第73話 天使の悲鳴
第73話
自分が異形の者や、霊を見る体質だと、はっきり自覚した年のことは、もう思い出せない。
ひまりが「何かを見た」と口にすると、周囲は決まって気味悪がったり、怖がったりする。
それがつらくて、小学生のころにはもう、何も話さないと決めていた。
そのたびに、大きな黒目を伏せて、前髪の先を指でもてあそぶ自分の仕草が、ひまりは少しだけ嫌いだった。
幼少期は、父も母も子どもの戯言だと笑ってくれていた。
だが、いつの頃からか。
「悪戯だ」「気を引きたいだけだ」と、そう決めつけられるようになった。
(そっか)
と、ひまりは思った。
(お父さんにもお母さんにも、誰にも)
──“あれ”は、見えないんだ。
それからのひまりは、異形の者についても、霊についても、見えないふりをしてやり過ごすようになった。
だが、“それ”らは、所構わず、現れてくる。
目が合うと、ついて来たりもする。
それは、子どもの姿をしていることもあった。
また、見るからに化け物のような巨大なぶよぶよが、バスで乗り降りしている人たちをじっと見つめていることもあった。
小さな毛玉のようなものが、ふわふわと宙を浮きながら、人の頭の上を飛び跳ねていることもあった。
学校で、クラスメイトの足首を掴み、ただただ、廊下を引きずられていくだけの、奇妙な化け物の姿を見たこともあった。
“それ”らの行動、言動はさまざまで、ひまりには意味がわからない。
”それ”は、時折、神聖なはずの神社……我が家にも現れる。
冷蔵庫を開けると、余った食材のパックや牛乳パックなどにまぎれて、まるでスイカのように女の人の“顔”が横になって入っているのを見たこともあった。
それがこちらを見て、ひまりと一瞬、目が合った。
ひまりは精一杯の平常心を保った。
手を伸ばして、トマトジュースを探す。
気づかないふりをする。
その間も、女の生首は、ずっとひまりを見つめてくる。
ひまりは、指先が震えそうになるのを必死でこらえて、トマトジュースだけを取り、冷蔵庫をそっと閉じた。
巫女服の袖の中で、細い手首の脈がどくどくと跳ねているのを、自分だけが知っている。
──ほかにも怖い想いは何度もした。
例えば、中学生時代。
海岸線を自転車で走って下校している時。
夕方の潮風が、セーラー服のスカーフと、肩までの黒髪をいっしょに揺らしていく。
その帰り道の橋の上で、お腹の部分が血で真っ赤になっている白いワンピースの女性を見かけた。
引き返そうかと思った。
だが、引き返したら。
(わたしが、見えてることが、バレちゃう……)
素知らぬ振りをして、自転車で通り過ぎようとした。
その女の霊は、お腹に大きな穴が空いているように見えた。
(平常心、平常心)
ひまりは、その横を通り過ぎようとする。
その時、声が聞こえた。
(私の、赤ちゃん、知らない……?)
話しかけられたのだ!
当然、ひまりは聞こえていないふりをする。平然とした顔で、いつものペースでペダルを漕ぐ。
普通に通り過ぎたつもりだった。後にして、遠ざかっているはずだった。
だが。
耳元で、急に、こう、囁かれた。
(ねえ、見えてるんでしょ?)
思わず動揺する。目を見開くという反応してしまった。
だが、ひまりは諦めなかった。
聞こえてない、見えてない。そこには“何もいない”!
