第2話 とまどいの気持ち〔3〕
夕方の海は、そろそろ暗くなり始めていた。太陽が完全に見えなくなるまで、あとほんの少し。
興奮冷めやらぬ様子の美沙は、今度は砂浜にしゃがんで何やら探しているようだった。
美沙に強引に海に入れられて、ジーパンはまだ乾いていない。
濡れた足下は少し気持ちが悪いが、あんな笑顔を見せられてしまっては、怒る気も起きないどころか微笑ましくもあった。
「あ! あった。あったよお兄ちゃん!」
しゃがんでいた美沙からそんな声が上がった。立ち上がって、僕の前まで駆けてきた美沙は、手のひらを差し出してきた。
その手のひらの上に乗っているものを見て、僕は首をかしげつつ呟く。
「貝殻?」
美沙の小さな手のひらよりもっと小さい、親指の爪ほどのふたつの綺麗な白い貝殻。
それらは示し合わせたように左右対称な形をしている。きっと元は一つの貝殻だったんだろう。
探していたのは、対の貝殻だったのだろうか。
「他のを合わせようとしてもだめなんだよ。このふたつはね。ふたつでひとつなの」
美沙はそう言って、僕の手をとり、掌にその貝殻の片割れを乗せてきた。
嬉しそうに笑いながら、その大きな瞳で僕を見上げ、美沙は弾んだ声を出す。
「お兄ちゃんに、片方あげる!」
僕は、こんなに屈託なく笑える人間を見たことがない。
それは年齢がどうとかじゃなく、美沙自身の本質的なものによるのだろう。憎めない。
いつのまにか、すっかり美沙のペース。微笑ましく見守っている自分がいる。でも、そんな自分を嫌いじゃなかった。
「ありがとう」
僕はそう言って微笑みを返した。美沙も無邪気な笑みを深める。
僕の兄妹になったのが、美沙でよかったと思った。これから過ごす兄妹としての時間も、美沙となら退屈しないだろう。
ふと気づけば、時計はもう七時を指していた。夏は日が長いから実感がないが、あまり遅くなるわけにもいかない。
「美沙、そろそろ帰ろうか?」
僕がそう言うと、もっと渋るかと思ったが、意外にも美沙は「わかった」と素直に頷いた。
そして脱ぎ捨ててあった靴と靴下をとり、砂の上に座って、足の裏の砂をはたいてから履き始める。
異変に気づいたのはその時だった。靴を履き終わっても、美沙は一向に立とうとしない。
見かねた僕は、座り込んだまま俯いている美沙の前にしゃがみ、声をかける。
「美沙? どうかした?」
「……なんでもない! ちょっと、貧血かな。あはは」
明らかに無理した様子で、美沙は顔だけあげて曖昧な顔で笑った。感づいた僕は、美沙の額に手を伸ばす。
とっさに美沙が僕の手を遮ろうとするが、僕の手が美沙の額に到達する方が早かった。
――……予想通り。熱い。
「言ったよね? 無茶はだめだって」
僕の言葉に、「だって……」と呟いてから美沙が口ごもる。僕は少し怒っていた。
昨日、あんなに雨に濡れて冷え切っていたのだ。それを考えれば今日は体調を崩していても不自然じゃない。
強がって隠していた美沙に対して、というのもあったが、なにより気づいてやれなかった自分自身に対して憤りを感じる。
今日、誘い出すべきじゃなかった。心の中で自分に舌打ちしながら、僕はしゃがんだまま美沙に背を向ける。
「乗って」
さっき少し怒ってしまったので、怖がらせないように、できるだけ声をやわらかくして言った。
美沙は歩けそうにない様子だし、おぶっていくのが一番負担がないと判断したのだ。
ここから駐車場まで少し距離がある。これ以上無理はさせない方がいいだろう。
「え、でも重いし……」
美沙はそんなことを言って躊躇している。見るからに細身で、重い訳もないだろうに。
とにかく美沙を早く休ませたかった僕は、美沙が断れないような言葉を選ぶ。
「僕はそんなに軟弱に見える?」
「そんなこと……ないけど……」
美沙の気まずそうな声が、語尾に近づくにつれ弱くなる。迷っているのだろう。
そうして僕の背中の向こうで少しの間戸惑っていたようだが、やがておずおずと僕の肩に手を置いてきた。
やっと連れて帰れることに安心しながら、美沙をおぶって立ち上がる。予想通り全く重くない。
「もっと頼ってくれていいよ。兄妹なんだから……」
美沙に負担をかけないようにゆっくりと歩きながら、僕は独り言のように呟いた。
美沙は何も言わず、辛そうな息を洩らしながらも、応えるように僕にまわした腕にきゅっと力を込めしがみついてきた。
背中から、僕よりも高い美沙の温度。この胸にひっそりと生まれていく、くすぐったいような感情を。
その時の僕はまだ、全く気づいていなかったのだった。




