第72話 死者からの手紙
第72話
葉山ひまりは、夢を見ていた。──誰かの人生をなぞる、他人の夢だ。
自分のものではない鼓動や息づかいが、胸の奥だけをそっと撫でていく。
それは、結婚を目前に控えた、若い女性の夢だった。
指先には、まだ指輪の重みはないのに、心だけが先に未来へ駆けている。
ひまりは“語り手”ではなく、“覗き手”の席に座る。視界は少し高く、遠くの会話まで、はっきりと耳に飛び込んでくる。
その夢の中で、彼とあちこちへデートに出かけるその女性は、とても幸せそうに見えた。
笑うたび、胸の奥から、きれいな泡が弾けるような幸福感が伝わってくる。
初めてのデートは水族館。
薄暗い館内。
水槽からうっすらと漏れる青い光。
円盤型のミズクラゲが無数に漂う大きな水槽の前で、彼女は「すごく幻想的」とうっとりしている。
その水族館には、他にもさまざまなクラゲが展示されていた。
「あっ! このクラゲかわいい! 傘の部分に白い水玉模様がある!」
はしゃぐ彼女に、彼が説明する。
「これはタコクラゲだよ。ちょっとタコに似た外見だろ」
「ほんとだ」
「触手に見えるのは口腕。ほら、よく見て。その口腕の数も八本。それが、このクラゲが『タコクラゲ』って呼ばれる理由なんだ」
「へえ」
タコクラゲから視線を外し、彼のほうをちらりと見る。
水槽の青い光に照らされた横顔は、うっすらと笑っただけなのに、いつもより凛々しくて知的に見えた。
次の水槽には、まるで飛行船のような、楕円形のクラゲ。
「これはシンカイウリクラゲだね。クラゲって言ってるけど、厳密にはクラゲ類ではない」
「確かに。他のクラゲと違って、足がない」
「足……あ、触手のことか。そう、このクラゲには触手がない。日本でも北海道とか、北の深海に棲んでいるとされている」
「深海なんだ……神秘的だね」
「神秘的なのはそれだけじゃないよ。少し待ってみようか。面白いものが見られるかもしれない」
「面白いもの……?」
待つこと数十秒。それは、彼女にもすぐに分かった。
「あ、光った!」
先端から何本もの筋状にキラキラと光を発するシンカイウリクラゲ。
「その通り。シンカイウリクラゲは、櫛板と呼ばれる繊毛を持っていて、それを波打たせて泳ぐんだ。そして、そこに光が反射する」
「反射?」
「うん。クラゲ自体が光ってるんじゃない。なのに、こんなに美しいんだよ。ここから人間も学ぶことがあるかもしれない。人って自分に才能がないとか、取り柄がないとか悩むこと、多いだろ」
「うん」
「でもね、自分自身が“光る”必要なんて、本当はないんだ」
彼の目が優しく笑っている。
水槽の反射が彼の右目だけを濃く照らした。
「モデルだって、芸能人だって、確かに光っているように見える。でもね、確かにとんでもない才能で光ることもあるけど、そのほとんどは、事務所やスタッフ……周囲が光を当ててくれているから、ファンが応援を送っているから、光っているように見えるんだよ」
彼女は、彼の言葉に聞き入る。
「要は、どんな小さな光でもいい。反射してやればいいんだ。光じゃなくたっていい。親からの愛情でも、友達との友情でも。そして、誰か、君を大切にしてくれる人からの“愛”でも。当てられた光を、まっすぐ返せばいい」
そう言って彼は彼女の目を見る。
彼女もその目を見つめ返す。
◆ ◆ ◆
ひまりにとって、そうした大人の男性の口説き文句は新鮮であり、同時に、どこか気恥ずかしくもあった。
もし自分が言われたら――
きっとわたしは、まともに顔も上げられず、その場から逃げ出してしまうに違いない。
でも、本当に、本当に。
大好きな男の子から言われたら……
恋。
自分も、恋をする日が来るのだろうか。
人の目を見るのも怖い自分。
心を開くことをいつもいつも、恐れている自分。
そんな自分にも。
すべてを投げだしてもいいような、恋をする日が、本当に訪れるのかもしれない。
しかし、その瞬間。
ひまりの胸のときめきは、ぞくりとした戦慄に取って代わられた。
甘い水族館の匂いが、急に息の詰まるような生臭さにすり替わる。
血。
大量の血。
真っ赤な血が、ひまりに向かって飛び散ってきたのだ。
(や……!)