しかし、声はついてくる。どこまでもついてくる。
(お願い、私の赤ちゃんを探して)
(お腹の中から、いなくなっちゃったの)
ひまりはただただ目の前の景色に集中する。
ペダルを漕ぐ足に集中する。
運転に集中する。
そのうち。
いつの間にか、声が聞こえなくなった。
ひまりは、そっと後ろを振り返る。
そのお腹を血で真っ赤にした女性。彼女は立ち止まり、こちらに向かって走ってくる車を見つめていた。
次の瞬間。
その女性は、その車の中に。
(あっ……)
するりと入って行った。
女の霊を乗せた車はそのまま、ひまりを追い越して、走り去っていく。テールランプは徐々に遠ざかっていった……
◆ ◆ ◆
そんな話、誰に話しても信じてもらえない。
だが、そんなひまりのことを、従姉妹の瑚桃は「信じる」と言ってくれた。
『その理由を教えてあげるよ』
と、瑚桃は元気なLINESを返してきた。さらには、次の休日、ある場所へ連れ行ってくれると言う。
『その場所って、どこ?』
『ひまりちゃんのことを信じてくれる人たちがいる場所』
『それって、まさか霊媒師か何か? わたしの家、神社なんだけど……』
『違います』
瑚桃は「おこ」の顔文字を一緒に送ってきた。
『でも、きっとびっくりすると思う』
『どういうこと……?』
『いやあ、まあまあ』
瑚桃は答えを濁す。
『この瑚桃ちゃんはね。ひまりちゃんが一人ぼっちじゃないってことを、教えてあげようとしているのだよ、えっへん』
瑚桃ちゃんは、一体、何を企んでいるのだろう。
ひまりは、正直、少しだけ不安だった。
それでもひまりは、待ち合わせ場所の公民館へと向かった。
約束は、約束だ。
それに瑚桃ちゃんのこと。きっとわたしを傷つけるようなことはしない。
「ひまりちゃーん! ここ、ここ!」
瑚桃はアイスキャンディーを食べながらそこで待っていた。
「ひまりちゃんの分も買っておいたよ、あげる!」
棒を両手で受け取ると、ひまりは一口目をかじる勇気が出ず、舌の先でそっと溶かしながら、きょろきょろと周りを見回した。
◆ ◆ ◆
ひまりは、自転車を押しながら歩く。横ではルンルンと楽しそうな瑚桃。
ほそい指でハンドルを握りしめるたび、腕の内側の白さが陽に透けて、瑚桃のはしゃぎ声とはちぐはぐな緊張だけが浮かび上がる。
「こっちって学校の方だよね。星見山」
「そうだよー」
ひまりは残ったアイスの木の棒をなめながら話す。
「実はですねー。あるお家へご招待しようと思いましてね」
「あるお家?」
「そう」
瑚桃はドン! と自分の胸を叩いた。
「まあ、ここは、瑚桃ちゃんに任せておきたまえ!」
どこに連れて行かれるのだろう。
ひまりの心を嫌な予感が走った。
そもそも、いきなり知らない人の家に招待されても困る。ひまりは人見知りだし、そんな心の準備も出来てない。それに……
前回の『濃霧警報』の後、ひまりが“化け物”を見る機会は格段に上がっていた。何が起こったのかは分からないが、とにかく一日に数体。多い時には、何十体もの、“化け物”を見るようになってしまっているのだ。
急に増えた。確実に、何かが、起こっている。
例の平家谷の事件も、その一つだ。
怪奇現象、心霊現象。そして、平家谷の時のような凄惨な事件。また、いつ、あんな怖いことに出くわすか分からない。おちおち外出もしていられない。
化け物を“見慣れている”と言っても、怖いものは怖い。嫌なものは嫌だ。
平家谷事件のように、命に関わる場合だってある。
本当だったら、学校への通学もしたくないぐらいなのに……。しかも、ちょうど瑚桃と歩いている道は、その通学路。この先、星見山を上っていった先に、星城学園は、ある。
一体、どこへ向かおうと言うのだろう。
まさか学校まで登っていくのではないだろうか。
その星見山のちょうど坂道が始まったあたりで、瑚桃は足を止めた。
「じゃーん! ここでーす!」
瑚桃が両手で紹介した先にあったのは。
坂の上、白壁と十字架が陽にきらめく。
——教会だった。
ドクン! とひまりの心臓が胸を打った。
そう。
ここは、同級生の、北藤翔太の家だ!
(えっ!? 北藤くんの!?)
瑚桃は焦る。
まさか、北藤くんの家なんて。よりにもよって……!?
「ちょっと待って、瑚桃ちゃん!」
「ん? どうしたの?」
「まさか、連れて行きたい場所って、北藤くんの家?」
「そうだよ。なんで?」
「なんでって……」
ひまりは口ごもる。
みるみる頬が赤くなっていくのが自分でも分かって、前髪の影に隠れるようにうつむいた。
「では、さあ、参りましょう!」
「やめよ! 瑚桃ちゃん!」
ひまりは、瑚桃の腕を取って止めた。
「え、どうして?」
「だって、北藤くん、きっとわたしのこと……」
ひまりがそう言ったところで。
「瑚桃お姉ちゃ~ん!!!」
背後から、元気な女の子の声がした。
見ると、そこには小さな幼女と、メイド服を着た銀髪の外国人の少女。
(えっ!? メイド服って……)
「あっ、芽瑠ちゃん、デルちゃん!」
瑚桃がそれに答えて大きく手を振る。
(えっ、えっ、え~っ!)
ひまりは混乱する。
(知り合いなの? なんなの? わたし、どうなるの?)
だが焦るのも束の間。その焦りは、恐怖へと姿を変わる──
バサバサバサバサ……!
聞き覚えのある羽音。すごく嫌な羽音。不快な音階を伴った羽音。
まさか、と、ひまりは、そっちの方を見る。
いや、見て“しまった”。
電柱の上にいたのは。
真っ白な小さな体。小さな羽根。手にした弓矢。
(……!)
