第74話 ひまりが見る“世界”
第74話
自分の身に何が起こっているか分からない。
葉山ひまりを、そして平家谷を地獄の底に叩き込んだ、あの“天使像”の群れ。殺戮の限りを尽くした白い天使……いや悪魔たち。それが、たった一撃で。
全滅してしまった──!
霊感の強いひまりには分かった。
さっきの一撃で、あの群れは“戻らない死”へ落とされた。
日常の理から外れた強さ。
──自分が神社の家系だから。自分が崇徳上皇の御霊の巫女だから。
だからこそ、自分の知る何段も上の次元が、目の前にある。
(どうして――“あの子”の一撃だけが、こんな結末を呼ぶの?)
胸の奥で、名前のないざわめきが小さく鳴った。
さらには――
このリビングには、そのメイド服の少女のほか、北藤翔太はもちろん、成績優秀、眉目秀麗、だがとっつきにくいと噂される学園の有名人・海野美優までいる。
一体、心のどこから整理をしていいのか分からない。
──どうして海野さんまで?
そして、あの神の存在をも脅かすようなあの力は?
「さあさ、座って座って」
動揺するひまりを、まるで自分の家にいるかのようにソファーへ案内する従姉妹の秋瀬瑚桃。座らされた正面には、夏なのに黒いスーツを着た、前髪の長い青年が座り、こちらを見ていた。
その瞳は、明らかにこの世のものではない。
一体、自分はどこに足を踏み入れてしまったのだろうか。
「C組の葉山さんよね。あまりお話したことはないかしら」
いきなり美優に話しかけられ、ひまりは思わず肩をビクつかせ、背筋を正した。つられて膝をぴたりとくっつけ、両手をきゅっと重ねて乗せる。
「は、はい!」
「ふ~ん」
と美優は、ひまりを観察するように見る。
何かを感じ取っているかのように。
「とにかく、自己紹介した方がいいわよね。私のこと、よく知らないでしょ」
「い、いえ! とんでもない!」
ひまりは慌てた。
「海野さんは有名ですよ! 成績もいいし、憧れてる男子もいっぱいいるし、女子の間でもよく話題に上ってるし」
「敬語じゃなくていいわよ、葉山さん」
そういった褒め言葉にはまったく興味がないと言いたげだった。そんな美優の言葉に思わずひまりは「ご、ごめんなさい」と謝ってしまう。
それにしても、こうしてちゃんと目の前にすると噂通り、いやそれ以上に綺麗な少女だ。
少しアンニュイな雰囲気。不思議な透明感。なのに感じられる凛とした強い意志。
女のひまりでも見惚れてしまう……。
「お茶菓子を用意いたしましょうか、翔太さま。ちょうど北海道展で評判の良いバターサンドがございます」
「ありがとう。デル。お願いしていいかな」
翔太は、そのメイド服の少女のことを「デル」と呼んだ。
──ということは、この「デル」という少女が見えているのは、“わたし”だけじゃない。
(実在する子なんだ……)
それほど非現実的な力を目の当たりにしたのだ。
ひまりの心臓が高まり始める。
ひまりは、翔太を見るときだけ、髪を耳に掛けてしまう癖に自分で気づいた。
白い耳にサラサラと数本の髪が落ちていく。
居心地が悪い時や、緊張した時によく出る仕草。
(やめたいのに……出ちゃう)
例の長い前髪の青年もデルに話しかける。
「先ほど、何か微弱な魔の波動を感じたが……?」
「はい。成宮蒼さま」
成宮蒼……。人間の名前。
だけど、この人は本当に人間なのか?
デルと呼ばれた少女は表情一つ変えない。
お茶菓子をこなれた手つきでサーブしながら静かに答えた。
「あれは、ただの下等な使い魔ですね。特に、ここを狙って来たという感じではなさそうでしたが」
(使い魔……? 下等な? あれが……!?)
