第85話 軒下の亡霊
第85話
高さ五メートルの石垣が、ほぼ全面、円形に陥没していた。
砕けた石の粉が白く舞い、夜気に石灰の匂いが立つ。
元崎恵が北藤翔太へと放った、「六道掌」という掌底の技。
とても人間の業とは思えない。
巨大な鉄球でも叩き込まなければ、こうはならない。
「翔太くんッ!」
衝撃に抗いながら美優が見たものは。
石垣に追い詰められた翔太。
その顔の真横。
元崎が掌底を叩き込んだのは、翔太の顔面スレスレ数センチの場所だった。
これに驚いたのは美優だけではない。
防御の構えを取っていた翔太も、それをゆっくりと解きながら、顔を横に向ける。
いかにも強靭な、筋肉質の元崎の腕。
──元崎の「六道掌」は翔太にではなく、石垣を直接撃っていた。
(外れた……!?)
元崎へと視線を戻す。
その元崎の顔、肉体からは、あの「マギカ2nd」の形相はすでにない。
あの脈打つ血管がすべて肌に浮き出したような奇怪な姿が跡形もなく、少し日に焼けたつるりとした肌に還っていたのだ。
元崎は動かない。まるでマネキンのように、ピクリともその状態を崩さない。
そして、ポツリ、と言った。
「外しちゃいました……」
「は?」
元崎は石垣にめり込んだ自身の手を引き抜いた。ガラガラガラ……。石垣は見る影もなく欠片と砂になって崩れ落ちた。
石粉がぱら、ぱら、と頬に落ちた。元崎以外、誰もまともに息ができない。
「いやあ。この技を“人に”使うのは、初めてでしてね。……どうやら、私の方が、先に迷ってしまったようです」
あいも変わらず人を食った笑顔……
だが、その言い方はまるで、「人」と「それ以外」を分けているかのようだった。
「……手加減したってことか?」
「いえいえ、手加減とはまた違いますね」
元崎の口調はすっかり穏やかなものに戻っていた。
「つまり私はビビっちゃったんです。喧嘩の勝敗というものは、私が思うに……。私が思うにですよ。相手を殺せるかどうか、その覚悟が決める。つまり、これはどういうことか。外してしまった、それ自体、私が修行不足だった証なんですよ」
くるりと踵を返し、背中で続ける。
「この勝負は――北藤さん、あなたの勝ちです」
「え、お、俺の……勝ち……」
「海野さんにも、怖い思いさせてしまいました。誠に申し訳ありません。大丈夫ですか? お怪我はありませんか?」
このあまりの意外な展開には、さすがの美優もキョトンとしてしまう。
どんな怪異が現れてもそれはそれ、事実は事実……と受け止められる美優をもっても想定外だったのだ。
ついさっきまで、死闘を繰り広げていた相手が。
命を賭して闘っていた相手が。
あっさりと、自分の負けを認めてる。
これだけの“力”を持つのに。
翔太を殺せたはずなのに。
あまつさえ、自分の身を案じてくれているとは、どういうことなのか。
「何……言ってるんですか? 先輩……」
「どうもこうもありませんよ」
元崎は両手を広げるジェスチャーをして見せる。
「さっきの『六道掌』を放った時点で、私の神の力が尽きてしまいました。さらに言えば、ちょっと力みすぎたからでしょう。私の可愛い“魔術回路”ちゃんが一部、焼き切れてしまったのです。──つまり、私はもう、先ほどのようには戦えません」
回路を“部品”のように語るその口ぶりは、翔太の感覚と決定的に違っていた。
だが。
「……ふざけるなよ」
翔太が元崎の背へと一歩踏み出す。
「ここまでしといて、もう戦えない? 自分が負け? めちゃくちゃなんだよ! 支離滅裂すぎて意味不明なんだよ! 先輩。あんた、何考えてんだ?」
「そう、あんまり、いじめないでくださいよ」
振り返った元崎の顔は困った表情をしている。
「だって、北藤さんはまだ、私と違って、イーナリージアが残っているでしょう? “魔術回路”だって健在です。もし今、北藤さんが全力を出したとしたら、殺されてしまうのは、私の方だと思うんです。だから、敗北宣言。理にかなっていると思いませんか?」
そのあまりにも能天気なとぼけた口調に、翔太も拍子抜けしてしまう。
体の力が一気に抜ける。
