第70話 葉山ひまり
第70話
「平家谷」
【写真】「いよ観ネット」https://www.iyokannet.jp/spot/476
「平家落人伝説」が残る渓谷を整備した自然公園。清閑とした雰囲気に浸り、渓谷と自然林の四季折々の風景を楽しむことができる癒しと安らぎの場所として、多くの人が訪れる。夏になると、そうめん流しやニジマス釣りが行われ、多くの人が自然の涼を求めて訪れる。
平家谷は、その名の通り、平安時代の源平合戦「壇ノ浦の戦い」に破れた平家の落人が逃れてきた元隠れ里である。
現在は水城市の天然自然公園。渓谷のせせらぎ、谷にこだまするホトトギス、杉の幹を渡るヒグラシ──水と音が幾重にも重なり、涼気が肌を撫でる。地元客も観光客も、足取りが自然とゆっくりになる場所だ。
位置は水城市の山間部。市内から約八キロメートル登った先。夏場だけ、そうめん流しやマス釣りが楽しめ、今日も多くの親子連れで賑わっていた。
ここだけは、街で立て続けに起こっている不穏な事件が嘘のようだ。
葉山ひまりは、そよぐ木漏れ日に細い肩をすくめながら、静かに平家谷へ降りていた。
星城学園高等部の一年生で、神主の娘。
顎下で揺れる黒いショートボブは、太陽に透けると淡く茶を帯びる。伏せがちな瞳は細く開いているのに、澄んだ光だけは大きく宿していた。
ひまりの実家である八ノ宮神社は悲運の帝と言われる崇徳上皇ゆかりの伝承があり、初詣には多くの参拝客で賑わう。
ひまりは小さく一礼し、白い耳をのぞかせながら石段を降りた。
巫女の家の癖で、最初の一歩はいつも静かだ。
風に揺れた前髪をそっと耳にかける仕草だけが、妙に大人びて見えた。
「ひまりちゃーん! 早く早く! そうめん流し、満席になっちゃうよ~!」
遠くから呼ぶ、その明るい声の主は、秋瀬瑚桃。
瑚桃が階段の下に立って、ひまりに向け、大きく手を振っていた。
ひまりと瑚桃は従姉妹になる。
学年で言えばひまりの方が上。
だが、ひまりは早生まれの3月30日。瑚桃は4月5日生まれ。
つまり、歳の差はほとんどない。
「瑚桃ちゃん、待って……」
ひまりはおろしたてのサンダルを気にしながら、一段ずつ慎重に足を置く。
踏み外した瞬間、ぱっと目を大きく見開く。その一瞬の顔立ちは、瑚桃がよく知る“地味なひまり”とは違い、驚くほど整って見えた。
「遅い~! アタシ、もう、お腹ペコペコなんですけど!」
「ごめんね。このサンダル、新しいやつで、慣れてなくて……」
「もう。毎日登校で、一時間もかけて自転車で通ってんだから、体力はあるはずでしょ!」
「体力はあるけど、運動神経が……うわ」
「えええええええ~!」と瑚桃は驚きつつ、踏み外したひまりを抱きとめる。
「セーフ。ほら、手」
「ごめんね……」
つながれた指先に汗。二人の歩幅がそろう。夏の光が手の甲で跳ねた。
血はつながっているが、瑚桃とひまりの性質は真逆だ。
活発で背伸びしがち、ギャルのような生き方を目指す瑚桃に対し、ひまりは痩せた体を包むような淡色のチュニックに、白い七分丈のパンツ。華奢な肩と、細く整った指先がよく目立つ。
仕草は控えめなのに、ふとした時の横顔は息をのむほど整っていて、瑚桃は“黙ってれば最強なのに…”といつも思っている。
一方の瑚桃は、レース素材を使った腕やお腹が透けるオフショルダーのブラウス。花柄プリントのベルトショーツ。露出多めで、ひまりと違って、体のラインが見えやすいファッションだった。
見た目も中身も真逆だったが、仲は姉妹のように良い。
「もう仕方ないな~。大丈夫、大丈夫! じゃあ、ゆっくり行こう!」
瑚桃はひまりに手を差し伸べた。
「本当にごめんね、瑚桃ちゃん」
ひまりは、涙目でその手を取る。と、同時にスマホのカメラを向け「『#今日のこもも』」と口にして、二ショットをパチリ。
急な自撮りにビックリしながらもひまりも引きつった涙まじりの笑顔。
そして、手をつなぎながら階段を下っていく。
