第86話 地獄の三大実力者
第86話
同時刻──ひまりが拝殿の床下で“それ”に追われていたその頃。
例のゴスロリ少女は、住宅街/繁華街/港/公園に“同じ瞬間”に現れていた。どれも同じ顔、同じ姿勢、同じ瞬き。
『どこでしょう──どこでしょう……あの方は、どこ……』
まるでフランス人形のような西洋の美少女。
彼女たちは、それぞれが、それぞれの場所を彷徨う。
『どこでしょう──どこでしょう……あの方は、どこ……』
声は一人なのに四方向から届き、耳介のすぐ裏と高架の上とで同時に反響する。
◆ ◆ ◆
その一つ、水城市唯一の繁華街。
立て続けに起こる奇怪な事件の数々にもかかわらず、今夜も町は酔っぱらいで溢れていた。
人波は酔いに揺れ、緊急速報の履歴も拭われたまま、誰も空を見ない。
──所詮、他人事……。
まさかそれらが自身に降りかかるとは考えない、ある意味、呑気で穏やかな性格。
穏やかな気候である愛媛県東予から南予の、いわゆる県民性だ。
その水城一番街に“それ”は突如。現れた。
『どこでしょう──どこでしょう……あの方は、どこ……』
そう歌うように囁きながら、アルコールの匂いが混じった人混みの中をフラフラと歩いている。
「おい、あれ見ろよ」
サラリーマンの一人が指差す。
「あー? なんだありゃ」
「ゴスロリ……っていうじゃねえの? あれ」
「珍しいな、こんな田舎に」
「でもなんだ、あれ。お面でもかぶってるのかよ、あの顔」
そう。その顔は人形そのもの。陶器でもない。人の肌でもない。“生”を感じない質感。表情。眼窩には磨かれすぎたガラスの珠。鼻根のない呼吸音だけが、口の動かない口元から漏れている。
「コスプレか?」
最近は、面をかぶったコスプレマニアもいる。
「いや、ハロウィンはまだ先だぞ」
「でも俺、ゴスロリって、生で初めて見たなあ」
「もしかして、クラブハウスとかで、そういうイベント、やってんじゃね?」
彼らは面白がって、自身の酔い話のつまみにする。その後の自分たちの運命も知らずに。
ちょうど、彼らがゴスロリ少女の横を通り過ぎたあたり。
ゴスロリ少女は立ち止まり。
ギリギリと首を回しながら。
こちらを見てきた。
ガラス玉のような瞳で、じっとサラリーマンたちを見つめる。
これに一人が気づき、発した声で全員が振り返った。ゴスロリ少女はじっと彼らを見ている。身動き一つしない。ゾッとしたサラリーマンたちは逃げるように歩き去る。
「やば。聞こえてたんじゃないか、今の話」
「いいよ、行こ行こ。関わらないほうがいいって」
だが、着いてくる。
「ちょ、待てよ、なんだよ!」
「着いてきてんのか? 怒ったのか、あさか」
そんな彼らの耳にか細い歌い声が聞こえる。
童謡のようなそれは、ゴスロリ少女の口から発せられている。
『どこでしょう──どこでしょう……あの方は、どこ……』
「う、歌ってる」
「どっか店、入ろうぜ。気味悪いよ」
「お前が陰口叩くからだぞ、だから目をつけられたんだ」
「まだ着いてくるのか」
「逃げたほうがいいなじゃないか」
背中でガラス玉の視線を感じながら店を探すサラリーマンたち。突然、その全員の耳元で。
『み──つけた』
「……えっ?」
振り返る。だが誰もいない。
だがおかしい。気配はある。
「し、下だ! 下を見ろ!」
そこには見上げるガラスの瞳。ゴスロリ少女は、ほとんど密着するぐらいの距離で座っている。低すぎて目に入らなかったのだ。
声は頭上から落ちたのに、実体は膝の高さで笑っていた。
ゴスロリ少女は目をきらきらと光らせ、にんまり笑った。
引きつりながらも愛想笑いを返すサラリーマン。
そこからだった。地獄が始まったのは。
「うわ、うわ、うわああああああああああああああ!」
「きゃあああああああああああああ!」
繁華街は一転。修羅場と化した。
サラリーマンたちの皮膚が薄い飴の膜から破れ、筋が糸を引く。
骨の白がのぞくたびに甘い鉄の匂いが立つ。
──溶けている!
