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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第二章 怨霊編~胎児よ、胎児、湖面はそこだ

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第75話 祭ばやし

第75話


 ──瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ


 これは、百人一首でも数えられている崇徳院すとくいんの歌だ。

 崇徳院は、歌の魔術師とも呼ばれている。

 その崇徳院とは、すなわち崇徳上皇すとくじょうこう

 葉山ひまりの神社で祀られている神の一柱であり、日本三大怨霊の一つ。

 それもここ、四国においては、最凶クラスの大怨霊だ。


 この和歌の言葉の一つひとつが水を割るみたいに、胸の奥で余韻だけが残る。

 ひまりの一瞬の動揺を察したのだろう。魔王ベレス=成宮蒼なりみやそうは、こう切り出した。


「例えば、七月あたりから、この街で見かける怪異の数が多くなったとか、そんな感覚はないかい?」


 北藤翔太ほくとうしょうたはこの質問に身を固くした。7月と言えば、海野美優うみのみゆが拐われ、諏訪崎すわざきで、サバトの悪魔バフォメットが姿を現した、あの時だ。

 同時に発生した『濃霧』=『カスケード』。おそらく蒼は、その時の『カスケード』が起こした異変について、ひまりから何かを得ようとしている。


 ひまりは数秒考えた後、おそるおそる、こう答えた。


「わたしの“目”が関係しているわけではないですが、街の噂で、幽霊を見たとか、お化けを見たとかいう話はよく聞くようになりました」

「なるほど」


 それはベレスにとって想定内だ。


「その噂の真相を率直に言おう。今、この水城市にはあらゆる場所で空間にひずみ……ひび割れと言った方がいいかな。割れ目が増えているんだ。向こう側の気配が、こっちの空気に混じるくらいに。そこから多くの怪異が活性化し始めている」

「割れ目……?」

「そうだ。つまり、より多く怪異が訪れ、さらにはより多くの人が怪異を目にするような瘴気しょうきがこの街に満ちている。海と山に囲まれたこの地に次々と溜まっていくように。──君の中での感覚ではどうだい?」

 

 ──確かに、湿った空気に腐臭が混ざるのはよく感じる――とくに最近、そういう匂いが増えてる。それかな……?


 ひまりはまた、しばらく考え込む。そこであることをふいに、思い出した。


「あっ、そう言えば」


 顔を上げる。


「“裏”宮区……」

「“裏”宮区? なんだい、それは」

「あ、あの、実は、水城市の宮区……、その住宅街には昔から、わたしにしか見えない路地があったんです」

「宮区って、あの新川を渡った先の区域よね」


 美優が割って入ってきた。


「う、うん」


 と、ひまりはおずおずと答える。


「宮区に“裏”って、どういうこと?」


 言うべきか言わざるべきか。だが自分が言い出したことだ。

 しばらく黙っていたが、ようやく口を開いた。


「見たのは、六歳ぐらいの頃だったと思います。宮区の公園で友達とかくれんぼをしていて。それで、わたし、見たことがない路地があるのを見つけて、隠れようと思ってそこへ入っていったんです。……一見、その路地は普通の住宅街のように見えました。ですが、まったく人通りがなかったのが変だなって、子どもながらに思ったんです」


 それを聞く蒼の目は優しいまま。それが逆に恐ろしい。しかしひまりは続ける。


「でも、まずは隠れなきゃって。そう思って路地の物陰に隠れました。ここなら、見つからないだろうと。ドキドキしながら、でもワクワクもしてて、すごく興奮していたことを覚えています。でも……」


 と、ひまりは眉をひそめた。


「それは突然でした。路地の奥から祭ばやしのような音が聞こえてきたんです」

「え。なにそれ、こわっ!」


 ひまりの従姉妹の秋瀬瑚桃あきせこももが茶々を入れた。


「黙って!」


 美優が制した。瑚桃はバツの悪い顔をして「てへっ」と自分の頭にげんこつを入れる。

 再びひまりは語り始める。


「なんだろうって思って。こんなに人気ひとけがないのは、奥でお祭りをやっているからかなと好奇心を抱いて、そっちの方へと歩いていきました。太鼓の音がドーンドーンと鳴っていて、何かお拍子のような音も聞こえて。……わたし、歩きました。どんどん、奥の方へ。でも、でも、近づけないんです! 太鼓の音はずっと遠くで聞こえていて、いつまでたってもずっと人はいなくて、薄暗いままで」