「まあ、でもこれだけは言えますね。あなたの“魔術回路“はまだ未熟。太陽神ラーのイーナリージアは確かに強力です。これは世界中の神々の中でもトップクラスのエネルギーと言って良い。ゆえに、”666”の覚醒にも耐えているのでしょう。……ですが、ここがダメ。まるで使いこなせてません。“マギカ2nd"……。あなたも、その領域までたどり着いているかと一瞬、思いましたが……」
「センパイ、あんた、一体、何者なんだ?」
太陽神ラー、”666”という言葉がハッキリと出た。
この男はどこまで知っているのか。何を知っているのか。
そして何のつもりで、翔太を呼び出したのか。
だが、元崎の回答はあいも変わらず、的を射ないものだった。
「何者って……、元崎恵ですよ。単なる元崎恵。名乗りましたよね、私」
「何を、どこまで知ってるのかって聞いているんですがね、先輩」
「う~ん。まあ、私が“魔術回路”を持ち、そこにさらにイーナリージアを流すことができる。そこから察していただければ幸いなのですが……。でもとにかく、北藤さんの修行の成果。お見事でした。多少、キモも冷やしましたし。ですが、まだまだ。でもそれは、あなたに伸びしろがあるということを意味しています。……さあ、このへんでいいでしょう。私は、これにて、立ち去ろうと思います」
「何をべらべらとわけのわかんないこと喋ってんのよ!」
今度は美優が食ってかかった。
呆れが怒りへと切り替わった。
「あなた、翔太くんを殺そうとしたわよね! 修行の成果を見る? ビビった? ウソだわ。それなら、あそこまでやる必要はなかった。翔太くん、死にかけたのよ。それに何よ、さっきのあの掌底……。あんなの初めて見た。あれ、間違いなく人の力ではありえないわ。“魔術回路”、イーナリージア、それは、あなたが普通の人間ではないことを意味する。あなた、もしかして、何か秘密を……」
「私が、北藤さんを、殺そうとした……?」
元崎はいかにも、不思議そうな様子で言った。
「おかしいですねえ。あの程度じゃ、北藤さんは“終わらない”と。……そう、ベレスさまから聞いていたのですが……」
「ベレス!?」
「あ。あなたがたには、成宮蒼の名を出したほうがいいんでしたっけ?」
◆ ◆ ◆
──春。『濃霧現象』によって、海から都市伝説の魔獣『ヒトガタ』が現れた、あの夜。
その時、美優は気を失っていたが、翔太の記憶にはしっかりと残っている。
翔太は、成宮蒼=魔王ベレスの命によって、デルピュネーに、頭から真っ二つにされた。
だがその時、翔太の背中から現れたのは巨大なハヤブサの翼。
黒に限りなく近いグレーの羽根。
それが、肉体を優しく抱きしめられるかのように包み込み。
体中から抜け落ちた血という血、臓器という臓器、骨、肉がすべて、元に戻った。
縦に二つに切り裂かれた肉体が、文字通り、再び“くっついた”のだ。
不死身の力。治癒の力。
それは、翔太の肉体に宿る太陽神ラー。そしておそらく“666の獣”の力も影響しているだろう。
痛みはある。
不死身というだけで、痛いは痛い。
苦しいは苦しい。
肉体をどれほど細切れにされたとて。
蘇る力を与えられている。
それが逆に地獄の苦しみだ。
そんな力を、翔太は、持っていた。
こんな話、どんなに説明しようと誰が信じてくれようか……
◆ ◆ ◆
もちろん、美優にも心当たりがある。
栗落花淳にさらわれ。
サバトの悪魔・バフォメットの固有結界の中で。
北藤翔太は、確実に、“死んだ”。
殺されたのだ。
巨大な岩石の雪崩。折れる骨、潰れる肉体。
それがどうだろう。
何事もなかったかのように岩石の下から現れたのだ。
そして、その時に見た、翔太の額の第三の目。
瞳には「666」の刻印。
ヨハネの黙示録に記された、“悪魔の数字”──
美優の記憶に深く刻み込まれ、時折、フラッシュバックさえ、する。
同時に手のひらが熱くなる感覚。
自身の中で何かが目覚めそうな急激な覚醒感。
悲しみと悲鳴の中で、美優は、確かに自身の心の異変も感じ取っていた。
「…………」
それぞれがそれぞれの思いにふける。
だが、その苦い思い出が、美優の脳裏に一つの可能性を引き当てた。
この人、……翔太くんが死なない……いや、“死ねない”ことを知っていたんだわ──!
