第76話 阿修羅像 ── ABYSS
第76話
魔王ベレス=成宮蒼が告げた「敵は二つ以上」「この国そのものが抱えた怨霊の胎動」という言葉は、その夜になっても翔太の胸の奥でじくじくと残っていた。
その日の夜。
北藤翔太は、自室で、魔王ベレスから渡された水晶の置物と向かい合っていた。
月が出ている夜ほど効果が高まる──そう説明されたものだ。
女性の頭部を象った水晶は虹色にきらめき、ひんやりと冷たい。翔太はその表面に両手を添え、ゆっくりと意識を沈めていく。
「セトナクト……」
ベレスから教わった呪文をそっと唱える。
同時に、翔太の体内の魔術回路を、エジプト神話のイーナリージア=エナジーが一気に駆け抜けた。
激しい痛みが全身を焼く。思わず呻き声が漏れる。
皮膚の下を光の線が走る。血管や神経の道筋そっくりの輝く“筋”が、瞬く間に体中へと張り巡らされていく。
髪の毛が逆立ち、ふわりと宙に浮いた。
翔太は、体内にイーナリージアが静かに溜まっていくのをイメージする。
一滴もこぼさないように。
苦痛に奥歯を噛み締めながら、脳裏に「夜の太陽」としての太陽神ラーの核を描く。
四拍で吸い、十二拍で肺を凍らせるように止め、六拍で吐く──そのリズムを崩さない。
夜の冥船に乗ったラーを意識し続ける、この『冥船呼吸』があって初めて、ラーの魂は活性化するのだ。
◆ ◆ ◆
その水晶の女性は、女神ヌトの頭だと、魔王ベレス=成宮蒼は説明していた。
「女神ヌトはエジプト神話の“母なる存在”だ。天そのものがヌトで、すべての天体は彼女の子ども。太陽も、もちろん例外じゃない。朝、太陽は母から生まれ、天空を通り、夜になると母のもとへ還る」
エジプトでは、太陽は地平線に沈んだ後、死者たちが逝く地下世界=冥界を『冥船』に乗って通ると言われている。
つまり、ラーは一日に一度、死ぬ。
冥界を船に揺られて、死者として東へ。そして朝になると女神ヌトにより再び新たな命を吹き込まれ、東の地平線から生まれる。
死と再生を繰り返しているのだ。
「冥界をラーが旅しているあいだ──つまり夜のあいだに散った生命エネルギーを、君の体に流し込む。それで君は“太陽神ラーの転生体”としていっそう強固になる。ラーを喰らおうとする666の獣の介入も、ある程度は遅らせられる。痛みは伴うけれど、効果は覿面さ」
さらにベレスは続けた。
①この儀式の副作用として、いわば“超能力”のようなものを獲得できること。
②戦闘と守護の女神セクメト──ラーの片目に宿る女神の力を、わずかとはいえ行使できるようになること。
③デルピュネーほどではないにせよ、怪異と渡り合えるだけの力は手に入る、と。
翔太は、この『夜の太陽を背負う儀式』を毎晩続けている。
苦痛に耐え続けて、もう一ヶ月以上。
『冥船呼吸』を体に覚え込ませるだけでも二週間はかかった。
すべては、自分の身を守るため。
666の獣を封じるため。そして、周囲の人間を危険から遠ざけるため。
──そして、美優。
大切な幼馴染を守るためなら、夜を痛みで塗りつぶすことも惜しくない。
想像を絶する苦しみだろうと、神経をすり減らす作業だろうと構わなかった。
その晩、儀式を始めて一時間ほど経ったころ。
トントン、とドアを叩く音がした。
翔太は、水晶から意識を引き上げる。ドアの向こうから、美優の声。
「翔太くん、ちょっといいかしら」
──深夜に、幼なじみからの訪問。 しかも、自室へ。 一瞬だけ、普通の男子高校生としての自意識が、胸の奥でちくりと反応する。
次の瞬間、胸の奥で何かが――ひび割れるように痛んだ。
骨の内側に残っていた痛みが、遅れて、ずしりと現実を叩きつけてくる。
息が浅い。
指先に力が入らない。
……ああ、違う。
今の俺は、そんなことを考えていい状態じゃなかった。
「どうぞ」と応えると、ゆっくりとドアノブが回った。
ドアが開いたそこには、ルームウェアを着た美優の姿。
半袖シャツに、半ズボン。黒いシャツの前面に描かれているのは、90年代のアメリカのバンド・ニルヴァーナのロゴだ。
「入っていい?」
翔太はデスクの前の椅子から立ち上がり、ベッドに座った。