あの平家谷で見た“天使像”。多くの人の命を奪ったあの、魔性の天使像が、電柱の上で羽根を休めていたのだ。
不幸なことに、ひまりがそっちを見ると同時に天使像もひまりを見る。
油断をして目が合う。
直後。
天使像がニヤリと笑う。
(や、やだ……!)
ひまりの恐怖をよそに、瑚桃と幼女、メイド服の少女は談笑をしている。
「芽瑠ちゃん。デルちゃんと、お買い物行ってたんだ」
「そうだよ、芽瑠、えらいの! お財布から小銭も出したの!」
「えらいねー、いい子いい子」
「申し訳ありません、瑚桃さま。ちょっと芽瑠さまもいらっしゃったこともあり、帰るのが遅くなり、まだおもてなしの準備が整っていません」
「いいの、いいの! アタシ、ちゃんと待つから。ね、ひまりちゃんも時間、大丈夫よね」
「ダメーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーっ!」
ひまりは叫んだ。
瑚桃はきょとんとしている。
「どうしたの? ひまりちゃん」
「早く、早く、ここから逃げなきゃ!」
「逃げるって……。だって、もうセンパイの家着いたんだよ」
「だから、ここにいちゃ、まずい……!」
「センパイの家入っちゃえばいいじゃん」
「いや。そうなんだけど。でも、ダメなの!」
「どうして?」
「あの天使!」
「えっ?」
「平家谷で見た、あの天使!」
「いるの?」
「いる!!!」
「えっ、どこ?」
「どこって……」
だが、時、すでに遅し。
バサ——バサ——。
電柱と電線の向こうで羽音が増える。空が、白で、埋まっていく。あの最初の天使像が、他の天使像を呼んだのであろう。弓矢を持った、その小さく、白い体が、大量に。ひまりたちの上空を獲物を狙うハゲタカのように、円を描きながら飛んでいた。
(間に合わなかった……)
ひまりはガックリと肩を落とす。
そして、一斉に、弓矢を引こうとしたのを見て、ひまりは“死”を意識した。
絶望的状況。平家谷の悲劇の再来。肉塊にされていく人間たちの姿。
それが、わたしにも……
でも、でも。
それでもひまりは、こう叫ばずにはいられなかった。
「みんな逃げてーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー!」
「なるほど、ですね……」
その時、妙に落ち着いた声がした。
メイド服の少女だった。
そして。
「瑚桃さま、芽瑠さま、そしてお客さま、少々、お待ち下さい」
そう言うと。
買い物袋を地面に置く。
衣擦れの音だけが残る。
——次の瞬間、デルは大地を蹴った。
それは、あまりにも人間離れした跳躍だった。数メートルは上空にその身を舞わせていた。銀髪が風になびく。メイド服のミニスカートがひらひらと揺れる。
(え……?)
その手には、いつの間にか、槍が。
いつ、槍なんて、出してきたのだろう。
どこから!?
(わたしは、また、この世の者ではない者を、見てるの!?)
ひまりは混乱する。
(あのメイド服の少女は、幻影!?)
そのメイド服の少女が何者なのか、ひまりが見極める前に。
少女は槍を半身に構え、ほんの少し笑って、こう、言い放った。
「ブチかまし、まくりメキます!」
ゴオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオオ!
まるで爆発音のような風の音。メイド服の少女がその槍を振るったのだ。
そう。
一閃。
たったその一振りだけだった。
衝撃が空気を歪ませ、白い像が音もなく裂ける。緑の滴が舞う。それがアイツらの血なのだろうか。手足がバラバラになって消えていく。悲鳴すら、風に溶けてしまう。
そして。
消える──
(うそ……?)
ひまりは、目の前で起こっていることが信じられない。
全滅?
一振りで?
あれらが?
(どうして? 今の何? 何がどうなってんの?)
膝が力をなくして、タイツ越しの足が小さく震える。自分の心臓の音だけが、胸のすぐ下でやけに大きく響いていた。
その場に立ち尽くしてしまっているひまりの前に、そのメイド服の少女はスタッと着地した。
そして優しく声をかけてくれる。
「さ。お入りくださいませ。お客さま。翔太さまがお待ちでございます」
呆然とするひまり。
メイド服の少女は、何事もなかったかのように、涼しい顔で買い物袋を持ち、玄関のドアを開けた。
「よく分かんないけど、デルちゃん、ありがとう!」
瑚桃は瑚桃で、そんなひまりの手をとって、翔太の家へと引っ張っていく。何も理解できないまま、ひまりは、玄関へ引っ張り込まれた。
(わたし、今、何を見たの——教会の前で、天使じゃない“天使”が墜ちて……。わたし、一体“どこへ”踏み込もうとしているの……?)
「ひまりが登下校で見る風景」
【撮影】愛媛県八幡浜市・渡海橋からの景色。海岸沿いに多くの漁船が停泊しており、湾になっているせいかいつも凪いでいる。




