第89話 IQ200の微笑
第89話
その数日後。下校時刻。
放課後の星城学園に、校内放送が響き渡る。
『1年A組、海野美優さん。1年A組、海野美優さん。至急、職員室まで来てください』
「なんだろ……」
帰り支度をしながら美優は、思い当たる節に思いを巡らせている。
「どうした~?」
吉川りこが、イタズラっぽい目で美優を見る。
「なんか、悪いことでもしたんじゃないの~?」
「するわけないでしょ!」
りこは口角だけ上げて、美優の顔をのぞきこむ。美優は思わずむっとするが、目の奥はちょっと笑っていた。
「待ってようか」
「いや、いいわ」
と、美優は鞄を持った。
「まったく理由が分からないんだもの。どれぐらい時間かかるか分からないし、りこは、先に帰ってて」
「そう……?」
「うん。また帰ったら、連絡する」
「そっか。じゃあ、お気をつけて行ってらっしゃいまし!」
りこがふざけて、敬礼をする。
美優は思わず笑いそうになった。だが自らも敬礼をしながら背を向けた。
その背を見ながら、りこは思う。
(今日は、一人かぁ……。うみがいないと、放課後ってちょっと音が小さくなるな)
とぼとぼと教室を出て、廊下を歩いていく。
やっぱり、美優がいないと寂しい。
下駄箱で、靴に履き替える。その動作自体、なんだか違和感をおぼえるほど、りこは、いつも美優と一緒だった。
◆ ◆ ◆
りこは校門へ向かっていく。
星見山の中腹にあるこの星城学園からは、水城市の全景が見える。
街並み、造船場、フェリー乗り場、そして夕陽の光でギラギラと水の腹を光らせた海。
水城湾の水平線の向こう側に沈んでいく真っ赤な太陽。
りこは、この景色が大好きだ。
学校という校則に厳しく縛られたルールのある場所の塀の外に広がる開放感。
かすかに感じられる潮風。
中等部のころから見慣れた景色なのに、ここを出るたび、いきなり広い世界に一歩踏み出した気分になる。RPGで町の外に出た瞬間、ぱっと世界が開けるあの感じ。りこはそれがたまらなく好きだ。
(うわあ。今日も空気が澄んでる)
夏の終わり。ちょっと体を湿らすような潮風。少し寂しさを思わせる秋手前独特の少し光が衰えた夕暮れ。
その中を、影を長く伸ばしながら、りこは歩いた。
校門を出て、左に折れるとゆるやかな坂道が現れる。それをずっと下っていくと麓に、右側に美優が住み込みをしている北藤翔太の自宅。
その大きな教会の前を通り過ぎて入り組んだ路地の先にアーケード街の新町がある。
今日は、そこを……正確には山を下って麓まで行くのは、美優とではない。1人だ。
ちょっと寂しさを覚えながら校門を出た。そして坂道を降ろうとした、その時だった。
「あの。すみません」
どこかで聞き覚えのある声がした。
「はい?」
思わず振り返る。
校門を出た所。
その塀にもたれるように、ある青年がそこに立っていた。
「あの……吉川りこさん、で間違いないかな?」
「……!」
その声は、夕方の潮風みたいにひんやりしていて、落ち着いていた。怒っているわけでも、甘やかすわけでもない。ただ安心だけを残す声。
りこは、驚いた。
知らない人に名前を呼ばれたから、ではない。
その青年は。
先日、りこにぶつかった、あの美青年だったからだ。
少年っぽさの残る大人らしさ。知的な雰囲気。やんちゃさと落ち着きを同居させたような、ハイブリッドの可愛らしさ。あまり高くない身長。痩せ型の顔と体型。
(うそ……!)
りこは動揺する。
(ほんとに、また、会えた……!)
会えたどころの話ではない。
その美青年は、りこが下校するのを、校門の外で待っていてくれたのだ!
だが。
うれしさの反面、不安も覚える。
なぜ。どうして? なんで私を待ってるの? しかも、私、あの時、名前、言ったっけ?
ストーカー。……そんな不穏な言葉も頭に浮かぶ。
だがその不安は、すぐに消し飛んでしまった。
「これ、落としてましたよ」
その美青年は胸ポケットから生徒手帳を取り出した。
「え……?」
思わず、自分の胸ポケットを探る。
ない。
鞄に手を突っ込む。探す。
ない!
