第71話 「絶対、信じる」
第71話
『びっくりしたよ~、ひまりちゃん!』
夜の気配がようやく落ち着きはじめた頃。
ひまりは瑚桃とLINES通話でつながっていた。
スマホ越しの明るい声が、静まり返った部屋の空気をふわりと揺らす。
『うちのパパ、まだ帰ってきてないの。現場に張りついたまんまみたいでさ。なんかね、とんでもない騒ぎらしくて……。焦り散らしながら「今夜は絶対に外へ出るな!」って怒鳴るから、逆に笑っちゃって』
ひまりは目を瞬かせた。
笑い混じりの声とは裏腹に、胸の奥がひゅっと冷たくなる。
あのとき想像していたより、ずっと大きなことが起きてしまったのだと気づかされる。
報道規制が敷かれているのか、テレビはこの事件について何も言ってくれない。
無意識に甘皮へ伸びかけた親指を、慌てて膝の上へ戻す。
また、この癖。
──自分が戸惑っているときの、分かりやすい“しるし”。
ひまりは、聞く勇気をかき集める。
瑚桃のお父さんは、警察署長。
“現場の空気”を知る人の言葉は、きっと重い。
自分が目をそらしたせいで、あの場所でどれだけの被害が出たのか──それが怖かった。
喉が細くなるのを感じながら、ひまりはそっと尋ねた。
「それで、あの……。どれくらいの人が……犠牲に……?」
『んー。具体的な数字は聞いてないかな。でもまあ、あそこにいた人たちの全員? 男も女も老人も子どもも。見境いなかったらしいよ』
「そんな……」
──全員……?
鼓動がさらに激しくなる。
『いやでも、ひまりちゃんがいてくれて、本当に助かったよ~。アタシたちの青春はまだ始まったばかり。その矢先に、あんな殺され方されちゃったら、可愛さが足りないもんね』
「か、可愛さ……?」
『そう! なんかシェイクスピアの舞台みたいな? あーゆー文芸的な死に方は絵になるかもしれないけど、なんせ、“肉の塊”でしょ』
ひまりには分かる。瑚桃がこんな話し方をしているのは、わざとだ。
ふざけた調子の奥で、自分のことを気づかってくれているのが、痛いほど伝わってくる。
おそらく、瑚桃には見抜かれている。
──わたしの後悔を。
それでも、口にせずにはいられなかった。
「さすがに、それは……不謹慎だよ、瑚桃ちゃん」
ひまりがそう返すと、電話の向こうで、瑚桃も少しだけ息を抜いた気配がした。
『と、とにかく! ひまりちゃんのおかげで、アタシは今、ここで軽口を叩いていられるわけだ。本当に感謝してるんだよ、ひまりちゃん』
ひまりは、長いまつ毛の影を伏せて、一度だけ、ゆっくりと深呼吸した。
胸のあたりが、ふわりと強く波打つ。
瑚桃は優しい。わざとこうやって、軽口でひまりを慰めてくれる。
その優しさが、胸に痛いほど染みてくる。
――でも。
どれだけ笑って励ましてもらっても、胸の奥のざわめきは消えない。
(わたしが……もっと早く気づいて、あの場にいた人たちを、全員避難させられていたら……)
言葉にならない後悔が、静かに喉の奥を締めつける。
──そうだ。
そうなんだ。
ひまりは、思い切って踏み出そうとする。
「もし、わたしが――」
『ストップ。それ、無し!』
明るい声が、ひまりの言葉をふわりと遮った。
『ひまりちゃんが引き上げてくれたから、アタシは今ぴんぴんしてます。青春、続行。以上!』
「でも――」
『“でも”は禁止。ね、ひまりちゃん』
そこで、一拍。
瑚桃の声色が、少しだけ柔らかく沈んだ。
『一人で抱えなくていいよ、ひまりちゃん。ひまりちゃんは、あそこで何を“見て”……何を“見ないふり”したの?』
ひまりは、頬にかかった黒髪の先を耳にかけた。
白い耳が、じんじんするほど熱い。
胸の奥――細くて頼りない心臓が、ひときわ強く脈打つ。
「な、何を……?」
電話口の向こうで、冷蔵庫のモーター音がふっと途切れ、
ひまりの部屋の中まで、いきなり静まり返ったような気がした──
◆ ◆ ◆
平家谷の川のせせらぎ。自然公園の緑、木々、鳥、蝉などの虫たち。
いつもなら、それだけのはずだった。そのはずなのに。
最初に“いた”のは、枝の分かれ目だった。
白磁みたいな子どもの像。粉をふいた石膏の肌。口角だけが刻まれた、目のない笑顔。
羽の生えた小さな天使像は弓矢を手にしており、いわゆるキューピッドのような姿をしていた。
その天使像が、木の枝から、ひまりと瑚桃を見下ろしていた。
最初は、公園の飾りの一つだと思った。
だが。
ひまりの耳に、次に届いてきたのは――
乾いた、バサバサという羽ばたきの音だった。
枝にいた天使像の隣に、別の天使像が降り立つ。
粉塵が光を散らし、そのきらめきが、木漏れ日の中で不吉な反射をしていた。
動いてる──
(それに……あれは決して、この世のものじゃ……!)
