第82話 ラフファイトVSシラット
第82話
星城学園の不良を束ねる男──元崎恵。
強い、とだけ語られるが、誰も“実像”を知らない。
その「本気」を見た人間が学園内にはいないからである。
誇張めいた武勇伝すら、この男には必要ないらしい。
ただ、一言で足りる。
強い。
その元崎が、ふっと重心を落とす。
肩は脱力しているのに、視線だけが鋭い。
型は──伝統派空手の「廻し受け」。
肘を曲げた腕に、手刀をそっと添える。
そこから呼気を押し出すように「コォォ……」と息が響いた。
ゆっくり、しかし確実に気が満ちていく。
型そのものは古典的なのに、目の前の男がやると“競技”ではなく“戦闘”に見える。
これを何度か繰り返す。
(この型は、伝統派空手か……)と翔太は思う。
つまり、格闘の素人ではない。
だが次の瞬間、元崎は足先でリズムを刻んだ。
弾むように──軽い。
(……ボクシングのフットワーク!?)
なまじ格闘技に詳しいと、型にはめて動きを決めつけてしまう。
──ダメだ。そのクセはやめろ……!
まるで別人のように“スタイルを切り替える”速さ。
伝統派空手からボクサーへ、一拍の溝すらない。
そんな翔太の心のスキを察してか、元崎の口元がにんまりと笑う。
間髪入れず──
距離を測るジャブではなく、いきなり右ストレートを翔太の顔面へ。
利き手による突然の有効打。
しかも……
(速ッ……!?)
翔太の動体視力でも、元崎の右肩が揺れたことに気づかないほどだった。
だがシラットほどの不意打ちではない。
翔太は、自然に上半身を逸らした。
スウェーバック。
予測通りだ。
元崎の拳は伸ばしきっても、翔太の鼻先紙一枚分、届かない。
──はずだった。
(よし! 次は……)
と、反撃に転じようとした時である。
左の視界が白く弾けた。
「……ッ!」
距離を取る翔太。
目元に熱い痛みが残っていた。
しかも激痛!
これには美優も我が目を疑う。
「なに!? 今のはかわせたはずじゃ……!」
そこへ独り言のように野津がつぶやいた。
「あれだ……。あれをやられたら、たいていのヤツは終わる」
「何を……、何をしたの、あの人……」
これに野津は答えた。
「不意討ちは何も、あんたらの、シラット? だっけか。外国の実践格闘術だけじゃないって話だ」
「不意討ちって……、あれは単なる右ストレート」
「よく見な」
即、拳を引いて構えに戻っている元崎の右拳。
その親指。
そこから血がぽたぽたと滴り落ちていた。
──どういうこと……!?
美優の可憐な目が大きく見開かれる。
「親指だよ」
野津は言った。
「単なる右ストレートに見えただろ? だがな、ちょっと違う。それはフェアな場合だ」
「フェアな場合……」
オウム返しするしかない美優。
野津は重ねる。
「拳を握ってはいる。だが握ったままじゃなかった。元崎くんはな、拳から親指だけ伸ばしたんだよ。一瞬だけ、な」
つまり拳での打撃は本来の目的ではなかった。元崎が狙ったのは、左目。
拳から、鎌のような形に伸ばした親指。
その親指で、翔太の左目をくり抜きに来ていたのだ。
ただ避けるだけでは防げない“目潰しの角度”。
正面からの攻撃に、あり得ない“裏意図”が噛み合っていた。
「まさか……最初から、目潰し……!?」
「ボクシングは詳しくないか? あれは、ボクシングにゃ、よくあるラフプレイさ。あれは効くぞ。グローブ越しでも。グローブ越しでも効く反則を、素手でやった。あれが本格的に入っちゃ、ただじゃあ、済まない……」
一気に冷や汗が出る。
美優は翔太に左目に視線を集中した。
左目は……
だが。
「いや。実際、驚いたわ。元崎先輩」
無事だった。
翔太はそう、平然と言ってのけた。
美優は胸を撫で下ろす。
切れたのは眉間脇の薄皮だけ。
ほんの“数ミリ”頭をずらし、眼球を守った。
普通なら反応できない距離。
シラットで鍛えた感覚が、ぎりぎりで命を救った。
だが元崎の狙いは、明確に“失明”だった。
その事実だけで、背筋が寒くなる。
そして言う。
「単なるスポーツマンじゃないってことっすね」
傷口から流れる血を、指でピッと飛ばす。血で覆われそうな視界を確保するため。
その翔太の仕草と同時だった。
元崎が沈む。同時に後ろ回しの要領で足を掃く。
足払い。
それを追うように、上からの蹴り。
下から上への速攻。
上下左右とめまぐるしく動く攻撃は、通常でも捉えづらい。
しかも、目がかすむ翔太には、軌道の全てが“揺れて”見える。
距離感覚を誤る。
その上の蹴りに掴まる。
元崎の蹴りは、飛んだ翔太の片足を見事、捉えた。
蹴られたまま、翔太の体は宙で回った。浮いていた分、思惑通りに蹴りに回される。
この崩れを元崎は見逃さない。
ドン、ドン、ドン──ッ!
