第81話 激突!
第81話
「え……?」
翔太は、思わず息を呑んだ。
美優の右脚が、頭上へ吸い上がるように跳ね上がった、その瞬間――衝撃と速度が、半円を描く軌道で小野山の顔面へ走る。
乾いた破砕音。折れたのだ、鼻梁が。そのまま意識ごと刈り取る。
たまらず小野山は、そのまま後ろへ、背中からどーんと倒れ込んだ。
「お、小野山くん……!」
工業高校の不良たちは、驚愕を通り越して、その場で“動けなく”なった。
反射的に身体が固まる。あれは、極度の危険を目前にしたとき、脳が勝手に踏むブレーキ――生存本能による硬直だった。
仰向けの小野山はアワを吹いて白目をむき、鼻はゾッとするほど“あり得ない方向”へと曲がっている。
その場にいる誰もが、声すら出せずにいた。
人質は、勝ち筋。
……だったはずの美優が、小野山を蹴り上げた右脚一閃──!
その一撃で、立場は完全に覆された。
水城工業のNo2。空手部の副主将であり、喧嘩慣れ十分の小野山。
ちょっとやそっとの打撃で倒れるような、ヤワな男じゃない。
なのに、“女子高生”の、“右足”、それも“一本”で……!
美優は息ひとつ乱さず、振り抜いた右脚を、何事もなかったかのようにゆっくりと下ろした。
まるで、これが“日常の動作”だと言わんばかりに。
その一挙手一投足から目を離せず、不良たちは遠巻きに立ち尽くした。
翔太が驚いたぐらいだから、当然である。
翔太自身、美優に、「あれ、力だけじゃなくて、どんなからくりでああできたんだ?」と聞きたい気持ちでいっぱいである。
股関節の可動域。迷いのない軌道。
その蹴りは、“蹴る”というより“切り裂く”に近い軌跡だった。
何よりも、その、一撃必殺の威力──
海野美優の、恐るべき“強さ”。
──これが、美優の本気……
翔太も、思わず喉を鳴らした。
だが、そこで一人のドン・キホーテが現れた。
「こ、このヤロウ!」
もうヤケクソなのか、それとも冷静さを失ったのか。
不良の一人が、その美優の右手首を乱暴に掴む。
だが美優は落ち着いていた。
掴まれた瞬間、美優は、反射より速く肘を“外側に逃がし”、左手で相手の肘裏を押さえ込む。
てこの原理で“逆方向へ折る角度”に極め、そのまま背中へと捻り上げた。
「いてててててててて!」
関節を逆に曲げられているのだから、女子の体重でも十分だった。
大の男がうつ伏せに抑え込まれ、逆に美優にのしかかられる姿に、周囲はさらに静かになる。
次に、二人目のドン・キホーテも参上する。
勇敢なのか、強さの差を見極められないのか。
その美優の顔面に蹴りを放つが……
ここでは、翔太が動いた。
その動きは、美優の蹴りに負けないほど、迷いがなかった。
翔太は跳躍する。見た目はドロップキックだが、狙いは異なる。
空中で伸ばした両脚で、不良の“膝裏”を挟み込んで固定──膝固めだ。
翔太は、挟み込んだ膝裏を支点に、体をひねるように回る。
その回転に、不良の体がまるごと“巻き込まれ”、逃げ道を失ったまま地面へ叩き落とされた。
シラットの膝固め――回転落とし。
翔太はゆっくりと不良から膝を外して起き上がると、土の上に歪に刻まれた、不良の転がった軌跡を見つめた。
その不良が立つ気配はない。
動かない。
地面へ叩きつけられた衝撃で、完全に、気を失ったようだ。
神社にひとつ、深い静寂が降りた。
強者の技を見せつけられた後にだけ訪れる、あの特有の“誰も息を呑むだけ”の静けさだった。
──美優の技も、翔太の技も、海野流体術=変形シラットの基本中の基本の防御技だ。
基本といえど、格闘技の素人にとってはたまったものではない。
誰一人、口を開く者はいなかった。
そこに。
「もういいだろう……。勝負あり。お前ら、散れ、散れ」
その静寂を断ち切るように、社の階段から低い声が落ちた。
野津俊博――星城学園No2。
その一言だけで、場の空気がわずかに締まる。
言いながら、野津は倒れた相手へ目だけで安否を確かめる。大丈夫。命に別状はない。
そのさりげない確認に、
野津なりの“筋”の通し方が見えた。
だが逆に、この野津の“間”が、不良たちに我を取り戻させた。
「いや……」
その小さな反発が、波のように周囲へ伝播する。
「いや、終われねえだろ! 野津!」
誰かの反発が火種になり、工業勢の怒気が一斉に噴き上がった。
「こっちは小野山くん、やられてんだぞ!」
「てめえ、野津、ふざけてんのか! おめえからやっちまうぞコラ!」
さすが腐っても不良を名乗る者たち。
負けると分かっていても、引くべきでない、そんな蛮勇がある。
小野山への忠義もある。
このままじゃ、帰れない!
