第78話 生首は嗤う
第78話
その時、まだ平山には意識があった。
だが、不思議と痛みはなかった。
感覚だけが抜け落ち、世界のほうが先に遠ざかっていく。
目の前に“首”のない自分の肉体。
その傷口から、驚くほど派手に、噴水のように血が吹き上がるのが見える。
温い霧が夜気を濡らす。
(ああ……、俺ァ……、負けたのか……)
薄れゆく意識の中で平山は思った。
(首ィ……、もぎ取られちまったのか……)
その視界が急に変わり、夜空を介して一回転。騒然としている大熊らの姿が目に入った。
(今のは、放り投げられた軌道で、目が回ったのか……)
大熊が駆け寄ってくるのが見える。
(ああ……大熊さん……)
平山! 平山ぁあああああああああ! と叫んでいる声が微かに聞こえる。
(もう、耳もまともに聞こえねえ……)
大熊が平山の首を抱えあげる。そして自身の顔の前に持ち上げ、何か言っている。
(ごめん、大熊さん……、俺、勝てなかった……。俺、もう死んじまう……)
平山はせめて笑おうとした。笑って大熊に別れを告げようとした。だが。
顔の筋肉は動かず、笑いも作れない。唇にひきつるような感覚。
なのに平山は──俺はうまく笑えているだろうか。この想い、気持ち、大熊にちゃんと届いているだろうか、そう思う。
(まあ、いいや……)
──きっと、大熊には自分の無念が伝わっているだろう。だって、こんなに必死な顔をして。
まったくもって間抜けだ。
こんなにみっともなく負けるとは思ってもいなかった。
それほど自信があった。実力には自信があった。
神表にも、引けは取らないと——本気で思っていた。
──申し訳ない。大熊さんに本当に申し訳ない。ここまで育ててもらって、闘い方を教えてもらって。
今の戦闘スタイルを形にしてくれたのも大熊だ。短所まで受け止めて、無敵の拳に替えてくれた。
(大熊さん……、みんなのこと、頼む……)
平山は静かに目を閉じる。
大熊の勝利を願って。
皆の無事を祈って。
……。
……。
………………………………………………………………………………。
完全なる“死”。
深い、深い、真の闇。
闇は深く、しかし温かい──
◆ ◆ ◆
「おい、これ、もうやべえんじゃないのか……?」
国際魔術会議のエージェントたちの間に、絶望感が漂い始めていた。
「ダメだ……勝てない……」
「平山さんすら、やられちまった……」
「終わりだ……、もう、終わりだ……」
誰からともなく、足が退き出す。そして秩序は悲鳴に溶け、残りが次々と逃げ出し始めた。
「もうダメだあああああああああああああああああああああああああああ!」
「助けてくれ、助けてくれ!」
「いやだああああああああああああああああああああああああ!」
「おい、みんな、落ち着け! バラけるな! 一つにまとまるんだ!」
逃げ出す仲間たち。今、彼らの行動は完全に無秩序だ。
──やべえ。ここは、狙われる!
大熊は必死に号令をかけようとした。
しかし、遅かった。
阿修羅像は、背中を向けたエージェントたちを見逃さなかった。
瞬間移動。
指先ひとつ。
撫でるだけで、人が弾け飛ぶ。
悲鳴。血。骨。
それらが一瞬で戦場を埋め尽くした。
あちこちで上がる悲鳴。
血しぶき。
骨が砕け、血が闇に吹き上がる。
「ああああ……」
その殺戮を大熊はただ呆然と見ているしかなかった。
次々と破壊される人体。仲間たち。
「お前らァああああああああああああああああああ!!!!!」
絶叫する大熊。その肩に、高木が手を置く。
「大熊さん! もうダメです! 俺たちも逃げましょう!」
だがそれは、裏切り行為だ。
平山の弔い合戦の指令への背徳行為だ。
「ワシは、やる! やるぞ!」
「ダメです! もう人数が足りない! 一度、体制を整えてからに……!」
「うるせぇえええええ! どけえええええええっ!」
大熊が、魔力を込めたナイフをありったけ阿修羅像に打ち込む。渾身の力。
自在にミリ単位で操れる大熊特有の術式。
血しぶきを浴びて真っ赤に染まるその顔──
彼こそが今、まさに“修羅”であった。
だが当たるより前に。
そのナイフはすべて、阿修羅像の六本の腕に捕らえられる。
大熊の必死の反撃はまったく通用しない。
相手は風を払うほどにも感じない。
──相性が、絶望的に……悪い──!