この人は、それも折り込み済みで、この計画を実行した……
「つまり、これは」
翔太はまだ混乱のさなかだ。
「蒼さんが仕組んだことなのか? 知っているのか? 蒼さんは。このことを!」
「いえいえ」
元崎は微笑んだ。
「私の独断です」
「蒼さんの指示じゃない……?」
「ええ。そうです。まあ何と言いますか……」
思わず耳を疑ってしまう。まったく分からないことだらけ。
謎が多すぎる。
その謎の整理をしている余裕はない。
そもそも、元崎に関しては、翔太も、美優も、何も知らされてない。
「ぶっちゃけ言いますと、ベレスさまから、これまでのおおよそのあらましは聞いていましたからね。ある程度、全力でやっても問題ないとは、確かに思っていました。いや、逆に全力でやらなければ、どれほど北藤さんが成長したかを見極めるのは難しい」
「見極める……」
「確かに私もまだ、修行中の身です。それもあり、私自身、北藤さん相手にどこまで立ち向かえるのか、それを試す意味もありました」
元崎はキャッツアイ……ヤンキー特有の例のサングラスをくいっと指で上げる。
「結果、まだ私の方があなたより上。でも良かった。もうすでにそのへんの適当な怪異でしたら、北藤さんもそこそこ戦えます。すなわち、正式な戦力として数えることができる。私は、それをどうしても前もって知っておきたかった。だから収穫はあったというわけです」
「……どうして、お前が蒼さんとつながっている」
ダラダラ話していても意味はない。
翔太はいきなり真相へと踏み込んだ。
だが。
「さあ」
元崎は答える気がまるでない。
「なんでだと思いますか?」
逆に聞いてくる。
だが、その迫力に翔太はたじろぎそうになった。
これは……この男の中から感じるこの感覚は……
まさか……。いや、考えすぎか……?
「ただ、これだけは確かです。実は、私は、北藤さんの味方です。……いや、それだけでは不十分な説明かもしれませんね」
元崎は背筋を正して翔太の正面に立ち、こう言った。
「むしろ私は――北藤さんを“護る側”の人間です」
そう言うと元崎は去って行った。
釈然としないものばかりを残して。
翔太の今も引きずる死とほぼ同等の痛みも置いて。
──俺を、“護ろう”とする者……!?
多くの謎を残し、元崎はあっさり二人をあとにした。
背中越しに、「さよなら」とでも言うかのように、ゆらゆらと手を振りながら……
◆ ◆ ◆
その数日後──
葉山ひまりは巫女姿で、自宅である八ノ宮神社境内で両親の手伝いをしていた。
その夜、月は雲に隠れ、星だけが異様に強くまたたいていた。
なかでも射手座の星だけが、不自然なほど強く光っていた。
見守っているというより――狙っている。そんな光だった。
拝殿の欄間にかけた影が、風もないのにわずかに揺れる。
ひまりは、氏子が厄落としに持ち込んだ人形や、いわくのある物を段ボールへ収め、本殿へ運んでいた。
紙垂が触れ合い、紙の匂いが鼻に刺さる。
八ノ宮神社の歴史は古い。
平安時代後期に生まれたとされる崇徳上皇。その崇徳上皇も祀られている。
朝廷に敗れ、京を追われた天皇――崇徳上皇。
海を越えて四国へ流され、そして、
……二度と都へは戻れず非業の死を遂げたとされている。
その名は、死後――
平将門、菅原道真と並び、「日本三大怨霊」として言い伝えられることになる。
そしてこの八ノ宮神社。
生前、崇徳上皇はこの地を訪れ、
地の底に眠るとされる『八大龍王』を参拝した――
それが、この神社の由来だ。
葉山ひまりは、その神社の跡継ぎ娘であり、現在は巫女として、両親の手伝いをしている。
そのひまりでも、この神社が崇徳上皇を祀っているのか――
それとも、封じているのか。
分からなくなる夜が、時々あった。
「瀬を早み岩にせかるる滝川の われてもすゑに あはむとぞおもふ……」
ひまりは百人一首の歌を読む。これは崇徳上皇が詠んだとされる和歌。
何度か繰り返し、光り輝く射手座の下、ひまりは本殿へと向かっていた。
「瀬を早み岩にせかるる滝川の われてもすゑに あはむとぞおもふ……」
悲劇の天皇であり、そして日本最大の悪霊である崇徳上皇。彼はこの神社で何を想い、何を願って、去っていったのだろう……?