そんな工業高校の連中を、野津は、声も荒げずただ“見る”。
それだけで、刃物に触れたような冷たさが場を撫でた。
「あ……?」
威嚇。
そして。
「なんだ、お前ら。まさか、この俺とも、やるっていうのか?」
野津は落ち着いている。
強者ゆえの余裕。
そんな野津の一言で、勝敗は完全に喫した。
◆ ◆ ◆
水城工業の不良たちは、小野山や、他に倒れている仲間たちを抱えて、社の広場を下る階段へと姿を消していく。
残されたのは野津と星城学園の取り巻き。そして翔太と美優。
翔太がクラスメイトの高木を「大丈夫か?」と抱えあげた。「わりい……」、喉から絞り出したような声で高木は応じる。
──その時だった。
翔太の胸骨の奥で、微かな音叉がふるえた。夜の修行で覚えた“夜の太陽”の残響が、ここだけ熱を帯びる。何かおかしい。自身で分かる。だがその熱がどんどん高くなっていき──
そこに美優が立ちふさがった。
その視線は野津に注がれている。
「一体、これ、どういうことよ」
野津との衝突も辞さない、そんな声だ。
「なんで野津先輩が、水城工業と組むの? 三年なんだから逆に下級生を守るのが、不良としての筋じゃない。それに私、理解できない。野津先輩の評判は聞いてる。意味なく喧嘩するタイプじゃないって。根はクソ真面目だって」
先輩だろうが容赦ない口調なのが美優らしい。
「いや、悪かった、悪かった」
野津は、まあまあというジェスチャーで美優を制そうとした。
そして言い訳のように言う。あくまでも冷静に。
「でも本当に、そこにいる北藤が、ここまで強いなんて俺も思ってなかったんだ。あんたもそう。あんた、海野美優さんだろ? まさか学園のマドンナが、水城工業のNo2を一撃で、のしちまうなんて、誰が想像するよ」
なんだか様子がおかしい。
そして、座ったままではあるが頭を下げた。
野津は短く息をのみ、言葉を選ぶ間を置く。
「いや、すまなかった」
「え?」
「……事情がある。ここで全部は言えねえんだ」
これには美優も戸惑う。
「俺もちょっと頼まれたんだ。すべて半信半疑だったが、やらざるを得なかった。興味もあったしな。だからこの場をセッティングした。そして疑っていた自分が間違っていたと改めて分かった。いや、本当にすまなかった……」
「ちょっと待って」と美優。
「頼まれた?」と翔太。
「そうなんだよ。俺もあの人には逆らえなくて……。良くないとは思ったんだが、あの人が頭下げるなんて余程のことだから。しかし、まあ、まさか、こうまでなあ」と、戦場跡を見る。
「それは誰?」
「それは……」
野津の回答を待たず翔太が言った。
「分かってます、野津先輩。そこの社の中にいるヤツですよね」
「え?」
美優が社を見る。
社は静まり返っている。
「気づかないと思ったか。格子の向こうからの“視線”――熱の向きまで感じていたぞ」
野津の顔に一瞬、戦慄が走った。
「な、お前……」
そして、社の格子戸の向こう側から声が返ってきた。
「あら。バレてましたか。それは仕方がないですね。というか、さすが、と言うべきかもしれません」
そして格子戸が開かれる。
賽銭箱。そこから上がった境内。その格子戸を開けた先に立っていたのは。
身長190cmは越えていそうな巨体。ガチガチに鍛えた分厚い胸板に、よく絞り込まれた両腕。
頭の側頭部は短く刈り上げられている。
頭頂の長い髪はオールバックに流し、短く束ねている。
何よりも特徴的だったのは、まるで70年代にタイムスリップしたかのようなキャッツアイ。あのオールドスタイルのいかにものサングラス。見た目はいかついのに、口元だけが人なつこい。
その瞬間、翔太の脈拍が元崎の呼吸と合った気がした。理由は分からない。ただ不快でも恐怖でもない、別種の同調だ。
翔太の心の違和感が増していく。
「元崎さん……」
野津が立ち上がり、背筋を伸ばして頭を下げた。
他の取り巻きも同じく、「オスッ!」と声を揃えて深々とお辞儀をする。
「ああ、ああ。いいですよ。元崎“くん”で。私、そんなに偉い人間でもないですから」
飄々《ひょうひょう》とした声。
堂々とした体躯。