青い光がぱたりと消える。
次の瞬間、ロックグラスが床を叩く音がして、夢は水族館からアパートの一室へと落ちた。
◆ ◆ ◆
「ブス! このブス! ふざけんな! 何、口答えしてんだよ! お前、自分を何さまだと思ってんだ、ふざけんな!」
水族館での面影は微塵もない。
あの優しそうだった彼が。
彼女に馬乗りになって、その顔面を殴打している!
拳が振り下ろされるたび、水槽の気泡みたいに、赤い飛沫が弾ける。
「ごめんなさい! ごめんなさい!」
だが、彼はその殴る手をやめない。
「俺がどんな想いをして金を稼いできてると思うんだよ! 上司にへつらい、嫌な取引先に頭をペコペコ下げて。そこまでして稼いできた金を全部吐き出すことになるんだぞ! それなのに、何が披露宴だ! 何がウエディングドレスだ! ふざけんな!」
彼は酔っている。
ガラスのテーブルの上に、ウイスキーと、ロックグラスが転がっていた。
(やめて! やめて!)
だが、どうしても。
どんなに触ろうとしても。
ひまりの手は、彼の体を素通りしてしまう。
「ごめんなさい! もう言いません! 結婚式なんかしたいなんて、私の思い上がりでした! すみません! もう言わないから」
「うるせえ! 俺の金ばっか当てにしやがって!」
「ごめんなさい! そうじゃないの。私だって貯金あるし」
「だから、口答えすんなって言ってんだよ!」
ドカッ! と鼻っ柱に彼の拳がめり込んだ。
パキッとなにかが割れる音がする。
「……!」
彼の手が止まった。
鼻が折れたのだ。
「いや! いや! 許して! もう許して!」
彼女は自分の顔を守るようにして体を丸め、暴れる。
そんな彼女を彼は、必死で取り押さえようとし始めた。
「やだ! やだ! もう殴らないで! 分かったから! ……お願いだから、もう殴らないで!!」
「待て! いいから暴れるな! それより、お前、鼻……」
◆ ◆ ◆
夢の舞台は、病院の前に移る。
病院から出てくる彼女。
彼はそれを、外で待っていた。
彼女の鼻は痛々しいほどに大きく腫れ上がっており、そこにガーゼが貼られてある。
彼は、みっともないぐらい肩を落として、彼女を迎え入れた。
「どうだった? 大丈夫そうだった?」
彼女は、そんな顔でも、ニコリと笑って言った。
「折れてたって」
「マジか……」
彼は下を見る。とても彼女の顔を直視できない。
「あ、でも、大丈夫。気にしないで」
そんな彼の肩に彼女は優しく手を置いた。
「先生には“階段で転んだ”って言ったの。本当を話して下さいって食い下がられたけど――ねえ、“本当”って誰のもの? 私たちのことを、この人が決められるの? 今日は見ない。それでいい。だから、“転んだ”で通したの。もう平気だよ」
笑うとガーゼがわずかにずれて、紫色の腫れがのぞく。その痛みごと、彼を庇うように。
彼は顔を上げられない。“見られたくない”罪ほど、視線は地面を探す。
その目からは涙がこぼれていた。
この涙が安堵の涙だったのか、後悔の、懺悔の涙だったのか。結局、ひまりには分からない。
どうして”本当”という言葉に対して、彼女があそこまで哲学的になってしまったのかも……
むしろ、恐怖する。
この人の語る“本当”って……?