「ほら。ここに、あなたの名前と顔写真が」
美青年は、生徒手帳を開いて見せた。そこには確かに、りこの名前と顔写真。
「え……あの……」
さまざまな思惑に動転しているりこの手を取って、美青年は生徒手帳を渡した。
「先生に渡すと怒られるでしょ? だから、直接返したほうがいいかなって思って。はい、これ」
手を取られて、りこは赤面する。
(えーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!?)
だが、青年はあっさりとりこの手を離し、すぐに背を向けた。
「じゃ。これからは気をつけてくださいね」
去っていく青年。
その背を見ながら、りこは悩む。
自分の理想のタイプの男性。
もし、ここで別れてしまったら、二度と会えないかも知れない。
わざわざ学校まで届けてくれる親切さ。
おそらく、教師に渡せば、りこが叱られると気づいていて、直接渡してくれた、その気遣い。
そして、渡してすぐに去っていく紳士的な行動。
「あの……」
いくらストレート過ぎるタイプだと自認している自分でも驚いた。まさか、自分がこんな事をするとは思ってもいなかったからだ。
その声を聞いて、青年は振り返る。
「はい?」
その笑顔にりこは魅せられている。素敵な笑い方。透き通るような声。
「まだ、何か?」
りこは、ほぼ無意識だった。無意識に、その言葉を口から発していた。
「あの! もしよかったら……お礼、させてください!」
言ってから、胸がドクンと跳ねた。もう止められなかった。自分の口が、自分より先に走っていた。
青年は不思議そうに首をかしげる。
「どうせ、山を下りるのは一本道ですし。それに、松柏のほうに、美味しいコーヒーと軽食を出す喫茶店があるんです。そこで……」
下を向いて真っ赤な顔を隠しながら、りこは言う。
(あー、どうしよう! やっぱり変かな、変かな? 私、ちょっと積極的すぎるかな? しかも相手誰か分かんないじゃん、おかしいよ、私おかしいよ、どうしよ)
そんなりこの耳へ、涼し気な空気が流れ込むように、やわらかな声が答えてくれた。
「いいですよ」
「え?」
「せっかくですから、一緒に、下山しましょうか」
青年は、りこへ向かって、にっこりと笑った──。
◆ ◆ ◆
国際魔術会議の水城支部がある、ホテルのフロア。
「もしもし!? 高木? おい高木! どうした、何があった!?」
ベテランエージェント・大熊英治は喫煙所の中で、スマホを握りしめている。部下の高木英人に、八雲在斗を尾行させていたのだ。
(絶対なんか企んでやがる……とんでもねえ爆弾でも持って帰ってくる気じゃねえだろうな)
何よりも八雲は、色々なことを知りすぎている。
まるで、今、この水城市で起こっていることの全てを知っているとしか思えないほどの状況把握ぶり。
写真を見て、黒幕の、しかも、悪魔の名までハッキリと断定した、その慧眼を越えた、化け物じみた洞察力。
(いや。もしかして、あいつは、すでに何もかも知っていて……)
大熊の元刑事の勘が、八雲在斗は“おかしい”と警告を発する。
(全て実は調査結果があって、知らないふりをしているだけじゃァねえのか?)
IQ200を超える天才だとは聞いている。
あまりにも頭がキレる為、国際魔術会議でも、カミソリ八雲と呼ばれる存在であることも知っている。
ゆえに、あっという間の昇進。まだ20代後半にして、幹部クラスにまでのし上がった八雲在斗。
その、単なるコマにされることは、手のひらの上で踊らされるのは、ベテランである大熊にとっても耐え難い屈辱であった。
「どうした? 高木? なんで黙ってる。何があったか言え!」
スマホに向かって怒鳴りつける大熊。
スマホ越しに高木の声は、なぜか小声で震えていた。
「あのぉ……」
「なんだよ! はっきり言え! 撃たれたか!? 爆発か!? 悪魔か!?」
「いえ……その……」
「なんだぁ!?」
「八雲さんが……女子高生を……ナンパしました……」
(…………え?)