ひまりは、そこで確信してしまった。
枝の上の天使たちは、何やらコソコソと話をしている。
まるで生き物のように、当たり前のように、生きている。
動きは人間そのものだった。だが、顔はあくまで白い像のまま。
表情がないのに、口の部分だけが、ぬるりとお喋りをしている。
そして、瞳のない真っ白な目でひまりたちを見下ろし――
ニヤリと笑った。
ひまりの耳で、蝉の声が一瞬だけ止む。“境い目”の手ざわり。
視線が絡む。見えてはいけない、と身体のほうが先に理解する。
それは、天使の姿をした、天使じゃないもの。
天使とは程遠い、何か別のもの。
(ダメ……!)
ひまりは思った。
(この天使、ホントの意味で、いちばんダメなやつ……!)
それからだ。
梢の奥で、何百もの“白”が、いっせいにむくりと起き上がった。
バサバサバサバサバサバサバサバサバサバサバサバサバサ──!!!!!!!
大量の羽音とともに、その林の枝いっぱいに、その天使像たちが、何体も表れた。瞳のない笑う白いキューピッドたちが、林を、空を埋め尽くしていた。
圧倒的な数。
木々の間を走るキャッキャと“ソレ”が騒ぐ声。
そして、最初に見た、天使像の二体が。
手に持った弓矢を、ひまりと瑚桃に向けた──
(逃げなきゃ……!)
ひまりは、瑚桃の手を取った。そして脱兎のごとく、その遊歩道から連れ去ったのだった。
振り返らない――“見る”と“来る”はいつも対……
◆ ◆ ◆
(──こんな話、瑚桃ちゃん、信じてくれるわけがない……!)
ひまりは話せなかった。とてもその勇気が出ない。黙ることしか、わたしにはできない……
「ひまりちゃん?」
瑚桃がせっつく。それでも、ひまりは沈黙を通す。
思えば、平家谷のそうめん流しで、瑚桃は、動く地蔵菩薩の“怪異”を見たと告白してくれた。わたしが見たのは、動く“天使像”。そういう意味では、像つながりで、少し似通っているかも知れない。それなら、もしかしたら、分かってくれるかもしれなけれど……
でも。でも、でも、でも。
その天使像と、“肉の塊”事件。
どう、つながるのか、わからない。
あの天使たちが、やったのか。
あの弓矢が、本当にそれと、関係しているのか。
スマホの向こうから「はあ」という瑚桃のため息が聞こえた。
瑚桃は諭すような声色を出す。
『アタシら、従姉妹だよね』
ひまりは沈黙で答える。
『アタシ、ここ数ヶ月で、いろいろな体験をしてきた』
「……うん」
『それ、話したよね』
「……うん」
『中南米の、白い女の悪霊。あと、動くお地蔵さん』
「うん、聞いたよ」
『それだけじゃないの』
「……え?」
『アタシ、なんかとんでもなく巨大な化け物を見たの。ねずみ島で』
「ねずみ島……で……?」
『うん。空が一気に真っ黒な雲に覆われて、そこに大きな“一つ目”が現れて』
「一つ目……」
『ホント、ホント! ガチ中のマジ系話! ほら。信じてくれない!』
「そ、そんなことない」
『ね? 本当の話だし、アタシ、実際にそれをしっかりこの目で見たのに、さすがのひまりちゃんも、疑ったよね』
つい、胸を打たれる。
「ごめん……」
『でもね、平気』
「え……?」
声から瑚桃が優しく微笑んでいるのが分かった。
『だからね。疑われることって、怖くないんだよ。アタシ、分かる。ひまりちゃんが何か隠してるの』
ひまりは思わず目を見開いた。