ひまりはその途中、拝殿、つまり人々がお賽銭を投げ、願い事をする建物の横を通った。
社務所の時計は正確に時を刻んでいる。
なのに、風鈴だけが鳴らなかった。
風は、確かに吹いているのに。
「あ……」
ふいに、段ボールの中に入っていた、手毬が、転げ落ちてしまった。
箱を揺らしてしまったのだろう。
手毬は、地面に落ちて、
ぽーん、と、
跳ねる。
これは、例の平家谷の事件で亡くなった老婆の手毬。
厄払いとして預けられていたものだ。
その手毬が、地面で何度か跳ねながら、
そのまま拝殿の下へと、
ころころ、と、
転がっていってしまった。
拝殿の下は、まったくの光が失われ、
夜の闇がさらに深い。
「やだ……」
ひまりは、段ボールを地面に置くと、その床下を覗き込んだ。
この闇の奥に、確かにあの手毬はある。
朝になってから拾いに行っても良かった。
だがひまりは、その時、「朝まで待つ」という考えを、なぜか選べなかった。
腰を落とす。そしてしゃがんだまま、拝殿の床下へ身を滑らせる。
すぐに見つかると思った。
そんな先まで行ってないだろうと考えていた。
目の前には闇。
床下の土は、やけに乾いている。
それなのに、掌に触れた場所だけが、異様に冷たい。
手を離す瞬間、遅れて皮膚が引き留められる感触さえある。
まるで、そこだけ別の場所に触れているみたいだった。
その時――声が、聞こえた。
『どこでしょう……どこでしょう……』
一瞬で、ひまりは身構える。
この時間、
神社の床下、
人がいるはずはない。
だが、そう聞こえた――いや、聞こえている。
(もしかして、また……)
見えて……いや、聞こえてしまったのだろうか。
(でも、鳥居の中……怪異が入り込むはずは……)
聞き間違いだと思い込もうとした瞬間である。
『どこでしょう……どこでしょう……。あの方は、どこでしょう……』
「……!」
囁きは目の前から。
なのに、遠近が合わない。
耳のすぐ横と社叢の奥から同時に聞こえる。
ひまりの目が闇に慣れてくる。
背後の星明かりを吸うほどの深い闇。
この先に──
理屈ではなく、皮膚が先に理解した。
これは――
そこに「いる」。
逃げ出せば良かった。
だが、それは同時に「気づいた」ということを意味する。
──「気づいた」ことを相手に悟られるのは、危険……
それは、過去の経験から十分に分かっていた。
だから、気づかないふりをするしかない。
いやでも、止まるわけにはいかない。
知らないふりで、手毬を追う。
どれだけ怖いものを見ることになったとしても、
──それが一番、安全……
分かっていた。
もう、これまでのことから、そうするしかないと自覚はしていた。
それでも、冷や汗が滲み出す。
どうしても、慣れることはできない。
背筋がぞくぞくと震える。
いや、気付かないふりをして、知らん顔で手毬を諦めたことにすればいいのではないか。
いや、それなら、「気づいた」かもしれないと思われ、追って来られるだろうか。
ひまりは迷った。
闇の中で、手毬を探す。
それしかないと分かっていても、どうしても「怖い」気持ちで、心が揺らいでしまう。
それで迷い、悩む。
そこへ。
ふいに。
こちらへと。
手毬が、ころころと転がってきた。
闇の奥から。
まずい──!
脳からくだされる危険信号。
この反応はまずい!
(声を聞いた時から、気づかれていたかも……!)
ひまりはその手毬を取った。
そして、闇に背を向けるため踵を返そうと脚を滑らせる。
なのに。
ひまりが、手毬を持って振り返ったその真正面には。
少女の――脚だけが、あった。
視線を上げる前に、関節の角度が「おかしい」と分かった。
人の身体では、そうはならない角度……
(ダメ……、これ、見ちゃいけないやつだ……)
肌は蝋人形のように白い。
そしてなぜか、ゴスロリっぽい衣装を着ている。
関節の角度は、やはり、人のそれ、ではない。
その身体は、四つん這いのまま、首だけを折るようにこちらを向いていた。
『どこでしょう……、どこでしょう……』
口は、動いていない。
にわかに、ひまりの顔が青ざめた。
怪異は見慣れている。
でも、これ《・・》は、いつも見かけるようなやつではない。
なぜならば……
──すでに、この世に、”形”を持っている……!