肉体が泥のように滴り落ちている。
靴底に“ぬちゃ”と貼りついたのは体温の残る指輪――輪だけが転がり、持ち主が崩れた方向を示した。
「た、助けて……」
そう差し伸べられたサラリーマンの手も。ゴスロリ少女が指でちょんと触れると同時に、ぐずぐずと腐り、肉が流れ落ち、骨がむき出しになり、そしてやがて骨すらも砂細工のように崩れ落ちる。
その場を中心に、繁華街はパニックになった。
「やべえ、やべえよ!!」
「救急車……、いや、警察呼べ、警察!」
路面を。
血が、肉塊が、目玉が。
血の湖が、そこで突然湧いたかのように、路面を満たしていく。
◆ ◆ ◆
この殺戮は、同時多発的に水城市の各地起こっていた。人間を溶かす怪異。しかも人の目でもハッキリと目視可能。それが人を殺す。溶かす。壊す。理不尽に。意味もなく。
八の宮神社で、今まさ襲われている最中のひまりに、それを知る由はない。
ひまりは逃げる。
拝殿下を、外へ。軒下から外に向かって。
床下の闇の中、蜘蛛の巣に絡まれる。
(助けて……! 誰か、助けて……!)
──危険。
ひまりの持つ霊感が警報を鳴らし続ける。
これまでにない状況。異常事態。命の危機。
平家谷で人々を大量殺戮したあの“天使像”の感覚とよく似ている。
──同じたぐいの怪異……!
(でも、姿が違う! それに、これは“受肉”している!)
ゴスロリ少女の動きは異様に早い。まるで虫。四肢は節の数を間違えた昆虫のように折れ、壁の木目の方向を無視して滑る。関節は人体の法則を平然と無視している。
だが顔だけは、ずっとひまりを向いていた。だが何も読み取れない表情。単なる殺人マシン。距離がどんどん縮められる。柱の回避の素早さも、ゴスロリ少女は人間離れしている。波打つような軌道ですり抜けて来る。
次には天井に貼り付いた。逆さになった顔が無表情で追ってくる。
まるで蜘蛛の怪異。
蜘蛛のように進んでは止まり、止まっては進む。
ひまりの指が勝手に巾着の小さな鈴に触れた――鳴らないはずの鈴が、皮膚の内側だけで震える。
これは子どもの頃から見てきた怪異とは明らかに違っていた。
追ってくる怪異は、過去にもあった。
だが、追尾してくるとなると、そこまでしつこい怪異はいなかった。
怪異は大抵が、自由気ままだ。
地縛霊のたぐいであれば、縄張りを抜ければそこから追っては来ない。
浮遊霊でも、いきなり飽きたように他の人へと取り憑く先を変える。
だが、これは、違う。
命の危険も感じる。
強力な暴力性がある。
怪異のなかでもおそらく、妖怪や悪魔に近い。
ひまりの恐怖が極限に達した。
死にたくない──!
心臓の鼓動が耳を激しく打つなかで、聞こえた。
不思議な安心感のある声が。
「見つけました」
同時だった。誰かがひまりの手首を掴んだ。
──え?
そのまま、ものすごいスピードで、土の上を引きずられる。
気づいた時には軒下の外だった。
ひまりが手にしていた手毬だけが、再び闇へ転がって消えていく。
(何、いったい何が起こったの!?)
ひまりの目の前にあるのは、黒いスーツを着た男の足だった。黒い革靴の踵だけが土に沈まない。
ひまりはゆっくりと視線を上げていく。
そこには、現実よりも輪郭が正確な青年の姿。
「な、成宮さん……?」
確かそういう名前で呼ばれていた。
つい先日、翔太の自宅で合った青年。
成宮蒼。
その横には。
「デル……さん?」
デルピュネーがにっこりと微笑んでいた。
「ご無事で何よりでございます」
「え、あ、は、はい……」
返事が返事にならない。
そして次の瞬間、微笑の端が、次の瞬間だけ刃物の角度になった。
デルピュネーは、キッとひまりの背後へ視線を送る。
「蒼さま、来ます!」
「任せた。デル」
デルピュネーの姿が消えた。
風は遅れて届いた。
動いたのだ。
デルピュネーが。
おそろしいスピードで、拝殿下の怪異へ向けて。
足音は出ない。砂粒だけが後ろに流れる。
風に頬を打たれたひまりの体が、今度はふわりと浮き上がった。
(え……今度は何!?)