大熊の頭の中で、一瞬だけ時が止まった。
「ハアァァァァァァァァァァァァァァァァァ!?」
大熊はあやうくスマホを落としそうになり、あわてて両手でキャッチした。喫煙所のドアに背中をぶつけ、「いってえ!」と顔をしかめる。
(何やってんだあの若造ォォ! よりによって未成年に何してんだコラァ!? こちとら警察OBだぞ!? 管理責任どうすんだ俺ェ!?)
◆ ◆ ◆
八雲の運転する車に乗って松柏の喫茶店「ブルマン」へ。
吉川りこは、クリームソーダの残りのクリームをソーダに溶け込ませるために、グラスの中をぐるぐるとかき混ぜている。
「そっか。僕もニュースでは見ていたけれど、色々と大変なことがあったんだね」
「そうなんです」
と、りこは下を向いたまま答える。
「フェリー乗り場の、生徒たちの集団飛び降り事件、あと失踪事件。すごく怖いんですけど、でも、案外、日常って、そのまま流れていくんだなって。すごく怖いことがたくさん起こっているのに、実は、私の日常は変わってないんだなって」
「そういうものかもしれないな」
青年は答えた。
「身近で起こる凄惨な事件って、不思議なんだよ」
「……はあ……」
「“身近”って言葉には、もともと距離のニュアンスが入っている。まるで自分ごとのように感じるのに、実際には指一本ふれていないこともある。そこにズレが生まれる」
「ズレ?」
「時間も同じでね。時間って、みんなに平等に流れていると思われがちだけど、本当は違う。人によって、流れ方も、重さも、ぜんぜん違う」
少し分かる気がする。
「日常も、それと同じなんだ。君の日常がまだ壊れていないなら、その世界線では、君はまだ安全圏にいるってことになる」
八雲は「世界線」という言葉を、ごく当たり前のように口にした。りこは意味を取りきれない。ただ、その声は、どこか祈りに似ていた。
(この人……何を見てきたんだろう)と、りこはふと思った。
そこで突然、前頭葉が活発になる。自分が突然起こした行動。自分から男の人に声をかけるなんて。
そんな自分が今、この瞬間も信じられなかった。
「あの、八雲さんは……」
次はりこの方から切り出す。もういい。声をかけたのは私。だからもうそれに慌てても仕方ない。でも、ここまで動揺するなら、せめて、この人のことを、私もちゃんと知らなきゃ。
りこは妙な使命感に燃える。
それが、自ら罠にかかりにいく小鳥のようなものと知らずに。
「いつ、この街に来たんですか?」
そして、そう聞いた。聞いてしまった。もうどうにでもなれ!
八雲は、コーヒーカップをソーサーに戻しながら言った。
「つい数週間前だね」
八雲はウインドウ越しに外を眺めた。
「数週間前……」
りこは、まだ八雲の目を見て話せない。恥ずかしいのだ。
「なのに、よく水城のことをご存知ですね。平家谷の事件もそうだし、『濃霧現象』の歴史についても、すっごく詳しくて」
「ああ。それはね。僕の部下に、この街に住む学生との昔なじみがいるからだよ。それで、色々聞いているんだ」
「昔なじみの……学生さん……?」
「そう」
八雲は、コーヒーの中に、さらに角砂糖を1つ、放り込んだ。
「海野……美優さん、って言ったかな」
「えっ!? うみ?」
頭の中で何かが爆発したような気分になった。
思わぬ名前が出て来た! りこは八雲の目を見る。
「そう。確か今は、クラスメイトの北藤翔太くんって人の家に居候してるって。海野さんのことを知ってるのかい?」
「知ってるも何も!」
りこの顔がぱっと華やいだ。
偶然出逢ったタイプの男性。落としてしまった生徒手帳。八雲在斗、名前しか知らない、このほぼ初対面のはずの美青年。
これから仲良くなれたら、と思っていたところで、思わぬつながりを見つけられたのだ!