 ひまりは当時を思い出したのかガタガタと震え始めた。自分を抱きしめるように両手で。


「ずっと遠くから聞こえ続ける太鼓。最初は前から聞こえていたんです。なのに気づくと……、ドーンドーン……。前から…背後からも…」

「つまり、閉じ込められた?」


 蒼が聞く。ひまりは頷いた。


「私もそう思いました。でも思い切って、路地の入口へ逃げ出そうとしました」


 ◆   ◆   ◆


 電柱の影が一本、路地の幅と同じ細さでのびている。家のブロック塀は雨上がりみたいに冷たく、貼られたポスターだけが色を失いかけていた。

 路地を走って逃げ出そうとする小学生時代のひまり。その全方向を、太鼓のドーンドーンで囲まれている。


 走る。


 走る。


 走る!


 だが一本道だったはずのその路地。逆に進んだにもかかわらず、路地の入口は見えてこない。あの新川が見えてこない。


 それどころか。


 ひまりがたどり着いたのは、墓地だった。


 住宅街にどうしてこんな場所があるのだろうというぐらい広い土地に、これまた住宅地には見合わない墓地。

 そしてその中心には。

 住宅の屋根より背の高い影が地面に置かれている――巨大な岩だった。

 封印を意味する注連縄しめなわが、白い帯のように見える。

 岩肌に触れる苔が、太鼓の余韻で微かに揺れた気がした。


 ひまりは慌てる。

 先へ進んだら墓地。

 戻ったらまた路地。

 どうしようもなくなって、泣き出したひまり。


(どうしたらいいの)

(どうやったら帰れるの?)

(ここは、どこ?)

(帰りたい! 帰りたいよー!)


 ひっくひっくとしゃくりあげる。その目に、年老いた老人が立っているのが見えた。


(人!?)


 老人はその巨大な岩の前に立っていた。


(人がいた!)


 墓地の中を駆け抜けていく。

 ドーンドーンとまだ鳴り続ける太鼓の音。

 ドーンドーン――……“ン”の尾だけが長く伸びて、発生源が消える。

 ひまりは、はあはあ息を切らしながら、その年老いた男の背後まで走った。

 そして懇願する。


「おじいさん! おじいさん! ねえ、ここどこ? わたし、帰りたい!」


 老人は黙っている。

 ただただ、墓地の中心にある、その巨大な岩を見つめている。


「嫌なの。もうここにいたくないの。お願い! 帰り道を教えて下さい」


 彼はまるでひまりの声など聞こえてないみたいだった。

 ひまりは老人のズボンを引っ張る。


「ねえ、おじいさん! わたし、怖いの! お祭りの音がずっと聞こえてきて、嫌なの!」


 ぴくっ。


 老人が反応した。

 そしてゆっくりと振り返ってこちらを見た。


「お祭り?」

「そう。ほら、聞こえるでしょ、ドーンドーンって」


 老人は耳を澄ませた。だが目を閉じて、頭を横に振る。


「いや、聞こえてないねえ、太鼓の音なんて」


 そんなわけない!

 老人にしがみつく。

 前方の太鼓と、背後の太鼓で拍がずれている。二つの祭りは重なっていない。

 それが──よく分からないけど、すごく怖いっ!


「聞こえてる。今も聞こえてるよ! ねえ、怖い、怖い! お願い、帰り道を教えて!」

「おかしいなあ」


 老人の口調は驚くほど平坦だ。


「今日は、どこも“お祭り”なんかやってないはずだけどね」

(えっ……!?)