衝撃で、思わず訊かずにはいられなかった。
「あの、あの」
「なんでございましょう。えーと……」
デルちゃん、彼女は、葉山ひまりちゃん。アタシの超イケてる従姉妹」
瑚桃がフォローする。
「そうでございますか」
デルピュネーは優しい笑顔をひまりに向ける。
とても、あそこまで暴力的な力を宿した存在には思えない。
「では、ひまりさま。今のお話に何か不審な点でも?」
「えっと。デル……さん、あなたも、あの天使たちが見えたのですか?」
「天使?」
成宮蒼=ベレスの眉が動く。
「そ、そう! 天使です!」
ひまりは、思わず大きな声を上げる。
「私、あそこまで邪悪なもの見たのは生まれて初めてで……。平家谷の事件、知ってますか? 何十人もの人が、ドロドロに溶けた肉の塊になったという、あの事件です」
「アタシもその場にいたし。今、うちのパパが調べてるやつ」
瑚桃が割り込む。ひまりは続ける。
「そう、それ。あれをやったのが、その邪悪な天使たちだったんです! でもわたしにしか見えなくて……。それで、皆があんな目に……」
「ひまりちゃんがそれを見つけてくれたおかげで、アタシ、助かったんだよ。感謝してもしきれないよ」
「う、うん。で、でもそれで……。あの。その天使が。その天使たちがさっき、この家の前にもいたんです! それも仲間を呼んで、とんでもない数で!」
「君は、見たのかい? 本当に。その天使の姿を?」
蒼は訊く。代わりにデルピュネーが答える。
「はい。わたくしの感じでは、確かに、ひまりさまは、あの下等な下僕たちを認識されていました。どうやら、ひまりさまは特別な目をお持ちのようです。また、『リリン』とはまた違う何かの力……呼吸の深さと鼓動の間隔――『第三の理』特有のリズムが感じられます」
「呼吸と鼓動……」
ひまりは思う。そうだ。前にも一度だけ、こんなふうに世界が静かになった、“あの場所”へ、迷い込んだ──
デルは再び、ひまりの方へと向き直る。
「さっきのご質問のお答えですが。ええ。わたくしにも、しっかり見えておりましたよ。それにしても驚きです。あの手合いを、あの“下等”を、わたくしどもとはまったく違う力で把握されるとは」
「下等……。あれが、下等なんですか……?」
いまだ信じられない。
女の亡霊に見せられた夢。まさに、あの場は、“地獄”であった。天使たちから放たれる弓矢。成すすべなく見えない矢に貫かれる人間たち。そして、その体は壊死するようにボロボロと崩れて。
あんな阿鼻叫喚を作り出した天使たちが下等?
「はい。数は問題になりません。処理は“一度”で足ります」
デルは事務的に告げ、それからハッとした顔をし、「失礼いたしました」とカップの取っ手を来客側へ回した。
香りが、静かにその場を満たした。
(戦いの話をしながら、お茶の角度を気にしてる……。この子にとっては、本当に“掃除”みたいなことなんだ)
──めまいがする。
ここは夢の中じゃなく、本当の本当に現実の世界なのだ……
デルの言葉に美優が乗っかった。
「そっか。それにさっき、葉山さんは襲われそうになったということね」
そう言うと立ち上がり、敢えてひまりの横に腰を下ろした。
「かわいそうに。怖かったでしょう……よく、ひとりで耐えたね」
そしてひまりの肩を優しく抱き寄せる。
美優の指先が、ひまりの服の肩布の縁をそっと摘む。声は驚くほどやわらかい。摘まれたところからじわじわ熱が広がっていく気がして、ひまりは大きな黒目を泳がせながら、思わず息を飲んだ。
いい匂いがした。女子同士なのに、ひまりはドキドキしてしまっていた。
この胸の高鳴りは、この信じられない現実にされされたからだろうか。それとも、美優の急接近によるものなのだろうか。
次に目の前の黒尽くめのスーツの青年が言う。
「武器は弓矢。そしてその傷口が壊死する魔術か……」
目が、濡れた硝子みたいに鈍く光った。
ひまりはゾッとする。
何か、触れてはいけないもののような。
関わってはいけない存在のような。
(境界線――人と“それ以外”の……)
そんな軋む空気をこの成宮という青年から感じる。
そして、このデルと呼ばれたメイド服の少女。先ほど見た、人の能力を越えた跳躍力。
あの天使たちを、一撃で撃退した“力”。この子も、おそらくは、この世の者ではない。
なのに、瑚桃も、美優も、そして翔太も、なんでもない顔で普通に会話している。
混乱する。
自身が置かれた状況をいまだ認められないでいる。
デルと呼ばれた少女は今、キッチンで、お茶菓子を用意していた。
完全にこの家にとけ込み、その日常感も、人間と変わりない。
(わ、わたしの方がおかしいのかな……)
ひまりの中で「常識」という言葉が崩れ去る。
それを妨げるように、ひまりは、美優の腕の中から、おそるおそる瑚桃に尋ねてみた。
「あの、瑚桃ちゃん……?」
「な~に?」
「えと、なんて言うか……。もしかして、なんだけど、この人たち……」
思い悩む。言ってもいいことなのだろうか。それとも。
(でも確認しないと。もし瑚桃ちゃんが何も知らず、こんな人たちと仲良くしているとしたら)
──危ない。
そう思い、口を開きかけた時である。
「ああ、そうさ。僕たちは人間じゃない」
突如、割り込んでくる別の声。
その声の主を見て、ひまりは失神するかと思った。
――猫だ。浮いている。
しかも、話した!