『このアタシが、それを今、証明したよ。アタシ見たもん。見たことは嘘偽りない。きっと、誰も信じない。それを、アタシは、ひまりちゃんだから、お話した。“何か”が見えるひまりちゃんだから、信じてくれるって、アタシ、信じた』
「…………」
『アタシ、ひまりちゃんのこと、信じてる』
瑚桃は語気を強める。
『信じてるから。絶対に信じるから。ひまりちゃんが何を話しても。ひまりちゃんが、どんなバカげたものを見たと言っても』
「…………」
『だから、ひまりちゃんも、瑚桃のこと、信じてくれないかな?』
ひまりの目から自然に涙があふれる。
『他の人は信じなくても、瑚桃は信じる。アタシがそれでバカにされたとしても、瑚桃は信じる。絶対に、絶対に、信じる。それに、誰にも言わない。秘密は絶対に守る。瑚桃は瑚桃。嘘はつかない』
「瑚桃ちゃん……」
『今までもそうだったんでしょ? 見えるのに、見たのに、誰も信じてくれないし、怖がられるし。ひまりちゃん。これまで、言いたいことを言ったら、変なやつだって、いじめられるかもしれないって思ってたんでしょ。だから、誰にも言えなかったんでしょ? ずっと、ずっと、見て、見てきて、それで怖い想いして、それを誰にも相談できなくて、悩んできたんでしょ?』
「…………」
もう涙は止まらない。ひまりは、しゃくり上げ始める。
『でも、瑚桃は聞く。アタシは信じる。だって、アタシは瑚桃だから。ねえ。だから、さ』
「ん……」ひっく、ひっく……
『一人で、抱え込まないで……』
「…………」ひっくひっく。
『アタシ、信じる』
「…………」
『疑われるの、怖くないよ。アタシは見たから言う。だからひまりちゃんも見たなら言って。ねえ、“見ないふり”って、優しさの顔をした逃げになる時があるでしょ? アタシは聞く役やる。ここに置きな?』
「……でも……」
瑚桃の口調が明らかに変わる。
『アタシ、信じてるんだよ! だから……ねえ、“ひまり”!!」
ひまりはこれにドキっとする。
『“ひまり”ィ! アタシに、アタシに、話してッ……!!』
”ひまり”──。始めて瑚桃から呼び捨てで呼ばれ、まるで目が覚めたような想いがした。
ひまりには、小さい頃から、“何か”が見える力があった。
けれど、宮司である父も、母も、それを「子どもの想像力」くらいにしか思ってくれなかった。
もちろん、近所の子どもたちもそうだ。
「見えた」とひまりが言うだけで怖がって、少しずつ距離を取られていく。
おかしな子だと、こそこそ噂される。
遊びに誘っても、「こ、今度ね……」と目をそらされ、そのまま逃げられてしまうこともあった。
そんなたびに、胸のあたりが、ぎゅっとしぼられるみたいに痛くなった。
少しずつ、ひまりは、自分が何かを口にすること自体が怖くなっていった。
変なことを言ったら――
嫌われてしまう──。
その言葉が、頭の中で何度も何度も反響した。
学校への通学路。みんなが遊んでいる公園。買い物中の繁華街。普通の住宅街。
思えばひまりは、そんな「どこにでもある場所」で、何度も何度も、自分にしか見えない“何か”を見てきた。
でも、誰にも言えない。
言えるわけがない。
それに――ひまりがその“何か”を見てしまうと、その“何か”のほうから、ついてきてしまうこともある。
(ねえ、わたしが見えるんでしょ? 見えるんでしょ?)