影がある。
重さがある。
床下の向こうから見える光を、この怪異は、遮っており、
地面の砂に、それが移動したことが分かる、足跡が残っている。
もう進めない。
さすがに、気づかないふりをし続けるのも、無理がある。
このゴスロリ少女の横を知らんぷりですり抜ける自信も、とてもじゃないが、ない。
『どこでしょう……、どこでしょう……。あの方は、どこでしょう……』
子どもが遊ぶようなその声だけが、
床下を這って、
ひまりの耳元まで来ていた。
相手は動いてない。
でも、目の前からも、耳元からも、そして背後からも、その声が聞こえている気がする。
「気づかれた」とか「気づかれなかった」、そういう問題では、すでにない。
そもそも、接触してはいけないタイプ。
出逢ってしまった、それで”終わり”になるパターン。
動けない。
もう、どうすればいいのか、分からない。
そのひまりを、
その瞳が、ついに、
捉えた。
(見つかった……!)
見つかっているのは、分かっているのに、思わず心でそう叫んでしまった。
もうこれは、目が合った、ではすまない。
──“名札”を読まれたような感覚。
値踏みされているような実感。
ゴスロリ少女は、明らかに、ひまりが見えている。
危険信号がマックスになった。
即座に、ひまりは背を返す。
その瞬間、額に触れた髪が一筋、勝手に逆立った。
(まずい……まずい……まずい……)
逃げ出せるかどうかは、もう分からない。
でも、仕方ない。
こういう場合、ひまりが知っている手段は、
逃げ出す以外に、ない。
ひまりは、入ってきた方向とは反対方向へと進み始めた。
つまり、拝殿の床下の奥の方へ。
闇から遠く、向こうに見える星あかりに向けて急いで這って行く。
多少、距離はある。
だが、
──あのゴスロリに近づくよりは、はるかにマシ!
四つん這いで懸命に土を掻く。
闇へと歩を進める。
でも、その先には、確かに、光がある。
──あそこまで、逃げられたら……!
まだ逃げ切れるチャンスがある。
その背後から。
──カサ。
──カサ、カサ。
(追ってきてる……!)
ひまりは泣き叫びそうになった。
でも、我慢した。
ここで心が折れたら、きっと体は動かなくなる。
そうしたら、
──掴まる!
必死で逃げるひまりの耳に、乾いた紙が土をするような足音。
──来ないで、来ないで、来ないで!
もし、勘違いだったのなら。
もし、ここまで全部が錯覚なら。
もう、そうであってほしい。
──着いてこないで! お願いっ!
これまで。
ひまりは、ほとんどの怪異を、知らぬ存ぜぬ、
見て見ぬふりをしてきた。
そうすることで、大体のことからは逃げられた。
現実でも同じだ。
見て見ぬふり。
それが、いかに残酷なことだとして、
本当の”恐怖”というものを知っているひまりからすれば、死ぬよりはいい。
それで、これまで、うまくやって来た。
だが現実は、ひまりのこの経験則を容易に打ち壊してくる。
──カサカサカサカサ。
足音が速くなった!
ダメだ、掴まる!
恐怖のあまり、だったのか。
ここでひまりは、なぜか、振り返ってしまった。
後ろを。
そして見る。
その影を。
ゴスロリ少女が、一直線にひまりへと這い寄ってきているその姿を。
人の身体では、出せない速さ。
光景ごと、みるみる迫り来る異常な感覚。
「キャアアアアアアアアア!」
もう、背に腹は代えられない。
悲鳴を上げても、逃げられたらそれでいい!
悲鳴を上げながら、ひまりは逃げる!
手毬を手放せば良かった。
だが、それが出来ない。
放り出すという思考そのものが削り取られたみたいだ。
──と。
突然、足音が止んだ。
それでも悲鳴は止まらない。続く。
「助けて! 助けて! お父さん! お母さん!」
その声が闇に吸い込まれていっている気がする。
床下の先の光も、やけに遠く感じられる。
そのひまりの上。
手毬を抱えて、這って逃げ出しているその上。
拝殿の床板が、ギシリと音を立てた。
ひまりは見ない。
上を見ない。
だが、その見えない“重さ”は、確実に、
床下の天井にへばりついている。
上だ。
次は、
上にいる。
「八ノ宮神社」…ひまりの実家。八大龍王を祀ってあり、過去に崇徳上皇がこの地に参拝に来たとの伝説がある。
【撮影】愛媛県八幡浜市勘定「宮嶋神社」。広島の宮嶋さまが流れ着いてきたとされる地。過去は女性の立入禁止で、この地区には過去、お産の時に、妊婦は畳一畳分のスペースから出てはいけない、宮嶋様は女性の血を嫌うから、という風習があった。