それは、こののどかな夏の光景もあり、青春の一ページのような、ちょっとしたキラメキを周囲の人に与えていた。
平和。ここは今日も平和だ。
だが。
その時だった。
──ひまりの“秘密”……
「あ……」
道のない林の中。
ひまりの目に、そこをゆっくりと歩いていく髪の長い女性の姿が見えた。
白くて長いワンピース。
やせ細った体。
うなだれた顔は、その長い髪で見えない。
そんな幸の薄そうな女性が、まっすぐ。
ゆっくり、ゆっくりと、林の中を歩いていく……。道はない。
あの先は渓谷へ向けてまっすぐ切り立った崖になっているはずだ。
そして、その崖の手前まで来た時。
その女性はすうっと姿を消した。
ひまりの耳の奥で、蝉時雨だけが一瞬、沈む。──“境い目”が触れた合図。
これを立ち止まって見るひまり。
ひまりの細めていた瞳がゆっくりと大きく開き、澄んだ光が一点を射抜く。
瑚桃は“あ、この顔だ”と息をのんだ。霊を視るときの、ひまりの本当の顔。
「どうしたの?」
ひまりは一点を凝視している。
瑚桃はこの“秘密”を知っている。
「もしかして、また、“見えた”……?」
ひまりは、そちらの方を向いたまま頷いた。
にやあと瑚桃は笑った。そしてひまりの耳元に口を近づけ。
「……霊感少女、キタァァァア!」
瑚桃の大声にたまらずひまりはビクンと肩を震わせ、その白い耳を押さえる。
「く、くすぐったいよ……!」
「いいじゃん、いいじゃん」
ひまりは満面の笑顔だ。
「大体、アタシたちの年齢の女子って、恋に恋するお年頃で、自分や誰かの恋バナでキャーキャー盛り上がってるでしょ? それなのにウケる! ひまりちゃん、いつも霊の話とかばっかだもん! 霊の話で盛り上がり散らかしてるもん! さすが巫女! いやー! いいですね! 夏ですね! 日本の夏! 怪談の夏!」
「べ、別に盛り上がってないよ」
「いやいや、皆まで言うな~! 何を隠そう、ここ最近、この瑚桃ちゃんも、数多くの心霊現象を体験してるのだ~!」
「そうなの?」
ひまりは本気で驚く。
その瞬間だけ幼さがのぞき、瑚桃は密かにガッツポーズした。
「そうそう。あんまり人に言うなって口止めされてるけどね~。ひまりちゃんならいいか」
ものすごく楽しそうだ。瑚桃はラ・ヨローナを見た。グレーのパーカーの不気味な少年を見た。そしてデルと呼ばれるメイド服の少女……あれの正体は絶対に化け物だ。それに、地蔵の怪異! ……話したくてうずうずしている。
だが、それが逆にひまりの不安を呼んだ。
ひまりにとって、心霊体験と言うのは、そもそも、そんなにうれしそうに話すものではない。祟り、霊障、思わぬ不運、災厄。神社生まれのひまりにとって、それは忌むべきものであり、それ故、瑚桃の身に今後どのようなことが起こるのか、心配になったのだ。
◆ ◆ ◆
ひまりと瑚桃は、そうめん流しの席に座った。
目の前を、茹でたてのそうめんが流れていく。
そうめんが流れるレーンは輪のようになっており、その最も早くそうめんがすくえる場所に二人は吸われた。そして瑚桃はたまらなくなって語りだす。
「ねえねえ。あのさ。大量失踪事件があった時のこと覚えてる?」
「うん……」
ひまりは、つゆに大葉の刻みとミョウガを入れる。
「その時にね、その犯人と思われる人を見つけて追いかけたの」
「そんな、危ない……!」
「それが本当に危なかったの。なんて名前だっけ。『ラ・ロヨーナ』、『ヨローナ』? なんか中南米かどっかの女の悪霊らしいんだけど、瑚桃ちゃんは、その悪霊に襲われたのでした~!」
「なんで中南米の悪霊が日本に……?」
「そこが、アタシにも分からないところなのですよ、明智くん」
「あ、明智くん……?」
──私は小林少年を教育した覚えなどない……
「まあ、そん時は、センパイが助けに来てくれて、なんとか助かったんだけどね。知ってるでしょ。A組の、北藤翔太センパイ」
ひまりはドキッとした。
北藤翔太。
知らないはずがない。