そして、漁師の子として育てられた、人間離れした筋力の野津ですら頭を下げる相手。
元崎。
その名前を、翔太も美優も、知らないはずがなかった。
元崎恵、十八歳。
星城学園の番格。No1の力を持ちながら、目立った悪さをすることもなく、授業もしっかりと受ける変わり者。不良とは言いづらいが、とにかく星城学園の喧嘩自慢の中でのトップ・オブ・トップ。
栗落花淳にカツアゲをしていた浦辺など、この元崎の前では単なるチンピラ。元崎の取り巻きからすら、相手にもされていない。
さらに意外なことに、成績もトップクラス。学校に一ヶ月に一回ぐらいしか顔を出さなくても成績上位であるため、サングラスをかけたまま授業を受けていても、学校に勝手に飼ってるインコを持ってきて指に止まらせ、眺めていても、お咎めなし。まさに特別扱いを受けており、全国模試でもその名は知られているため、出席日数が進級の問題にされることもなかった。
教師たちも、「扱いづらいが、切り捨てられない存在」として黙認せざるを得ないのだ。
他の不良たちに、あれこれ悪い命令をするタイプでもない。
むしろ、ゴミ拾いのボランティアをしていた姿が目撃されている。
だが、元崎の言うことに不良たちは絶対服従。
教師からも恐れられ、手が出せないと噂の、超有名な上級生だった。
「元崎……あなたね。喧嘩無敗の、星城学園の番格ってのは。噂だけは死ぬほど聞いてるわ」
美優が腕組みをして言う。
「お、おい。元崎さんにそんな口……」
思わず慌てる野津を、元崎は片手を上げて制した。
「ああ、いいんです、いいんです。もっとフランクに行きましょう」
その優しげな口元の笑みからは、何の戦意も感じられない。
まるで子どもに言い聞かせるように、やさしく美優に話しかける。
「喧嘩無敗……そんな噂もあるんですね。確かに。いろんな所からスカウトも受けていますし、それに、負けた記憶も確かにありません。でもそれは、あなたも同じでは?」
「何よ、その敬語! 私たちをなめてるつもり?」
「とんでもない」
元崎の笑みは、まったく崩れない。
「これは口癖なんです」
「敬語が口癖? そんなことある?」
「そんな事より、あんた。何か目的があったんだろ、元崎先輩。手間のかかることをして。俺が駆けつけるよう、うまく仕込んだ。そうだろ?」
翔太が、一歩、踏み込んでくる。
最初から違和感があったのだ。
突然の先輩から後輩へのヤキ入れ。
しかも、星城学園の生徒ではなく、わざわざ他校の不良を連れてきての喧嘩。
「この高木を連れ去ったのも、本当の目的は……」
「うーん」
と、元崎は頭かしげた。
「おそらく、あなたが思っている通りですよ、北藤くん」
「な……」
あっさりと認める。
「はい。私が、すべて仕組みました。目的は、あなたですよ。北藤くん」
元崎はますます笑みを強くした。
どちらかというと、とぼけた印象。
嫌味などではなく、心の底から、悪意など微塵もないと言わんばかりの笑顔。
「あなたの思っている通り。そこにいる高木くんを連れて来いって命じたのも私。野津くんに言って、工業の連中を集めたのも私。その話を、北藤くんのクラスメイトに教えたのも私。きっとその話を聞いたら、北藤くんは助けに来るだろうって予想したのも私。すべては計画通り。――まあ、私の策略に乗ってくれて、本当に良かったです。北藤くんが来るって、私、信じてましたからねえ」
「ふざけんな! こんなに高木はボロボロになってんだぞ! 一体、何をしたくてこんな手の込んだことしたんだよ。俺が来なかったらどうするつもりだったんだ? 高木は? へたすりゃ、車椅子人生だぞ」
「まあまあ、そう怒らずに」
元崎は、まったく動じていない。
「ですから、目的はあなただと言ったでしょ、北藤くん。私はあなたの“強さ”を見たかっただけです」
「俺の……強さ?」
「いかにも。単に、あなたがどれぐらい“強い”のか。実戦させてみて、この目で確かめたかっただけ。直接見ないと、人の話には尾ひれ羽ひれがつきますから。私の噂みたいに」
翔太は唖然としてしまった。
まったく掴みどころがない。
それに俺の強さが見たい?