「その椅子、使って」
美優が部屋に入る。そしてその椅子に座る。デスクの上に置かれてある、女神ヌトの水晶。「修行、頑張ってるのね」と微笑んだ。
「邪魔しちゃったかしら」
「いや、大丈夫。終わったけど、どこまで耐えられるか試していたところだったから」
翔太はかぶりを振った。
だがその動きや顔色から、美優には分かる。
強い疲労と苦悩のあとが。
「そう……。ありがとう。じゃあ早速、本題に入るわね」
美優は翔太を休ませるために、やや早口で切り出す。
「今日の、ひまりちゃんの話、どう思った?」
──“裏”宮区の話だ。
あの後、ひまりは秋瀬瑚桃と一緒に翔太の家を後にした。護衛にはデルピュネー。
「まだ暗くなる前でございますが、念の為、という言葉もございます」
そう言って、二人を無事送り届けてくれたと、デルは報告していた。
「ひまりさまがおっしゃっていた、“裏”宮区。帰りに少し寄ってみたのですが、わたくしの目には、その路地らしきものは見えませんでした。ただ……」
と、続ける。
「近くに『カスケード』の亀裂はありませんでした。その土地に昔から巣食う何者かがいるのか、かつて処刑場か何かがあったのか……。いずれにせよ、明らかにわたくしの理では理解できない術式の言語が刻まれておりました」
◆ ◆ ◆
「デルがそう言うんだから、おそらくそうなんだろう」
翔太は答える。
無理に笑顔を作っているのを気づかない美優ではなかった。
「にわかには信じられないけど怖いな。幽世と違った理となると、美優の考古学的知識も神話や神秘学の情報も術式も通じない。その『外部』の力ということになる」
「そうね。でも私の『マグス』としての力との親和性はどうなのかしら」
美優は手を組む。『マグス』──古代の秘術師。その真相は古い石板からの欠けた情報がすべてで、幽世以外の理を含む可能性がある。
「もしかしたら、私なら観測できるかも。あとヒントは修験道や陰陽術。日本神道や偽書ね。そうした古代文書から見つけられないかしら」
相変わらず聡明だ。
それだけ、翔太の負担を減らしたいからともいえる。
「とにかく」と美優は続ける。
「まず事実──“どこかで何かが動いている”は確かね」
「で、事件群には一貫性がない」
「つまり因子は複数あるってこと。混線してるわ。複数の存在が入り混じっている」
「蒼さんの見立てと、今の俺たちの結論は一致、だな」
翔太は天井を見ながら言った。
「怪異という意味では共通している。でも、全部が同じ“出どころ”じゃない。属性が違う。それがこれまでとは違うことだ」
「そうね」
「バフォメットや天使像は、『カスケード』、つまり、幽世の関与で間違いない。だけど、市内にばら撒かれている小さな『カスケード』や、瑚桃の別荘で見た六本腕の地蔵、あの子どもたちの怪異……あれはどこか違う」
「『第三の理……、蒼さんもデルもシャパリュも、そう言ってたわ」
そう言うと美優はほうと小さくため息をついた。
翔太は翔太なりに要点をまとめていく。
「これまでになかった“小さな『カスケード』”も含めて、別の何かからの影響がある、って、考えた方が自然だ。ただ、その割れ目から漏れた力が、その別系統。それを『第三の理』って呼ぶのなら、それの力を増幅させている。違うもの同士が複雑に絡み合って、今の状況になっている……そんな感じだな」
「単一解に畳まないほうがいい。それが今の最適解ってことね。同意するわ」
「ああ。今はまだ小さくて見えづらい。でも、輪郭が見える大きさまで育つのを見極めれば」
「そこで初めて、私たちも、対策を考えられる」
と、美優は少し翔太から目をそらす。
「うちのお父さんにも相談してみようかしら」
「考古学者の?」
翔太は少し考えた。
「いいかもしれない。でも、それなら別に聞いてほしいことがあるんだ」
「何?」
「国際魔術会議。うちの父も、美優のお父さんも関わっていたあの組織……。国際魔術会議に、何か情報は入ってないのかな」
確かに。だが、国際魔術会議の正体は美優からしても得体が知れない。果たして正しい情報を出してくるのだろうか。それを隠れ蓑に、別の目論見がある可能性は……?