どうして、この男の人は、愛しているはずの人に、あんな酷いことしたんだろう。
なぜ、この女の人は、こんな痛い想いまでして、この人を守ろうとするの。
それが“本当”の愛の姿だと、彼女は、そう言いたいの……?
恋愛を経験したことがないひまりには分からない。
まだ十五歳の少女には、そんな歪な“愛”や“本当”の形が分からない。
胸の中で、さっき水槽に浮かんでいたクラゲたちが、ばらばらに散っていくような気がした。
◆ ◆ ◆
次に、ひまりが見た光景は、あの、凄惨な「人体バラバラ肉塊事件」が起こった平家谷だった。
目まぐるしく入れ替わる舞台に、ひまりは混乱し始める。
だが、夢は、待ってくれない。
その女性は友人と、平家谷へ遊びに来ていた。
折れた鼻もすっかり治っており、友達の女性とニコニコと笑いながら、そうめん流しのそうめんを、すくっている。
「やっと明日、籍を入れるの!」
彼女は満面の笑顔で友達にそれを告げている。
その知らせを聞いて涙を流しながら喜んでいる友人。
夢の中で、本当の“彼”の姿を見たひまりは、複雑な気持ちになっていた。
なぜ、結婚。あんな男と一生一緒。それが結論?
友達も友達だ。
気づかないのか。彼女の夫となる、あの彼が。その本性が、あんな酒癖が悪くて、DV男で。病院の中に彼女を連れて行ってあげることもできない小心者で。外で待ってるしかなくて。ただただ、彼女の優しい“嘘”に守られて。
(わたしなら、言う)
ひまりは、思う。
(わたしなら、止める)
でも……
すごく幸せそうな彼女の顔。
満面の笑みで。
未来を語り、希望に満ちた話で涙目になって。
――好きって、何なの?
――“愛”って、何なの?
ひまりは、まだ知らない言葉を辞書もなく探している子どものように、胸の中で問い続けた。
分からない。
ひまりの、小さな、そして薄い、その胸の奥は、疑問でいっぱいになっていた。
(わたしには──、分からない──)
彼女と友人たちが楽しそうにそうめんをすする。
渓谷からは子どもたちの嬌声。
幸せそうな家族連れ。
今こそ夏だと主張するセミの鳴き声。
渓谷のせせらぎ。
谷間に吹く涼しい風。
日常の、幸せに満ちた、その景色。
だけど。
あの女の人の胸の中には。
とても。
とても。
暗い影や想いが、潜んでいるはずだ……
もし、わたしだったら。
(ちゃんと、友達が幸せになれるかどうか、見抜けるのかな……)
ひまりは自問自答する。
(幸せそうにお話しているのに、そこに冷水を浴びせるようなこと、言えるのかな……)
そうだ、自分だって。
自分だって、自分が見たこと、感じたこと、考えていること、それをスパッと言うことなんてしてないじゃないか。蓋をして、見てみないふりをして、そして何事もなかったかのように通り過ぎる。
わたしも同類かも知れない、とひまりは思う。怪異だけではない。これまでも多くのことを、ひまりは見てみぬふりをしてきた。
それは、あの北藤翔太くんの時のことだって──
おそらく、人は、さまざまな想いや過去を抱えて生きている。
わたしの周りの人も。そして、わたしも。
“本当”。
その定義を決められるのは、当人だけなのかもしれない。他の誰かが、口を出すようなことではないのかもしれない。
でも。
(それで、いいの……?)
すごく美味しそうにそうめんをすする彼女と友人。
その過去の記憶を“見るだけ”のわたし。
──同罪じゃないか。
見て見ぬふり。知っているのに知らないふり。
それは、人を傷つける側と、どこかで同じ罪を分け合っているのかもしれない。
もし、あの時。北藤くんの事件を、わたしが見て見ぬふりをしていなかったら──
複雑な想いで視線をそらそうとした、その時だった。
バサバサバサバサバサバサバサバサバサ──!
突如、羽音がひまりの鼓膜を襲った。
同時に。
たくさんの。ものすごい数の。あの“天使”たちが。ひまりが林の中で見た“天使像”たちが。弓矢を構えて、ひまりを後ろから追い越していった。
(あれって……!)