まるで重力を失ったかのよう。
ひまりはそのまま成宮蒼に手を取られ、胸に引き寄せられると、お姫様抱っこをされた。
体温のない涼しさが、恐怖の上から薄い布のように被さる。
(ちょ……)
恥ずかしい! 動揺するひまり。じたばたしそうになる。だが、恐怖で動けない。
つい蒼の顔を見上げる。整った、シャープな顔。年齢は私より10個以上は上だろうか。だがどこか心の奥でピリピリとなにかが弾けていた。それは、この青年が、“この世の者ではない”ことを表していた。
塩を親指で払う癖が出かけて、ひまりは膝に両手を戻した――“気づいた”と悟らせないために……。
その間にもうデルピュネーとゴスロリ少女の戦いは始まっていた。
デルピュネーは、一気に拝殿の床下からゴスロリ少女を引っ張り出した。槍の石突が土に触れた瞬間だけ、境内の鈴が一度だけ鳴る。そして構え……目にも止まらぬ速度で、その陶器のような顔を大きく薙いで弾き飛ばす。
鈍い音がし、ゴスロリ少女は慌てて闇を探してその中へと消え去る。
即座にデルピュネーが追う。デルピュネーの姿も闇に呑み込まれる。
そこで何が起こったのか、ひまりには分からない。
境内の闇の中で、何やら激しい音がした。巫女姿のまま成宮蒼に抱え上げられたひまりは、すでにこの恥ずかしさも異常さも恐怖も忘れている。
驚きだけがひまりを支配してていた。
闇から姿を表したデルピュネーは、その手に何かをぶら下げていた。
「これも、あの“天使像”と同じ魔力を持った使い魔でした、蒼さま」
それは、ゴスロリ少女の金髪。デルピュネーは、髪の毛ごとゴスロリ少女を引きずって歩いてきた。動かなくなった少女の怪異。もともとぐしゃぐしゃな動きをしていた関節が、さらにぐしゃぐしゃに崩れていた。
その顔面は激しく損壊していた。
ひまりは思わず「ひっ!」と声を上げた。
面相筆で描いた裂け目が陶面の下から増殖し、青い膠のような液が縁から垂れた。土の上でジュッと蒸発して消えていく。
成宮蒼は、その膠をすくって指に取った。
ジュッ、ジュッと化学的な反応の音がする。
だが、蒼の指に損傷はまるでない。
「酸に似せた“壊す式”。化学式の桁が合わない――魔術で帳尻を合わせている」
「その通りでございます、蒼さま」
デルピュネーはかしこまる。
「腐蝕……の記号が見える。いやむしろ、そちらに特化した式。腐らせ、溶かし、破壊する」
「“天使像”と同じものが放ったものでしょうか」
「おそらく」
成宮蒼は顔を上げる。
「ソロモン72柱のなかに、これに似た力を持った者がいる。直接会ったことはないが、そいつであるのはほぼ間違いないだろう。見ろ、あの射手座の輝きを」
射手座だけが夜空で血のような光を放っている。
「ヤツの象徴は射手座だ。僕の推測をあれが裏付けてくれている」
「ただ、“天使像”と違って、なかなかの歯ごたえでした。おそらく強化バージョンかと……」
「おそらくな……それにしてもよくやった、デル」
成宮蒼がほほ笑みを浮かべる。だがちっともうれしそうじゃない。
ひまりから見れば、それはまるで氷の微笑だ。
「ありがとうございます。蒼さま。ではコレ、どうします?」
「もう、大丈夫だろう。死んだよ、そいつは。デルの敵にもならない。実際、簡単だったろ?」
「おっしゃる通りでございます。では、消しますね」
そう言うと、デルは何をしたのだろう。一瞬にして、ゴスロリ少女の遺体は煙と化した。
「うん。じゃあこれで大丈夫だ。ひまりさん……と、いったかな? なかなか強い力を持っているようだ。コレ《・・》を呼び寄せてしまったんだからな」
成宮蒼は、ひまりをゆっくりと地面へと下ろす。だが、ひまりの足は立たない。思わずぺしゃっとそこに座り込んでしまう。大体、いまだに何が起こったのか理解できてないのだ。
戸惑ったままのひまりを置いて、蒼はその場から離れた。
デルピュネーも追従していく。
そして、闇の中へと消えていった。
まるで、夜が寄越した刺客のように……。
◆ ◆ ◆
夜空を滑空する成宮蒼こと魔王ベレス。
その胸には、デルピュネーが抱え上げられている。