たったそれだけのことで、こんな状況を仕組んだって言うのか。
「思った通り、あなたは“強い”。小学生時代から磨いていた格闘術の技。それに肉体が、筋力がついてくると、ここまでその本領を発揮できるんですね。ここまでの成長例、才能……私は今まで、見たことがありません」
「そ、それなら、なぜ、直接俺に声をかけて……」
翔太の言葉は、あっさりと無視された。
そして元崎は、背後にいる野津を振り返り、その肩にぽんと手を置いた。
「きっと、この野津くんにだって、あなたは勝っちゃうんでしょ?」
「え。元崎くん、さすがに後輩を前にそれは……」
「いや、あなたは負けますよ」
元崎は断言する。野津は一瞬、悔しそうに顔をゆがめたが、すぐに「確かに。分からない」と肯定した。
(なんだか、二人ともいい人そうじゃない?)
思わず美優は翔太に耳打ちする。
(意外だわ……。うちの番格がこんな、だなんて)
確かに、野津の評判はいい。
真面目だし、女子生徒からも慕われている。
だが。
とにかく、強い。
「まあ、とにかく」
元崎は、話を締めくくるように言う。
「北藤くんの強さは、この目で、しっかりと拝見できました。ありがとうございます。想像以上でした。……じゃ、お帰りになって結構です」
「は?」
次には、美優が一歩、前に入り込む。
「いい人かと思ったけど……。ここまでのことしといて、“お帰りになって結構ですよ”? ちょっと、あんた。先輩だからって言って調子に乗りすぎじゃない!? ごめんなさいは? ご・め・ん・な・さ・い!」
美優は珍しくムッとしていた。
いい人かと思った。
だけど。
翔太くんをこんなふうに扱って、こんな帰し方をするのは、さすがにない!
おやおやと、元崎は振り返った。
「いや、そんなこと言われても……。私はすでに目的を達成したわけですし……」
「ふざけないで! 謝りなさいよ! 高木くんもあんなにボロボロにして! 罪悪感はないの!?」
「ありませんよ」
「ありませんって、あなた……」
美優の肩が、わなわなと震え始める。
翔太のこととなると、美優はつい熱くなってしまう。
その熱くなった肩に、ぽん、と手を置いたのは、他ならぬ翔太だった。
「多分、何を言っても無駄だよ、美優」
そう言う翔太は、一見するとやたら冷静に見えた。
だが。
美優には、すぐに分かった。
――いや、違う!
翔太から漂う空気……。これは……
(翔太くん……。怒ってる……)
美優は息を呑んだ。あのおとなしい翔太くんが……。
次の瞬間、翔太は美優の横をすっと通り抜け、その前へ出る。まるで壁のように、美優の前に立った。
「俺が格闘術を習っているのを知っている。喧嘩なんてほとんどしてなくて、ただおとなしく学校生活を送っているだけの俺の“強さ”を確かめたい、とあんたは言う」
「はい、そうです」
「それを知りたいから俺を呼ぼうとしたことまでは分かる。だけど――やり方が、気に入らない……」
こんな翔太を、美優は見たことがなかった。
怒りをそのまま推進力にして、自分から相手へ踏み込んでいく翔太。
いつもなら、争いは避けて通ろうとする。言いたいことも飲み込んでしまう。元いじめられっこだからこその、心の傷と弱さと優しさ。
――今、その全部が、目の前で“外されて”いる。
「気に入らないですか」
元崎も、この異常を感じ取ったようだ。
「なら、どうします?」
「お、おい……。北藤……」
野津は、完全にビビっていた。
元崎の強さを知っているからだ。
元崎の強さは、超高校級どころではない。大人でも、格闘技のプロでも――誰かが元崎に勝つという光景が、まるで想像できないほどの“化け物じみた”強さと怖さを持っている。
だが翔太は、そんな野津の怯えの気配を、まるで存在しないかのように無視した。これも翔太にしては珍しい行動だった。
(何……? 翔太くんの中で何が起こってるの……?)