──だって、あの人は……。
「で、まあ、細かいことは省くんだけどね」
「え。省くの?」
ひまりは心底、びっくりする。はしょり方もすごい。
「次に見たのは、なんとお地蔵さんの妖怪! いや~あれは、さすがのアタシでも肝を冷やしたな~。なんとその数、三千体! お地蔵さんもあれだけ集まれば怖いわ~、やっぱり」
「お地蔵さんって、地蔵菩薩? え、どういうこと? 三千体? 地蔵菩薩が?」
「うーん。三千体はちょっと盛ったかな。盛りすぎたかな」
「もう……。話すならちゃんと話してよ」
「盛り盛りでお送り致しております」
「盛らないで。半ライスで」
ひまりが小声でツッコむと、瑚桃は箸で小さくピース。
「ま、そこで、どうやって助かったかは省くんだけど」
「そこも省くんだ」
まあ、仕方ない。ひまりはつゆに大葉とミョウガを落とし、瑚桃の器にもひとつまみ移す。世話焼きは無意識だ。
「とにかく、最近の水城市は“謎”がいっぱい! 怖かったりヤバめ~とか思ったりもしたけど、一方で、なんか刺激的なことが起こってるんじゃないかってワクワクもしてるんだよね。……いやー、ひまりちゃんがいてくれて良かったわ。なかなか他の人に話せることじゃないからね。ひまりちゃんなら信じてくれるかなって」
人の言葉をあまり聞かずにまくしたてるのは相変わらず。そんな瑚桃がひまりは意外にも大好きだった。
昔の瑚桃は、どちらかと言うと、ひまりのように引っ込み思案だった。
瑚桃が変わり始めたのは中一になってからだ。
何がきっかけなのだろう。それはひまりも知らない。しかも最近、ますますそれに拍車がかかっている。
(私と瑚桃ちゃん、何が違ったんだろ……どうして私は、瑚桃ちゃんみたいに明るく人と接せられないんだろう)
ひまりは箸を止めて自責を始める。
年上ながら、ひまりは瑚桃のそんな明るさに憧れていた。うらやましく思っていた。
そして、……"怖い”思いをしても、平然としていられることに。
◆ ◆ ◆
流しそうめんを食べた後は、マス釣り。
その釣ったマスを焼いてもらって遊歩道を食べ歩き。
二人は、ここ最近の自粛気味だった生活を忘れ、平家谷を満喫する。
楽しかった。
だが、事あるごとに瑚桃の口から出てくる、その名前に、ひまりは胸を苦しめていた。
「センパイがね」
「翔太センパイがさ~」
「あ、その時、センパイがこう言ったんだ」
「翔太くん、すっごい可愛かったの」
「翔太くん、ああ見えて男らしいんだよね~!」
「センパイ、好きな人いるのかな~? うみちゃんと怪しいんだよね。ね、ひまりちゃん、なんか噂、聞いてない?」
北藤翔太。
その名は、ひまりにとっては自身の"闇”への入り口だ。
名前が出るたび、胸の内側で小石が転がる。
後悔。
罪悪感。
“見て見ぬ振り”。
自分の汚い本性を見せつけられた、あの記憶……
巾着に結んである小さな鈴の根付。翔太の名が出るたび鳴らない鈴に触れてしまう。
消してしまいたい。
そんな自分は大っ嫌い。
だが翔太は転校していった──
ひまりの胸に平穏が訪れた。
これで、もう、大丈夫。
私も、もっともっと。
流されないように、生きなくちゃ……
ところが。
高等部に入学。
翔太が戻ってきているのを見た時は心底驚いた。
必死でクラス表を見る。
(良かった……。私、C組だ。一緒のクラスじゃない……)
でも、胸がズキズキする。そのズキズキを、今も刺激されている。
瑚桃と遊ぶのは楽しい。でも、でも。その名前は出して欲しくない……!
ひまりは爪の甘皮をいじり、はっとして手を膝に戻す。悪癖。
ここは平家の落ち武者たちの里。霊前ではやらないと決めたのに……
◆ ◆ ◆
夏の太陽がギラギラと二人を炙っていた。
渓谷を流れる水は透明で澄んでいる。
その澄んだ水とは裏腹に。
(本当の、私の心は、濁っている……)
ひまりは暗い気持ちになってしまう。
川のせせらぎ。
ふと、ひまりは違和感を覚えた。例の……霊感──
(……?)