耳の奥で、そんな声がした気がして。
霊たちは、じわじわと距離を詰めてくる。
ひまりは、必死で「見えていないふり」をしてやり過ごすしかなかった。
だから、何かを“見て”しまっても、すぐに視線をそらすのが当たり前になった。
そのクセはそのまま、人と話すときにも染みついてしまう。
友達と話していても、相手の目を見られない。
それが、また自分を「変な子」に見せてしまう気がして、余計に怖くなる。
どんどん、引っ込み思案になっていく自分。
本当は人と仲良くしたいのに、つい逃げてしまう自分。
そんな性格が、ひまりは嫌だった。
いつも人の目を気にしてしまう。
自分から何かをアピールすることもできない。
ただただ、周りの空気に合わせて、黙って笑っているだけの自分。
嫌われたくない。
仲間はずれにされたくない。
「変な子」だと思われたくない――
──怖がられたくない!
だから、見て、見ぬふりをしたい。
見てしまっても、「見ていないこと」にしてしまいたい。
見て、見ぬふり……。
でも――。
そこで、ひまりは思い直す。
瑚桃ちゃんは、これまで信じてくれた。
絶対に秘密も守る、とも。
瑚桃は、小さい頃から、ひまりのいちばんの理解者だった。
そして今、もっともっと――
これまで以上に、ひまりのことを分かろうとしてくれている。
そのことが、胸の奥で、じんわりと熱を広げる。
ひまりは、頬を伝った涙を手の甲でそっと拭った。
そして、ゆっくりと深呼吸をする。
大きく息を吐ききると、少しだけ気持ちが落ち着いた気がした。
ひまりは口を開く。
……けれど、声が出ない。
薄い胸の上に、自分の手をそっと置いた。
自分の体温が、自分の心臓に伝わる。
心臓の鼓動が、今度は手のひらへと返ってくる。
必死で心を落ち着かせながら、
一生懸命、自分を少しでも変えてみようとする。
すうっと息を吸い込んだ。
心を決めた。
うん。
瑚桃ちゃんなら聞いてくれる。
小さい頃から、信じてくれていた。
わたしのこと、変には思わない。
なら。
今まで言えなかったことも。ずっと自分の心の中で溜め込んでいたことも。瑚桃ちゃんなら。
瑚桃ちゃんなら、信じてくれるかもしれない!
「あのね、瑚桃ちゃん……」
ついに、ひまりは切り出した。
声が喉で固まり、胸の前で両手を重ねる。心拍が手のひらを叩く。
『ん?』
瑚桃は、慈愛のたっぷりこもった声で答える。
「あのね、瑚桃ちゃん」
ひまりはもう一度繰り返す。
そして、「実は林の中に天使の群れが現れて……」と言いかけた。
だが。
風鈴が止まった。
家中の音が、きゅっと“収縮”する。
冷蔵庫の唸り、壁時計の秒針、外の車の遠音――すべて一拍、抜けていき……
『本当に、話しちゃって、いいの……?』
「……!?」
ひまりの耳元で。
突如、耳元で。
見ず知らずの、女性の声が囁いた。
『話すの? 見たって。見なかったふり、できるのに』
ひまりの視界の隅で。
髪の長い女の人の顔が、ゆっくりと、こちらを覗き込もうとしてきた。
息を呑んだ。
その女の目が見えた。
その目は、瞳孔のない真黒。白目がなく、ただ“穴”。
壁時計の秒針が一度だけ戻り、家全体の音が沈んだ。
「いやあああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああああ!」
思わず漏れる悲鳴。その叫び声を聞いて瑚桃はガタリと立ち上がる。
『ひまりちゃん……!?』
瑚桃は、何度も、何度も、スマホに向けて、ひまりに呼びかける。
『ひまりちゃん? ひまりちゃん? どうしたの、何があったの!? ひまりちゃん!? ひまりちゃん!!』
だが、イヤホンのスピーカーからはその晩、二度と。ひまりの声は聞こえてこなかった──
そして。
プツリ。
通話はなんの前触れもなく、切られた──