「それより、お嬢ちゃん、どこから来たの? どこから入ってきた?」


 老人の目が、怪しむようにひまりを見た。

 その目を見て、ひまりは確信する。ひまりの直感が知らせる。













(──この人、“人”じゃない!)










 


 ひまりは、すぐさまその場を逃げ出した。


 この一本道を脇目も振らず、走り抜ける。

 なのに走行中のはずひまりの耳元でずっと。


「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」

「お祭りなんてやってないよ」


 老人の声だけが着いてくる。

 靴の底音が一度も来ない。

 声だけ。

 声だけ。

 声だけが、ひまりと伴走する。そして。


「お祭りなんて――やって――ない」


 切れ目の入った録音みたいに、ところどころ欠けた声も。


 ひまりは泣き叫びそうになった。

 だが声が出なかった。

 出そうとした。

 出そうとしても。

 それはこの路地の瘴気しょうきに呑まれるようにかき消される。


(助けて!)

(助けて!)

(助けて──!)


 その時。


 目の前を、一匹の鮮やかな紅色の大きな蝶が横切った。


 次の瞬間。


 ドーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーン!


 一際大きな太鼓の音。大気を震わすようなこの衝撃に、ひまりは思わず後ろ向きに転んでしまった。


(痛っ!!!)


 お尻と背中を強打する。横隔膜が驚いたようで息が止まりそうになる。

 そこへ、現実めいた激しい破片音――割れるガラスと金属の軋み。

 ひまりが、次に目を開けた瞬間。

 幼いその目が見たのは、自動車が民家に突っ込んでいる事故の風景だった。


 フロントガラスは割れ、そこに血が飛び散っているのが見える。助手席で、女の人の白い腕も見えた。ボンネットからかすかに立ち上る煙。


 もう一歩、ひまりが先へ進んでいたら、ひまりは、この車と民家の間に挟まれていただろう。


 目の前を横切った紅い蝶。

 あの紅は、自宅の社で見る護り札の色とそっくりだった。

 ともかく、ひまりは一命をとりとめた。

 あの蝶が私を助けてくれたのかもしれない。

 そう思い当たり、自分が駆けて来た方角を振り返る。


 しかしそこには。


 いつも通り民家が立ち並んでいた。路地の姿はどこにもない。

 あの路地は、姿形もなく、消え失せていた。


 ◆   ◆   ◆


 ひまりの話を聞き終わった蒼は、少しの間、視線を上げた。

 何かのヒントを捉えようとしているようだった。


「なるほど。君にしか見えない路地。祭ばやし。そして、巨大な岩か」


 この都市伝説めいた怪異に、翔太も美優も、瑚桃でさえも黙りこくっている。

 デルがキッチンのシンクを掃除している音だけが響いていた。

 ひまりは、沈黙に耐えられなくて言葉を絞り出す。


「はい。それからも何度か新川沿いを自転車で走る時とか、宮区に行くことがあったんですけれど、その路地は見えたり見えなかったり。でも、見えても決してそこへ入ることは二度とありませんでした」

「デル、どう思う?」


 蒼がデルピュネーに聞いた。

 デルはエプロンで手を拭きながらキッチンから戻って来る。


「はい、蒼さま。それはここ最近の『カスケード』の亀裂とはまた違う現象だと思います。もっと古くて土地に貼り付いた怪異の一種。その中心は岩――。その空間の核でしょうが、邪悪ではない。推察するに、呼び鈴だけが鳴り続けている。扉そのものは開いていない――そんな感覚がございます。そしてわたくしどもの『固有結界』ともまた、異なった位相の空間」