妄想していても仕方がない。
「分かった、聞いてみる」
美優としても気になる。
翔太の考えはもっともだ。
「ありがとう。ちょっと心のモヤモヤが晴れた気がする」
「瑚桃にも聞いてみるよ。瑚桃のお父さん……、もしかしたら警察も、何か情報を得ているかも知れないし」
美優はうなずいた。
「じゃ、また、お互い情報が入ったら、教え合うってことで」
「うん」
「ありがとう、おやすみ、翔太くん」
パタン、とドアが閉まった。
それを確認した直後、一気に、翔太の体が崩れ落ちる。
荒い息を吐く。痛みと疲労で、嘔吐しそうになる。
こんな夜がこれから毎晩も続く。
──俺は果たして、耐えられるのか……
そのドアの外では、その美優がまだ立ち尽くしていた。
(聞けなかった……)
美優は思う。
(葉山ひまり、あの子と翔太くんのつながり……)
◆ ◆ ◆
美優は葉山ひまりがリビングにいた時から実は勘づいていた。
──葉山ひまりは、翔太くんについて、何かを隠している。
リビングで話をしている間、ひまりは時折、こっそり翔太を伺い見ていた。
そこに美優は、何かの因果を感じ取っていたのだ。
(葉山ひまりと翔太くんを、つなぐ線……)
無意識だろうが、その因果の線は、翔太からも発せられている感覚があった。
おそらく翔太にも自覚がない何かの、つながりが、あの二人にはある。
(間違いない。ひまりちゃんと翔太くんの間で、過去に、何かあった)
そう思いながらも、美優の胸はちょっとチクチクとした。
(こ、これはあくまでも今の現象の謎を探るための鍵。
この異なる位相を結ぶ唯一の接点がありそうだから、
翔太くんと葉山さんのことが気になっているだけだからね)
◆ ◆ ◆
同じころ。
翔太の自宅──敷地内の教会の屋根の上。
「今夜もまた、狩りを行っているようですね」
風に揺れる海色の長い髪。セイレーンの横に、成宮蒼=魔王ベレスが立っていた。
「ああ。あの人間たちには、今夜も囮になってもらう。『リリン』どもの仕業か、『第三の理』か……。そして現状の瘴気が、どのように人間の魔術に反応するのか──じっくり観察させてもらおうか」
ベレスは冷酷な瞳で、夜の闇の向こうを見据えた。
◆ ◆ ◆
「大熊さん、ダメです。こいつ、めちゃくちゃ硬い!」
国際魔術会議のエージェント・高木英人が、青白く輝く武具の棍を構え、叫ぶ。
「高木ィ! 泣き言、言ってんじゃねぇぞ!」
同じく国際魔術会議のエージェント・大熊英治が、両手の拳にナイフを六本を携え、“それ”に向かって、飛びかかる。
「はああああ!」
だがナイフは、“それ”の腕に弾かれ、別の腕が大熊を襲った。
寸でのところで躱し、後ろへと飛び退く。
場所は海岸沿い。市街地から外れた殿勘定地区の、路線バスの折り返し地点だ。
ターミナルとして無駄に広いその道路が、今夜は戦場になっている。
魔王ベレスとセイレーンの監視下で、国際魔術会議のエージェント数名が、“それ”と死闘を繰り広げていた。
彼らが相手にしているのは、大熊にとっても“未知”だった。
これまでの怪異とは桁が違う。
強さも。魔力も。
姿かたちは、仏教の守護神・天竜八部衆の一つ──その中核をなす阿修羅像。
左右に三本ずつ、計六本の腕。一つの頭に三つの顔。
誰もが教科書で見たことのあるその“像”が、今はエージェントたちを一人、また一人と血祭りにあげている。
動く像の怪異自体は珍しくない。
最悪なのは、その腕だ。
──触れたら終わり。完全な“即死”。
かすめただけで、内圧が跳ね上がる。
骨も肉も、内側から破裂する。
指先の一撫でで、血飛沫を撒き散らしながら“爆死”する。
「なんなんだ! こいつは!」
大熊が叫びながら再び飛びかかる。
仏教の守護神。人に仇なす陰=『鬼』を退治し、人の魂を極楽浄土へと導くはずの仏像が人の魂を地獄へと送り込んでいる。
大熊が飛び込もうとした、その目の前で──
阿修羅の腕がひと振り。隊員の肩をかすめた。
鎖骨が真横に割れ、黄白色の骨髄が糸を引いて飛び散る。
(ちいっ、なんて攻撃してやがる!)
次の鼓動で、頸動脈から血が噴泉のように吹き上がっていた。
首が弾け飛んだのだ。
空高く、その頭が、舞う。
大量の血が、大熊の顔面を叩きつける。
視界が一瞬で赤に染まる。
それでも大熊は足を止めない。そのまま得意のナイフ術で距離を詰めた。
班長としては、班員の死を無駄にはできない。ひるめない。
「仏だろうがなんだろうが──」
大熊のナイフが宙を舞う。
指先一つで軌道を変え、ミリ単位で急所をかすめるベテランの技だ。
「ワシのナイフと魔術で、あの世に叩き込んでやるわ!」
──そして、この人間たちの魔術と奮闘の果てに、どんな『リリン』が現れるのか。
『第三の理』が、何らかの変化を見せるのか。
魔王ベレスは、千里眼を通して冷ややかに“実験結果”を見守っていた。
「大熊らが阿修羅像と戦っているバスの折り返し地点」
【撮影】愛媛県八幡浜市・殿勘定。この先には防波堤があり、釣りに興じる人々がのどかに過ごしている。またシーロードという整備された海岸線もあり、ドライブにも最適。