左右の連打。間を潰す、潰す、潰す。
ありったけ。
翔太の顔面へと叩き込む。
一発ごとに、翔太の体が後ろへ押し返される。
まるで“戦い慣れた大型獣”の猛打。
重さも速さも、人間離れしていた。
「終わった……」
野津がつぶやいた。
「いいえ、まだよ」
美優の顔には余裕の笑み。
その笑顔通りに。
「くっ……!」
痛みのうめき声を上げたのは、なんと元崎の方だった。
元崎はだらりと左手を垂れ下ろしている。
その左拳。小指だけが不自然に膨れている。
小指が紫色に腫れ上がり、関節の角が内から押し上げられていた。
「な、なんだあれ!?」
野津が驚がくした。
一方の翔太は、ダメージは受けたものの、バランスを取り戻し、軽やかに着地する。
(折れてる……!)
野津は息を呑んだ。
「やりますねぇ~」
元崎は大げさに驚いて見せる。
「まさか、小指持っていかれるとは……」
「いや。センパイのラッシュもなかなかでしたよ。こっちだって割と必死だったんですから」
思わず野津は美優に尋ねる。
「どういうことだ!?」
これに美優は答えた。
「防御型の返し技よ」
「防御……?」
「シラットの防御術は、まず、腕すべてで頭全体を球体のようにして守る。右手で顔を抱きしめるように急所である鼻の下を覆って、その右腕を下から抱えあげるように左腕で支える。いわば二重の防御よ」
「なんだその防御。ガチガチじゃねえか!」
「そりゃ、逃げ場のないところでラッシュされたら、ああするしかないわ」
「でも。防御は分かったが、どうして元崎くんの小指が……」
「ああ。それはシラットの間合いに入ってたから」
「……シラットの間合い?」
美優は野津を見上げる。
野津は、この視線がこれほど下の少女が、工業の小野山の鼻を一発で蹴り落としたことがいまだ、信じられない。
「そう。基本、シラットは近接戦術。元崎先輩のような体が大きくてリーチの長い相手に対しては、それほどの攻撃の手段は持たないの。でも、相手から自分の間合いに飛び込んで来た時……」
野津はゴクリとツバを飲む。
「それは、シラットの間合い──。野津先輩は、あれが単なる防御技に見えたでしょ? だけど違う」
「は? 違う……? あそこからどうやって……」
「シラットってね。肘技が豊富なの。肘や膝、額に踵。あらゆる体の硬い場所を使って敵を討つ……。翔太くんがやったのは上肘ね。あの防御、防御だけじゃない。上肘で元崎って人の拳の小指関節を狙って、“持ち上げて”折ったの」
美優は自分も右腕を折り曲げ、その肘を左腕で持ち上げる動作をした。
「近接になった瞬間、シラット使いは、自分の距離で敵を討つ」
少女のそんな声に、野津の顔面が蒼白となった。
そこまで繊細な技まで、持っているのか……!?
撃ち込んだ拳が、翔太の肘の先で持ち上げられ、自らの腕力を利用された上で、関節が折られる。
元崎にしてもこんな経験、生まれて初めてだった。
猛ラッシュが災いしたのだ。何発も拳を打ち込むこと。
それはイコール、翔太が元崎の小指を折るチャンスを何度も翔太に与えたことになる。
「いやあ、こんな繊細な技あるんですね。しかし狙えるものですか。この小指だけを、ピンポイントで……」
元崎の顔から余裕が消えている。
ほんの一瞬の攻防で、こんな精密な破壊を仕込めるのか──
シラットの“近接の恐怖”が、ここではっきり形になった。
「リーチはこっちが上。間合いに入られなければ攻撃は受けないと思っていたのですが」
「勉強不足だよ、先輩」と翔太。
「勉強不足、ですか」、元崎は苦笑いする。
だが、
「では、これはいかがですか!?」
言い終わらないうちに。翔太へ飛んでいく右脚。最短距離の前蹴り。
(今度は空手か……)
ボクシングの次には空手。目まぐるしく変わる元崎の戦闘スタイル。
だが、翔太は慌てない。左足を右前に出して体を半身に。
それで元崎の高速の前蹴りをなんなくかわすと同時に、左腕で元崎の右足の膝裏を、下から上へ、一気に持ち上げた。
「な……!?」
右脚の蹴りの威力も利用され、脚を滑らせ背後へ倒れそうになる。
翔太は鋭く自身を回転させながら、その元崎の体へ向けて、回る勢いを左肘に乗せそのままみぞおちへ──叩き込む。
「ぐはっ……!」
いくら鍛えられた腹筋でも肘の攻撃には硬さで劣る。
しかも、重さは肘からではない、全身から落ちている。
硬い上に重いのだから、堪らない。
さすがの元崎の顔からも笑顔が消える。
しかし、翔太の攻撃はこれで止まるわけがなかった。
そのまま、捕まえていた元崎の右脚の膝裏を、肩の乗せ、脚力全てを使って天高く持ち上げる。
「……!?」
完全にバランスを崩し、当然、背後から倒れる。
そしてちょうど頭が地面につくかつかないかのタイミングを見計らって翔太は──
元崎の後頭と土の間に足甲を噛ませ、
だが、後頭部と地面との隙間は大きく残したままで。
そのまま元崎の鼻っ柱に、右肘を叩き込んだ。
てこの原理。
支点・力点・作用点が一列に噛み合う。
この科学的攻撃によって元崎の顔面に肘がめり込み、その部分が凹んだように見えた。
「わあああああっ!!!!」
思わず野津は目を覆った。
元崎くんが、元崎くんが……
あの元崎くんが。
壊されていく……!?