「うん。僕も同じ感想だ」


 蒼は答えた。


「“裏”宮区か……。一度、調べてみた方が良さそうだな」


 そう、ひとりごちる蒼の言葉を、ひまりは遠慮がちに遮る。


「それで、あの……。その路地の話なのですが……」


 皆がひまりを見た。


「うち、実家が神社なのですけれど、最近になって急に、そのことについて、相談が来るようになったんです。その路地を見た、という人たちが」

「へえ、なるほど。これは、面白くなってきたね」


 シャパリュがあとを継いだ。


「その路地は、最初は君にしか見えなかった。でも、七月以降、その路地を見た人たちが多く現れるようになった。つまり、都市伝説化したってことだね」


 ひまりは肯定する。


「はい。その通りです」

「つまり、こういうことか。ひまりが最初に口にした“裏”宮区。それはひまりの言葉じゃない。“裏”宮区という噂が、七月以降、この水城に突如、誕生した。端的に言えば、普通の人間なら見えないものが、なぜか、いろいろな人に見え始めるようになった。この世界に元々あった土着の怪異が、あの『カスケード』から、急に力を得て増幅している。伝説が現実へと変化を始めた」

「つまり、どういうことなの? シャパリュ」と、美優。

「簡単な話さ」


 シャパリュは明朗に語る。


「今現在の怪異は、すべてが『カスケード』起因じゃない。陰皇いんのすめらぎをはじめ、最初からこの世に棲む者、あるいは伝説。『第三のことわり』が怪異として実体化し始めている。要は」


 シャパリュの目が一瞬、“闇”を抱えて歪んだ。


「今のこの水城には、災厄か奇跡か、そして敵か味方かよく分からないものがウヨウヨとうごめいている」


 ◆   ◆   ◆


 気が気ではない、ひまり。

 実は、ひまりは、すべてを明かしてはいない。この話には、語られなかった冒頭がある。それは省いた。いや、この場では言えなかったと言った方が正解だろう。


 あの時、ひまりが路地に、つまり“裏”宮区に、迷い込んだ時。老人以外に、もう一人。ひまりは、最初に、ある少年を見ていた。


 その少年は、その路地で、一言も言葉を発さずにただただそこに立っていた。

 瞬きの回数が少なすぎた。ひまりの眉間が、見られているほうでじん、と熱くなる。


(知らない子……)


 ひまりは、そう思って通り過ぎ、奥へと向かった。通りすぎる時、その少年がこう言ったように聞こえた。


「ここから先へは行ってはダメだよ」


 記憶の中の少年はそう言ったはずだ。


「ここから先へは行ってはダメだよ」


 今も鮮明に思い出せるその声。


 そう。


 その少年。


 その少年こそが、ひまりのトラウマを作るきっかけになったのだ。


 なぜならそれは。


 間違いようも。

 疑いようもなく。


 北藤翔太ほくとうしょうただったのである。

 小学校で、初めて翔太を見かけた時の衝撃は、今も忘れようがない。

 小学生時代の翔太と、まったく同じ姿だったのだ。


(なのに……)


 と、ひまりは思う。


 翔太はこの話を、初めて聞くような顔をしている。

 信じられない、といった表情をしている。

 では、あれは北藤くんじゃなかったっていうの……?


 この青年やメイド服の少女、猫たちの冷気は“影の温度”。

 ──北藤くんがいた路地のあの温度とは違う。もっと乾いた静電気が頬に触れるような感覚……。

 

 ひまりは気付かれないよう翔太を伺い見る。

 反応を確かめ続けている。


 ひまりが、謎の路地で見かけた少年が北藤翔太だと確信したのには、もう一つ理由がある。


 おかしな話かもしれない。

 誰も信じてくれないかもしれない。


 だが。

 路地で会った時も。

 小学校の廊下で見かけた時も。

 そして今も。


 今の翔太は、蒼のほうを見ている。けれどこめかみの奥から、もう一条の視線がこちらへ――自分の子宮の奥底で感じられている。


 いわば、もう一つの目。 

 二つの目とは別の「第三の目」

 それが。

 ──今も、なぜか、わたしの下腹へまっすぐ、反応を示し続けている!



挿絵(By みてみん)

「新川と、ひまりが見た謎の路地・“裏”宮区がある場所」

【撮影】愛媛県八幡浜市・新川

「良さそうかも」「続き読みたい」など思った方は、ぜひブックマーク、下の評価を5つ星よろしくお願いします。

していただいたら作者のモチベーションも上がりますので、さらに良いアイデアが湧くかもしれません。

ぜひよろしくお願いします!

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