もしこれがあの神表であれば。
ちょうどこのタイプの怪異は、お手の物のはずだ。
だが神表は、今回は上の命で“戦えない”。
観察だけ——それが、今の彼の立場だった。
(ここで、終いか…………)
それでも体が勝手に動く。
刃は前へ出る。
だが、その本能的な覚悟を上書きするような、異様な光景が目前に広がった。
「な、なんだ……ありゃあ」
それは、阿修羅像の上空に突如、現れた。
最初は海鳥の群れかと思った。
だが違う。
天使。
そこで羽ばたいているのは白い“天使像“。
無数の“天使像”が、阿修羅像に群がっていた。
翼が擦れ合い、小さな歯ぎしりのような音がする。
「大熊さん、あれ……!」
「──天使像、だと……!?」
“天使像”たちが手に弓矢を持ち、構える。
幼児の体つき。キューピッドに似て、それでいて笑わない。
「例の、平家谷を襲ったやつらか!」
慌てて、高木が棍に現れる青白い魔法痕を見る。
そこに現れたのは“邪悪”を意味する印章。それも。
(──計測不能。許容魔術量オーバー。危険シグナルを探知。つまり……)
──ソロモン72柱。
つまり、“魔王”クラスだ。
高木から血の気が引いた。
──あり得ない。まさか、こんな場所に。
数千とも数万とも数えられる“天使像”たち。
それらが一斉に弓矢を放った。
矢の雨は星座を塗りつぶすほど。
羽音から、腐りのささやきが無限に墜ちてくる。
そのすべてが、阿修羅像に。
その原型が見えなくなるほど刺さっていく。
覆い尽くしていく。
まるでハリネズミ。
さらに。
『ウ……ウ……ウ……』
溶けている!
溶けているのだ!
矢の刺し傷から。
阿修羅像の頭が。
腕が。
体が。
傷はたちまち黒ずみ、輪郭から崩れていく。
ボソボソと黒い塊になって壊れていく。
腐っていく。
堕ちていく。
青銅の皮膚が、泥となって滴り落ちる。
まるで黙示録の頁が破れて、この現実に。貼り付けられたかのようだった。
驚いたのは、大熊や高木たちだけではない。
蜜柑倉庫の屋根の上にあった、あの人影。
「セイテンタイセイ」
その“者”も、月輪を背に、瞳の灯が揺れている。
だが、動く気配はない。
静かに見守っている。
まるで相手の力を計っているかのように。
阿修羅像の三つの顔。
そのうち、“悲しみ”が、泥の中に沈む。
やがて“天使像”たちは、腐蝕して崩れた阿修羅像の指や脚、目玉や腕。
溶けてバラバラになったそれらを乳歯を拾う子どものように手に取って、飛び立っていく。
合掌の指だけが、崩れながらも祈りを続けている。
「あの阿修羅像……中身は、ワシらと同じ生体じゃねえか──」
そして天使たちの群れは。
夜空に輝く星空に。
ちょうど射手座の方へ飛び。
吸い込まれるように消えた。
いっせいに。
羽音も残さず。
あとに残されたのは、大熊、高木らエージェント数名。
そして倉庫の屋根の上に立つ古代中国の扮装をした何者か。
阿修羅像が言う言葉が本当であるならばそれは『斉天大聖・孫悟空』だった。
大熊は疲れ切っている。
神経は、これ以上もちそうもない。
そんな中でも警戒する。
ナイフを持つ拳を握りしめる。
──次に襲ってくるのは、孫悟空かもしれねえ。
(ワシの名において、全滅だけは許さねえ!)