「……ね、猫?」
着地しない足。浮いたままでぷらぷら。
「うん、僕。とりあえず猫」
その猫はまるで、人間のような笑顔を浮かべ、言った。
「まあ。もっとも、本来はヨーロッパなんかで伝えられてる魔物の一種なんだけどね」
──言った! ひまりははっきり耳にした。「魔物」と。「人間じゃない」と。
その猫は得意げな表情で、宙をふわふわと飛びながらひまりへと近づく。
(わ、わたし、笑っていたらいいの? それとも、今──、今すぐ逃げるべき……?)
思わず、ひまりは美優の服をぎゅっと強く掴む。
ひまりの胸の高鳴りに、シャパリュはウインクで拍を合わせる。
「やあ。改めまして。僕の名前はシャパリュ。まあ今のところはしゃべる猫ぐらいに思ってもらっていいよ。あと、さっきのメイド服の少女はデルピュネー。ギリシア神話に登場する半人半竜の化け物だね。オリュンポスの神々ですら恐れるぐらいの怪物だ」
──あ、あの少女が怪物?
ひまりの体が震える。ひまりの動揺が分かるのだろう。美優がそれをしっかりと抱きしめ受け止める。
そして優しくなだめるように声をかけた。
「そうよね。最初は私も驚いたわ」
ひまりは、美優の顔を見上げる。
「でも、これが現実なの。葉山さんが見てきた、この世じゃない世界……、それは私たちも知っている。葉山さんだけじゃない。ここはそんな人たちの集まり。だから怖がることないのよ。私が保証する」
「そうですよ~! だから、言ったでしょ。アタシもひまりちゃんの言うこと信じるって」
瑚桃が得意げに言った。
そうだったのかと、ひまりは腑に落ちた。
(瑚桃ちゃんは、これを、私に見せたかったんだ……)
瑚桃は言葉を紡ぎ続ける。
「今の水城市は、普通じゃないんだよ。公式発表は出せないけど、警察も“外側”の被害統計で異常を掴んでる」
「警察も……?」
「そう、警察も」
ひまりは知らない。一般市民はこんなこと、知らない。
確かに濃霧現象に、『ゴースト』。ここ最近頻発している猟奇的事件の数々。
水城市が普通の町ではないことは知っている。けれど、警察という公的機関ですら、この世の常識を超えたこの現実を把握している。
混乱するひまりを安心させるような声で、成宮蒼が言う。
「君がこれまで見てきたもの。それが本来の水城市の姿そのものなんだ。そして、君の持っているその“目”は、あまりにも君にとって危険な力。だが同時に、今回起こっている状況の謎を解く鍵になるかもしれない。だから僕も君の前に姿を見せた。どうか、怖がらないでほしい。僕たちは決して君に危害を加えるものではない。むしろ助けてほしいぐらいだよ」
不安と恐怖と温かな言葉とのギャップ。
自分でもどんな意味か理解できない涙があふれる。
「そのために、君の“目”が見たものについて、詳しく教えてほしい。それは君の身を守る為でもあり、同時にこの街を守るためでもある。そして、僕は今回、ある一つの仮説を立てている。その答え合わせもしたい。僕が君に会おうと思った。それが、その理由だ」
「仮説……ですか……?」
「そう」
優しい表情。でも本当に信じていいのだろうか。
「今回、この街を襲う災厄は一つではない。君が見たような天使像の姿をした使い魔がその一つに関わっているのは確か。あれは雑魚だが、それを従える邪悪で恐ろしいものが、今、この地で活動を始めている。第三に、君の”力”だ。君も何かを感じているんじゃないか? 知っていることや、なにか思い当たることがあったら教えてほしい」
分からない。ひまりには分からない。私が何を知っているというのか。私が何だというのか。
「──つまりだ」
蒼はひまりの目をじっと見続けている。
一瞬、世界の音が落ちる。
ひまりの中に。
古い「和歌」の欠片が。
──瀬せをはやみ 岩いはにせかるる 滝川たきがはの われても末すゑに あはむとぞ思おもふ
そして蒼は続ける。
「今、僕らを狙う敵は少なくとも二つ以上。……それとは別に、この国そのものが抱えた、土着の怨霊の胎動が、僕には聞こえている──」
その言葉の重さに、緊張で細くなっていたひまりの目が、思わず、ゆっくりと、大きく見開かれた。
「瀬をはやみ 岩にせかるる 滝川の われても末に 逢はむとぞ思ふ」(作:崇徳院……『百人一首』より)