戸惑う美優の想いも知らず、翔太はゆっくりと歩いて、元崎との距離をつめた。その距離、五十センチ。ボクシングの間合いにも、空手の間合いにも狭すぎる間隔だ。
だがこれは──シラットの間合い。
「じゃあ、元崎先輩」
翔太は表情ひとつ変えずに言った。
「こんなの、どうかな……?」
翔太は、ふいに、くるりと元崎に背中を向けた。
「え……?」
これには元崎も、さすがに眉をひそめる。そして――そこからの一瞬すら、やけに長く感じられた。翔太の上半身が、視界から“すっと”抜け落ちたかと思えば、次の瞬間には顎に衝撃が走る。
それは、踵だった。
この短い間合いで、翔太は後ろ向きのまま、踵落としならぬ“踵での蹴り上げ”を放ったのだ。
背を向けた瞬間には、もう踏み込みと軸の仕込みは終わっていた。
シーソーの原理。上半身を落とす力をそのまま利用し、片足だけを上へと弾き上げる。体の中でも特に固く壊れにくい部分――踵で叩き上げる打撃。狭い間合いからでも攻撃できる、独特の関節の折り曲げ方と柔らかさ。それがシラットだ。
“踏み込む”のではなく、“落として、跳ね上げる”。常識から外れた軌道ゆえに、読みにくく、防ぎにくい。
その踵が、元崎の顎を正確に捉えた──そう、翔太も、周りも思った。
だが――
「速い。そして強い。不意の角度ですね、北藤くん」
翔太の右踵と、元崎の顎の間。その狭い空間に、元崎は即座に自分の手のひらを差し込んでいた。
ほんの指二本ぶんの距離を、反射ひとつで“埋めた”形だ。
──まさか、あれをブロックされた!?
「あ、あれを、防いだの……!?」
美優も、その光景が信じられなかった。
「ふう。危ない、危ない」
元崎は、翔太の踵を受け止めた手をひらひらと振り、その手のひらにふうふうと息を吐きかけた。
わざとらしいその仕草は、いつもの飄々《ひょうひょう》とした元崎そのものだ。
「いや、でもさすがに驚きました。早いなんてもんじゃない。とんでもなく早い。これ、私以外でかわせた人、います? あの距離から、こんな強烈な蹴りが“下から”来るなんて、想像できる人もいないでしょ」
翔太は一瞬、愕然と立ち尽くしたが、すぐに我に返り、元崎に向き直って構えを取った。
「じゃあ、次はこっちからですよ……」
元崎はニヤリと笑った。
笑った、と、思った。
だが。
「あ、あれ……」
それは、元崎自身の戸惑いを含んだ声だった。
ガクン!
突如、元崎の片膝が、ストンと地面に落ちたのだ。
「ちょ……」
“無敵”の象徴のようだった背丈が、ほんのわずかとはいえ崩れた。その事実に、場の空気が凍りつく。
元崎の膝が、わずかにガクガクと震えている。
「……これは、少し意外です」
元崎の言葉から、完全な余裕が消えた。
──効いていたのだ。
受けは間に合った。だが、衝撃だけがその先へ抜けた。
そして、そのまま脳を揺らした。
頭蓋骨の中で脳が振動し、骨の壁に何度も何度もぶつかる。
つまり、典型的な脳震盪である。
人間の急所の一つである、顎の先。ボクシングでいう“チン”。翔太は、そこをわずかにかすめるように――ミリ単位の狂いもなく、踵蹴りを打ち込んでいたのだ。膝をついた元崎の鼻から、血がつうっと落ちる。
狙って“外して”いる。直撃させたら、本当に倒してしまう――そんな、刃物じみた精度……
ぽた、ぽた、と鼻血が地面に落ち、小さな赤い花を咲かせる。
野津の顔が見る間に青ざめた。元崎さんが、鼻血……!? まさか……
「なるほど。雰囲気が変わったと思ったら、そういうことですか」
鼻血を指先になじませるように見つめながら、元崎は静かに笑った。
「想像以上に、面白いことになりそうですね」
そして、いつもの優しげな笑みを浮かべる。
そんな元崎と、正面から向き合う翔太。
「面白いですか……。じゃあ、もっと面白いもの、見せてやるよ!」
元崎が楽しげに笑うのとは対照的に、翔太の表情は、怒りで鋭く研ぎ澄まされていた。
(違う。いつもの翔太くんじゃない……)
美優は目を見張った。
(見たことがない……、もしかして……これが、本気の、翔太くん……なの?)
その突然の変化に、美優さえもゾッと背筋が寒くなる。
翔太の背で、光と影が噛み合う。どちらとも言えない“牙”の気配が、ほんの一瞬だけのぞいた。