ところが。
「あいたたたた」
元崎は、いとも簡単に立ち上がってしまった。
これには翔太も「あれ?」と本音を出してしまう。
「頭蓋、いったかと。本気でヒヤリでしたよ。良かったー。なんとかヒビすら入ってないみたいです」
ダメージの“深刻さ”と、立ち上がる“平然さ”が噛み合っていない。
この男の耐久は、常識から外れている。
このタフさに翔太は熱くなった。
自然と、ニヤっと笑ってしまう。止められない。このたぎりが。
「タフだね。元崎先輩」
「いや。地面が土だったからでしょうか。舗装なら危なかったですね」
そしてずれたサングラスを掛け直す。
「いやあ、器用ってレベルじゃない。それもシラット、ってやつの技ですか?」
「そうだよ。あと先輩の言ってること、だいたい間違ってない。シラットは地面が石やアスファルトという都市戦闘での設定で作られた技が多い。……にしても、技を食らっただけでその本質を見抜くんですね。先輩、どんだけセンスいいすか」
「お褒めに預かり光栄です。確かに空手やボクシング、キックボクシング、柔道など、色々な格闘技はかじりました。まあ、退屈なぐらいあっさり、マスターはしましたが──でも、これは初見。さすがに世界は広いと言わざるを得ません」
しみじみと言う。
「俺だって、脳震盪に、小指折り、みぞおち割りに、頭蓋割り。結構、必殺の技を出したはずなのに、そんな簡単に立ち上がられちゃ、自信を失っちゃいますよ」
「いえいえ。痛いですよ、とても。泣き出しそうです」
「じゃ、泣いてください」
「それはさすがに、お応えしかねます」
「でもまあ、高木はさっき、先輩よりもっと痛い想いをしてるからね」
「え~……。これだけ私に急所ばかり攻撃しといて、今さらそんなこと言います? 鬼ですか、あなた」
「でもまあ先輩。頑丈なの分かったから。泣かないなら、代わりに、ここで終わらせますけど」
次は翔太から、会話の途中で仕掛けた!
(まだ先輩は脳震盪の影響が消えてないはず。あとみぞおちと顔面へのダメージ。さらには左拳は小指を折って封じた。と、なると……)
まずは翔太の右のロー。
当然、元崎は左足を上げ、膝でこれを止める。
(そして、ここだ!)
翔太は自身のウエイトの軽さを利用した。
上がった元崎の左脚に足をかける。
超スピードで上る。
この身軽さには、元崎も野津も驚いた。そして。
さらに、元崎の膝を踏み台に跳ね上がる。
上空で体をアクロバティックに回転させながら。
元崎の左のこめかみに向け、(ここが死角!)とばかりに、遠心力を加味した“膝”を叩き込んだ。
人間がどうしても鍛えられない急所の一つ、それが、こめかみ。
もちろん、翔太も相手が死なないよう手加減はしてある。
先輩の左手は“殺”した。
防御で使用することは出来ないはず。
しかし、その油断が技を鈍らせた。
翔太の膝は寸前でブロックされた。
(う、嘘、だろ……?)
今度は翔太が驚く番だった。
なぜなら。
その翔太の右膝のとどめの一撃を防いだのは。
殺したはずの左手!
小指が折れ、無力化したはずの、元崎の左手。
それが一発必殺レベルの膝蹴りを……
ダメージが残ったままのはずだ。
なのに、きれいに防ぎきった。
だが、これぐらいなら翔太も動揺まではしなかった。
翔太は見たのだ。
(嘘、だろ……)
自分の右膝をブロックした元崎の左手に。
血管でも、神経でもない。
翔太が修行で見知ったあの流れ──魔術回路。
すなわち、なんらかの力が元崎の左手の魔術回路を走り、しかも、それがハッキリと起動しているのを!