不安は消し飛んでしまった。なんだ、意外と身近な人なのかもしれない。
「うみは。いえ、海野さんは、私の大親友です。北藤くんも、同じクラスメイト。……嘘みたい。こんな事ってあるんですね」
「そうか。まさかその2人と仲が良いとは思わなかったよ」
「ですよね、ね。偶然! なんかすごい! すごいですよ! こんな事ってあるんですね!」
八雲はそれに微笑みで答え、スプーンでゆっくりかき回しながら角砂糖を溶かしていく。
「これは、面白いな」
八雲は、楽しそうに笑ってみせる。だが、その目は笑っていなかった。
「せっかくだから、その大親友……海野さんって子のことや、北藤くんのことも教えてよ。りこちゃんは、ふだん学校で、二人とどんなふうに過ごしてるの?」
「ええとですね、私は、“うみ”って呼んでるんですけど、うみは、すっごく感情表現の苦手な子。でも、すごくまっすぐで、いつも一緒にいて……。あと、格闘技やってるかな。それは北藤くんも同じ」
「へえ、格闘技……」
「あ、うみと、北藤くんは幼馴染なんですよ! それで同じ道場に通っていて。ここだけの話、きっと、うみは北藤くんのこと、すごく気になってるはず。あんまりそんな素振り見せないけど私にはわかるんです」
「いいね。青春だね。で、北藤くんの方はどうなんだい? その……海野さんに対して」
「う~ん……」
少しりこは間を置いて考える。
「北藤くんについては、ちょっとよく分からないところがあるんですよね。あまり友達もいないみたいだし、話しているところ、あんま見ないんですよ。ただ、ちょっと不思議なところはあるかな」
「不思議なところ?」
八雲の目が輝いた。だが、りこはそれに気づかない。
「うん。なんか達観したところがあるっていうか。あ、これはうみとの共通点でもあるんですけど、やたら状況を素直に受け入れるんですよね。それほど抵抗もなくって言うか。それで、簡単に馴染んでしまうのがうみで、北藤くんはずっと他とは距離を取り続ける。なんだか正反対っていうか」
「他には?」
「他には……えっと……。時々、目が寂しそう……」
「寂しそう?」
「寂しそうっていうより……なんか、私たちとは違う世界を見てるみたいなんです」
「うん」
「大げさに言うと、もうひとつ別の世界を一回生きたことがある人、みたいな。こっちと同じ重力で立ってない感じ、っていうか」
八雲はじっとりこの言葉に耳を傾ける。
「ただ、こないだもそうだったんですけど、何かちょっとした事件が起こった時、目の色が変わるんですよね。あ、これ比喩的な表現はなくって、本当に、瞳が光るような、なんて言うか……」
りこは自分でも何を言っているのか分からず、あわてて手を振った。
「変ですよね、これ。自分で言ってて、ちょっとオカルトっぽいなって思うんですけど……」
「いいよ。続けて」
八雲はりこの目を見つめ続けている。
「あ、私、もう、なんだろ! そんなわけないのに。でも、ちょっとそう感じる時があるんですよ。小学生の時に転校して、高等部になって戻って来て、どこか、目の雰囲気も変わったような……お父さんとお母さんが亡くなったからかなあ。でもここ最近、特に目つきに力を感じるようになりました。ただ元気になっただけかもしれないけれど」
「うん。それはとても興味深いよ」
八雲は笑った。
「りこちゃんは、すごく観察眼に優れた子なんだね。とてもおもしろい話だった。またいつか会えたら、もっと色々お話聞きたいな」
その言葉を聞いて、反射的に言ってしまった。
「連絡先!」
鞄をゴソゴソしながら、スマホを取り出す。
「あ、あの……、連絡先、交換しませんか?」
八雲はコーヒーカップを傾ける。そしてカップに隠して、口元をほころばせる。
「いいよ」
と、八雲は直前とは違う優しい微笑みをりこに浮かべた。
「えと、えと」
二人は連絡先を交換し合う。そして、八雲がりこのスマホに少し手を触れた瞬間に。
八雲がその瞬間、指で電源ボタンをそっとなでた。
ほとんどふれるだけの、やさしい仕草。
その指先から、極小のカバーのようなものがボタンに吸い込まれる。
それは、最新式の超小型盗聴器だった。
りこは「ふれられた」ことに少し鼓動が速くなるだけで、何も気づかない。
八雲は、まるで祝福でも与えるような笑みをした。