だが。
『セイテンタイセイ』と思しきその者。
偉大かつ尊大なその影。
それがこちらへ向かってくることはなかった。
指で何やら印字を切る。
何の“印“かは見えない。
ただ。
すうっと消えていくだけ。
影は薄紙のように剥がれ、夜に畳まれる。
あっという間にその影が薄くなる。
そして。
またあの甘い線香の香りが漂った。
◆ ◆ ◆
背後の森のざわめきと、海の潮の音だけがこの場に残った。
それはこの惨劇の終わりを意味していた。
「去った……のか……?」
大熊も高木も、しばらく身動きすることも出来なかった。
「助かったのか……ワシらは……」
大熊も高木も他の者も腰を抜かしたように倒れ込んだ。
路面上で高木が言う。
「あの“天使像”……、俺らがマークしていた……」
大熊は頷く。
「間違いねえ……」
「大熊さん……あいつら、信じられないかもしれませんが……」
高木が大熊に耳打ちする。
「魔王だと……!?」
さすがの大熊も目をまん丸に見開く。
にわかには信じられない。
「しっ! 声が大きいです!」
高木から大熊を制した。
珍しい光景だ。
だが、当然である。
これが広まれば、大熊班は。
──再びパニック状態になる。
「とりあえず、上に報告を」
「報告つったって、そう簡単に信じるか、上のやつら……」
「ですが……間違いありません」
高木は棍を杖代わりにして立ち上がった。
その横に大熊が並び立つ。
「だとしたら、あれは何でここに……」
「我々を助けに来たとは思えませんが……」
「はっ!」と大熊は吐き捨てた。
「助けたんじゃねーな、高木。お前が言っていることが本当だたしたら……こいつぁ、内紛だ」
「内紛?」
「あの人影。仮に本物の『セイテンタイセイ』だとする。ならば、魔王クラスが来てたとしても、もう不思議なことじゃねえ」
「ですが……俺もまだ、信じられません」
「その棍の飾りは、単なる装飾ライトじゃねえだろ」
そう。この武器も大熊が高木に与えたものだ。
エラーが起こったことなど一度もない一点もの。
「来たのさ。そう思った方がいい」
「思った方がいい?」
「『セイテンタイセイ』、そして魔王クラスが」
「そんな……あまりにも突然過ぎませんか?」
高木の疑念も当然だ。
もしそれが本当だとしたら──この水城はおろか、世界そのものが。
闇に沈む恐れすらある。
「こいつは、備えなきゃあ、ならんな」
「でも……なんで、あの天使たちは、俺たちには目もくれず……」
「縄張り争いだろうよ」
そう言うと、大熊はたばこに火をつけた。
だがその手は震えている。
正気を必死に保っている……そんな一服だ。
「そう考えるのが妥当だわなあ。なんせあちらさんは、魔王だ。ワシらなんていつでも殺せる。それよりも、『セイテンタイセイ』に見せつけたかった。自分たちの存在と力を。……そう考えると腑に落ちねえか?」
「……確かに。でも、まだ信じられません」
「まったく……」
──最近の若者は、認めるっていう覚悟が足りねえ……
「でも大熊さん。『セイテンタイセイ』と言えば、聖と掟破りの破壊性……いわゆる『聖魔』ですよ。『聖魔』と『魔王』が同時にこの水城市に現れた。こんな大事件、上層部が気づいてないはずはない……。実は、把握していたんじゃないでしょうか」
「さあな……」
大熊は、煙を吐き出しながら言った。
「上の考えていることはワシらには分からん。それより気になる」
「何がです?」
「あの阿修羅がワシらを『邪教徒』と呼んだことだよ」
高木は思い出す。
──そうだ。アイツは確かにそう言った!
