母親を亡くしている。こんなとき、安易な慰めの言葉が欲しい訳じゃないこともわかるからだ。
「月は嫌い。星を見えなくするから。星のない夜は……少し、怖い……」
美沙のその声は、語尾になるにつれ、だんだん弱くなる。眠たくなってきたのだろう。
やがて僕の返答を聞くまでもなく、声は自然に寝息に変わっていった。
猫のように、丸くなって眠る。あどけない寝顔。この子は今まで、どんな思いをしてきたのだろう。
美沙の布団をかけ直してやった僕は、ふと思いついて、カーテンと窓を開け、居間から続くベランダに出た。
見上げた空には明るい月が浮かんでいて、星はあまり見えなかった。