周囲を見渡す。
濃い緑の木々、草。
苔むした岩肌、舗装されてない遊歩道、静かに流れていく小川。
一陣の風が吹き、木々がザザザザザとざわめいた。
見た目には、何も変化はない。
だが。
(いる……!)
ひまりは確信した。
(ダメだ……!)
「でさー。センパイがね……」
なおも喋り続ける瑚桃の手を、ひまりは急いで取る。
「え、何? どうしたの?」
ひまりの顔は真剣だ。
普段は線の細いひまりが、目を大きく見開き、迷いのない声音になる。瑚桃は毎度この瞬間だけ、ぞくりとする。“守られてる”と、本能で理解するからだ。
「ここから出よう、瑚桃ちゃん」
「……?」
「早く、急いで!」
反論を待たない声。ひまりは手を引き、最短の導線で階段へ。
「痛い、痛い、ひまりちゃん、痛いんですけどー!」
そんな声を無視して瑚桃を引きずるように連れて行く。
「何? 何? また何か見たの!?」
ひまりは黙ったままだ。だが、その真剣な表情から、何かただ事ではないことが起こっていると瑚桃は悟る。遊歩道からマス釣り場を経て、そうめん流し店の脇を通って、階段を登り駐車場へ。
走りながら、ひまりはポシェットの塩をひとつまみ指先で弾き、背後へ払った。
誰にも見えない所作で……。
「タクシー!」
ひまりはタクシー乗り場に停車していたタクシーの車内に瑚桃を押し込んだ。
「山を降りて下さい! 早く! 水城市街地へ!」
普段は控えめなひまりが、胸の奥からしぼり出すような強い声で運転手に告げた。
その横顔は、どこか巫女の家系らしい凛烈さがあった。
タクシーは静かに動き出す。
瑚桃は座席から後ろを見ながら、平家谷が遠ざかっているのを見ている。
「あ~あ。まだ昼間なのに……」
ひまりが、その瑚桃の手を握った。その手はじっとりと汗で塗れている。
「ひまりちゃん……?」
ひまりは黙って何も言わない。
有無をも言わせないひまりの行動。
こんなの、初めてだった。
瑚桃も、その勢いに呑まれ、ついつい言いなりに。
だが、その"意味”は、すぐに、分かる。
いや、数時間後に。
◆ ◆ ◆
その日の夕方だった。
平家谷にはたくさんのパトカー、そして救急車が訪れていた。
現場には、報告を受けて、瑚桃の父も署長自ら訪れていた。
そして、“見た”。
「これは……」
最初に倒れていたのは、売店の白い発泡スチロール箱だった——中は魚ではない。
「人だったもの」……だ。
そして平家谷一面……。
皮膚は夏の熱で膨れ、薄い膜が張り、ところどころ破れては黄白色の液を滲ませる。
腕はねじ切れ、指の間に流しそうめんの白い麺が絡む。腱と麺の白が、区別を拒む。
腹は裂け、腸が水面にほどけて、流れに揺れながら小魚に啄ばまれている。
顔は砕け、歯が小石みたいに散り、舌は紫に肥え、眼窩の空洞は蠅の塊で黒い。
誰かの結婚指輪が腱に引っかかり、子どものサンダルが片方だけ、血と泥で重く沈む。
ビニールの浮き輪が逆さに揺れて、赤い滴が縁をぽたり、ぽたりと縫う。
甘腐れたガス、吐瀉の酸っぱさ、血と鉄の匂い……
踏めば、靴底の下で骨が鳴る──ミシ、パキ、ジャリ。
焼き場の網は落ちた灰と脂でぬめり、さっきまで笑っていた家族の昼の気配だけが、ひどい冗談みたいに残っている。
──“ポリバケツ事件”。
アーケードの“ポリバケツ事件”が、ここでは容赦なく風景に散弾されていた。
美しい清流が今は赤黒く泡立ち、岩肌はぬめり、谷は「癒し」の音をやめ、蠅の合唱と嗚咽に乗っ取られる。川面に浮いた白い麺が、流木に引っかかって揺れる。
──それが、まだ生きているみたいで最悪だった。
葉山ひまりイメージ