「そこが引っかかる」
「『邪教徒』……なぜ、我々が……」
「聖なる存在がワシら魔術師たちを『邪教徒』と呼ぶのは当然かもしれねえ。ただ、それだけじゃないかもしれねえ。つまりだ」
「つまり?」
「“誰の教”に照らしての邪か――」
大熊はふう、と夜空に煙を吹き上げた。
「わ、分かるんですか?」
「いや、分からねえ。これは元刑事の勘ってヤツだけどよ」
大熊は声を押し殺して言う。
「もしかしたら国際魔術会議ってのは、ワシらが考えているような組織じゃないかもしれねえなあ。──魔術により、世界を魔から守る。表向きは、そんなこと言ってるけどよ。これはもっと、神話クラスの問答なんじゃねえか、って話さ」
「神話クラス……そんな。俺たちがそんなものに巻き込まれているっていうんですか?」
「事実、巻き込まれているじゃねえか。“666”。ワシらは世界を壊すという“666の獣”を探しに水城に来た。だが、それが今回の事件の枝葉に過ぎないって言ったら?」
「…………」
「実は、国際魔術会議こそが、黒幕だとしたら?」
「俺たちが“神”の“敵側”だって言うんですか?」
高木は声を荒げる。
当然だ。
それは、自分たちの存在意義を、信念を。
根底から覆すことになり得る。
「高木ィ……。まあ、落ち着け」
大熊はそんな高木をなだめる。
「あくまでも例え話だ。でもまあ、……疑問は尽きねえわな。……ワシらが行っていることは本当に“正義”なのか。本当に“人類”の為なのか。そして、ワシらが受けた国際魔術会議教会の神父たち。ワシらが、彼らから受けたあの“祝福”。それが何の“祝福”なのか……」
「大熊さん……」
「国際魔術会議か……」
たばこを吸い終わった大熊に、高木が携帯灰皿を差し出した。
路面に落として踏み消そうとした大熊は、素直にその携帯灰皿でたばこの火を消す。
「こりゃあ、上の方にもスパイを送り込まんとどうにもならんかもしれんぞ……」
血と肉塊と粉々になった骨の中。
大熊はひとりごちる。
正義の名は、何度だって着替えて新たな名を生み出していく。
それは歴史が証明している。
打ち寄せては返す波。潮騒がやたら傷に染みる。
だが。
とにかく、今夜の惨劇は終わった。
多くの疑問だけを産み落として──
「さあ、帰るか」
抱えきれぬほどの多くの謎。
それを残したままにして、大熊が踵を返す。
その時だった。
『ワハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!!!!!』
突然、笑い声が割れる。それも二人のすぐ近くで。
「まさか……」
「終わったはずじゃ……!?」
高木が絶望的な声を放つ。
そして。
見た。
大熊、高木、そして残りわずかとなったエージェントたちは。
“それ”を。
笑い声のその“主”。
彼は──
平山の生首だった!
舌の先に血泡が揺れ、目は夜の星すら写さない。
その生の輝きを失った目をカッと見開き、ゲラゲラと笑う。
「平山っ!?」
即座に高木が棍を構える。
もう体力にも魔力にも余裕はない。
その高木らを嗤うかのように、平山の生首は風に絡みつくように、エージェントたちの周囲を旋回する。
『大熊さん、俺、今、めっちゃ気分いいっすよぉ!』
「取り憑かれやがったか……」
生首はにやあと笑う。
その目は至上の快楽に満ちている。
『驚いてますか? そりゃ驚くでしょう。俺だって驚きですよ』
大熊がコートの中に手を入れる。
タバコじゃない。
ナイフを握るためだ。
だが、平山”だったもの”はこう言った。
『また相まみえましょう大熊さん。どうやら俺はまだ、終わっちゃいねえみたいなんで!』
その舌が、ぶらりと揺れた。
重力を忘れた血が、宙に滞ってから、遅れて落ちた。
そして、そのまま猛スピードで潮風の中に消えていく。
残された大熊の耳には、繰り返す波の音の代わりに、生首の笑い声がいつまでも木霊していた。
『ワハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハハ!』
——笑い声は、潮騒とは違うリズムを刻みながら、いつまでも耳の奥に残った。