驚くひまりを、一体の天使像が振り返った。
そして、その彫刻の、瞳のない真っ白な目でひまりを見て。ニヤリと笑った。
思わず、ひまりは叫んだ。
そこが、目の前の彼女の単なる“記憶”の中であるにもかかわらず。
記憶の観客席にいるはずの自分が、いつのまにか舞台の上に立たされている。
──わたしが、どうして、見えるの……!?
次々と放たれる矢。
矢の雨が、人々の上から降り注ぎ、そこにいる全員が串刺しになっていく。
そして。
あの、彼女の右目を。
結婚への希望に満ちた彼女の右目を。
その“天使の矢”が貫いた──
彼女の見る世界の光が、片側から消える。
みるみる崩れていく人間たち。
矢が刺さったその場所から。
壊死するように。
まるで火にあぶられた蝋人形のように。
人の体が溶けていく。
ちぎれていく。
バラバラになっていく!
(キャアアアアア!)
その光景に、ひまりは悲鳴を止められない。
目をつぶって、その地獄絵図から逃れようとする。
多くの人の悲鳴が上がる。
ひまりは目を開けられない。
今、わたしの目の前で。
まぶたの向こうで。
──たくさんの人が、死んでる……!
◆ ◆ ◆
地獄のような時間が過ぎ去り。
周囲はいきなり静かになった。
何も聞こえない。
何の気配も感じられない。
ひまりは、おそるおそる、目を開けた。
そこは一面の闇。
空も大地も。
なにもない。
一面の闇。
音も重力も感じないそこに。
足場のない心の空間に、赤い塊だけがぽつりと浮かんでいる。
それは、ぶよぶよの肉塊だった。
肉塊には目玉が一つ、埋まっている。
それが、人間の顔の右半分と分かるまでに、ひまりは数分を要した。
その目玉と見つめ合う。
やがて、その目玉が、ひまりの心の中に話しかける。
(言わないで……)
「えっ?」
思わずひまりは問う。
(お願い、言わないで)
目玉は訴えかけ続ける。
(私が、こんな姿になっちゃったことを。私が、こんなふうに、醜く壊れちゃったことを)
そして、こう叫んだ。
(彼には、絶対に、絶対に、彼には言わないで──!)
その声には、理不尽に殺された怒りより、ただただ恥じるような震えが混じっていた。
◆ ◆ ◆
そこで目が覚めた。
まぶたを開く。
そこには、父と母。
そして、従姉妹の秋瀬瑚桃の姿……
「ひまりちゃん!?」
目を開けたひまりに、瑚桃は顔を近づける。
「起きた? 本当に起きた?」
瑚桃の目は涙目になっている。
ひまりは、状況がよく分からないまま、コクリと頷いた。
「うわあああああああああああああん! ひまりちゃああああああああああああああん!」
そんなひまりに、瑚桃は泣きながら覆いかぶさってくる。
瑚桃の泣き声を聞きながら、ひまりは夢を反芻する。
ぼんやりと霞がかかった頭で、ひまりはゆっくりと考え始めた。
そう。
あれは、単なる、夢じゃない。
ひまりは、瑚桃と通話している最中に、自分の顔を覗き込んできた女の霊の顔を思い出した。
その女の霊の顔は。
夢の中で見た、あの“彼女”のものだった。
右半分しか見えなかったが、間違いない。見間違えるわけがない。
それほどまでに。
ひまりは、その“彼女”に同情をしていた。
(見ないで)ではなく(言わないで)……
──彼女の願いは、口ではなく目で届いた。
おそらく、あの平家谷で起こった「人体バラバラ肉塊事件」の被害者のひとりの霊が――あの“彼女”が。自分に。わたしに。その想いを、苦しみを、悔しさを。“手紙”のように、一つひとつ言葉を選ぶみたいにして、
やっと届く相手を見つけたかのように、胸の内側へ押しつけてきたのだ──と。