「やはり生命を持たぬ怪異か。それに前回の『カスケード』でこの世に誰が来たかの目星はついた」
「あれを持ち帰って、詳しく解剖しなくても良かったのですか、ベレスさま」
「そこまでする必要はない。あれは、ホムンクルスだ」
「ホムンクルス」
「つまり、錬金術によって作り出された人造人間だよ。魂の座が無い。命じた名前の分だけだけ動く。そして、これを作り出したのは、ほぼ間違いなく、射手座に属する怪異」
魔王ベレスは夜空の一部を血の色に染める射手座を見ながら言う。
「これまでのベレスさまのお話。つまりベレスさががおっしゃりたい方の名前は……」
「ああ。デルも名前は知っていたのか。そう。ソロモン72柱の魔王の1柱。序列14番目の地獄の大公爵」
「つまり……あの魔王レラージェさま……」
デルピュネーの喉が音を立てる。
「あの魔界でも名のある御方が、この世に顕現されている……」
「ヤツとは会ったことはない。だがこの感じ、間違いないだろう。匂いは緑がかった金属。レラージェ系術式の“腐蝕”だ」
「レラージェさまがこちらへ……。もし本当に、あの魔王レラージェさまが、この町であれほどの殺戮を起こしていると。それは、レラージェさまがやはり、翔太さまに接触を試みたいからでしょうか?」
「そうだろうな……。いや、レラージェのやつは、むしろ僕に気づいて欲しがっている。僕は、あの結界を僕の魔力でさらに改良した。そに拠点を構えている僕たちに、レラージェは近づけない。つまり僕や、あの“獣”を引っ張り出したいわけさ。この町をパニックに落とし入れてね。翔太くんは人の心を持っている。何とかしたい、そう思うはずだ、とね。そして出てきたところで“獣”を奪う」
「では、わたくしたちが、あれら全部の使い魔を破壊しては? そうすれば翔太さまもおそらく、ご安心なされて、自分が行くなんて考えないと思いますが……」
「いいや。捨て置け」
魔王ベレスの言葉にデルは肩を震わせた。
この声色は、何か裏がある、そんな声の低さだ。
「人間など何人死んだところで、意味がないとレラージェに分からせるべきだ。そもそも翔太くんが今回の事件を知るのは、翌日のことだろう。その時、翔太くんはどう感じるか……。“許せない”、そう正義心に火を灯すだろう。正義に火が入れば、ラーは強く、獣の目覚めは遠のく」
「なるほど」
おそらく魔王ベレスが考えていることは、それだけではない。
だが、デルは敢えてそこを訊かず、別のことを質問した。
「ところでベレスさま。来たのがレラージェさまだとして、あのお方の目的は何でしょうか」
これに魔王ベレスは、悪魔らしくあたかもすべて見通しているかのように言った。
「まあこういった場合、真実というのは往々にしてシンプルなものだよ、デル。レラージェは、上級精霊の大悪魔・サルガタナスの配下にいる。さあ、ここからは簡単なクイズだ。デル、そのサルガタナスの上にいるのは誰だ?」
「まさか……アスタロト伯爵!」
さすがのデルピュネーも震えた。
魔王アスタロトといえば、地獄の三大実力者の一人。
槍をまじえたことはないが、非常に狡猾で、さらに悪魔王サタンにすら一目置かれた存在。
あの魔界最強と歌われたギリシャ神話のテュポーンに認められし番人であるデルピュネーをしても、あまり敵に回したくない『リリン』だったからだ。
「おそらく、アスタロトは気付いた。666の獣……。これがすでに『受胎』を起こし始めていることをな。だからレラージェを寄越した。レラージェはアスタロトの直接の参謀に当たる。それに、レラージェなら、僕といい勝負ができる。そう、アスタロトは僕をみくびっているわけだ」
そう言って魔王ベレスは不敵に笑った。
「さて、次はどんな手で僕たちに近づいてくるのか。そしてアスタロトは“獣”を何に使うつもりなのか……。これはかなりきな臭くなってきたぞ。アスタロトが考えていることと言えば、思いつくのは……」
これにデルピュネーは頷く。
デルピュネーにも心当たりがあるのだ。
蒼の瞬きは人より一拍遅い。夜の位相に合わせているのだと直感し、槍を抱えて身を固くした。




