第69話 マリア像
第69話
瘴気は日に日に増していく。
水城市の人々の影が心なしかいつもより闇に近い。
海と山に閉じ込められたこの地が、徐々に幽世に呑まれていく。
──そんな“正体の分からぬ”予感が、住民たちの心をかすめ始めたある日のことだった。
夏休みに入って数日後。六本腕地蔵の事件からはすでに数週間も経った。
その朝、デルピュネーはいつものように、北藤家の清掃はもちろん、教会のモップがけを済ませ、つづけて朝ごはんの準備に取り掛かっていた。
「お味噌汁はこれで完成ですね。あとは、漬け物好きの芽瑠様のために、ぬか漬けを……」
翔太の幼馴染・海野美優の指導も良い。デルピュネーは和食の腕前はもちろん、漬け物も自作で漬けられるまで成長していた。
ぬか床を、ビニール袋をはめた手で丁寧にかき混ぜる。定番のカブやキュウリ、ニンジン、今が旬のミョウガも漬けた。芽瑠の大好物だからだ。もちろん美優の好きな「じゃこ天」や「岩下の新生姜」、翔太の好物の「揚げ巻」(かまぼこ状の魚のすり身を油揚げで巻いたもの)というこの地特有の練り物の買い置きにも抜かりはない。
「デル、おはよう……」
ようやく起きた翔太が、パジャマのままでキッチンに入ってきた。ふわあ、と情けなくあくびをしている。
「わ。匂うな、なんだこれ?」
「ぬか漬けでございます、翔太さま」
デルピュネーは真剣にぬか床をこね続ける。
「ぬか漬けか……。芽瑠が喜ぶな」
「はい、でございます。芽瑠さまが笑ってくだされば、デルも本望でございます」
だがこの姿に、翔太は笑いそうになる。
(メイド服でぬか床を混ぜる怪異──そんな絵面、世界に何枚あるだろう)
肌の露出が多めのコスプレっぽいかわいいメイド服。けれど手つきだけは、もう家庭のそれだった。
──魔物の一種であるはずのデルピュネーが「教会」という聖なる場所に平気で出入りできることについて、翔太も最初は違和感を抱いていた。魔王の使い魔ならば、「教会」は本来、恐れるべき場所のはずだ。
それでも、今ではすっかり日常になっている。……なぜなのか、その理由だけは分からないまま。
そんな疑問を持ちながら再びデルピュネーを見る。デルの表情はあくまでも真剣だ。浸かり具合を真剣に見定め、もっとも味が良さそうなものを「ムムム……」と選別している。メイド服の魔物がぬか漬けを作っているんだから、そんなこともあるか。翔太はそう折り合いをつけていた。
「おはよー! お兄ちゃん、デルちゃん!」
そこに芽瑠も起きてきた。あいも変わらず元気いっぱいだ。
続けて、美優。こちらは、不機嫌そうな顔でキッチンへと入ってくる。
「おはよう芽瑠、美優」
「……おはよう……」
美優の目が開き切ってない。
「相変わらず、デルは朝が早いわね」
言いながらも、デルの横に回り込み、火を止めたばかりの味噌汁の鍋の蓋を開け、味見をした。
「どうでございますか? 美優さま」
美優がその味ですっと目を覚ましたようにいつもの笑顔に戻る。
「いいわね! 今日、お味噌、変えた?」
デルはうれしそうに笑った。
「はい。今日は裸麦味噌×赤味噌の合わせにしてみました。ちょうど出来たての裸麦味噌が手に入りまして、香りと甘みが強い。夏ですので塩を少し高めに。出汁はあごだしといりこ、じゃこ天は美優さま用に多め。豆腐は風味に負けない木綿を選択しております」
美優はいかにも「合格」とでも言わんばかりに親指を立てた。
「いいわね。完璧。本当にデルには教えがいがあるわ。やっぱり、神話上の存在ともなると、普通の人間より飲み込みが早いのかしら」
「いえ。美優さまのご鞭撻が素晴らしいのでございます」
「デルの出身はギリシアでしょ? 今度は私にギリシア料理を教えてもらえるかしら」
「ギリシアと言いましても、神話時代と今とではすでに人種も文化も入れ替わっておりますゆえ……」
「あ。そっか。ギリシア神話って紀元前だもんね」
「そうでございます。なんなら、今から学ぶことも出来ますが……」
「そこまではいいわよ。ありがとね、気を遣ってくれて」
そんな会話を聞いて、翔太はなんだかうれしくなっていた。
美優も、デルも、本当に我が家にとけ込んでくれている。妹の芽瑠も大切にしてくれているし、デルはボディーガードとしても頼もしい。
翔太は思い出していた。
先日の夜、翔太の枕元に現れたデルが言った言葉を。
◆ ◆ ◆
「『カスケード』の活発化は、この地にとどまらず、近い将来、世界をも巻き込むことになるかもしれません。翔太さまを狙う強大な存在が、すでに現世に顕現した可能性も考えております。
また、幽世以外の存在が、今の瘴気にあてられ、力を増しつつある可能性も……。わたくしとシャパリュさまでお守りしますが、翔太さまも、くれぐれもお気をつけください」
◆ ◆ ◆
また、俺を狙う者……。
つくづく自分が抱え込んでしまった宿命が嫌になってしまう。
だが翔太は栗落花淳事件の直後から、ベレスの指導のもとで、護身の術式を高める修練を毎日、始めていた。
その術式は、いわば“獣”対策。翔太の魂の中で対抗し合っている反キリストと太陽神ラー。そのラーの力を増幅させるといった成宮蒼=ベレスいわく、秘術中の秘術だった。
ラーが持つエネルギー。ベレスはこれをヘブライ語で『イーナリージア』と呼んでいる。これを高め、サバトの悪魔・バフォメットの襲撃で一瞬覚醒してしまった“獣”を抑え込もうとする算段だ。
手順は単純で過酷──①眠っている魔術回路をこじ開ける/②ラーの『イーナリージア』を通す。
初回、翔太はその痛みと高熱で一日寝込んだ。成長を待たずに回路を開くのは、幼児の骨を引っ張って無理に伸ばすのと同じだ。
だがこの痛みも、自分を……美優を守るためだ。
魔術回路は血管や神経の形と似ている。これは一般の人間の中にも眠ってはいるが、ラーの転生体である翔太のものは、ラー特有のものだ。
「太陽神ラーは、かの偉大なヘリオポリス九柱神の1つだからね。そのイーナリージアは相当なものだ。最初は苦しいだろうが、慣れればその状態で過ごすことも出来るようになる」
翔太と接する時のベレスは、いつも優しい笑みを浮かべている。
だが、回路が開き、悲鳴を上げながらもがき苦しむ翔太を見つめるその目だけは違った。
口元は微笑んだままなのに、瞳の温度は一度も変わらない。
──これが、悪魔か……
翔太は胸中で反芻した。
だが、その悪魔が「君を守る」と言ってくれている。
相当な違和感は、いまだある。
だが守ってくれているのは、前回の栗落花淳事件で明らかになった。
そんなベレス=成宮蒼が言うには、開いた回路にラーの『イーナリージア』を流す術式を使い続けることで、太陽神ラー本来の力を使うこともできるようになる。
「ほら。僕たちが出会った時のことを思い出してごらん? 君がデルの槍で体を真っ二つにされた時、君の体は再生しただろう? あれもラーの力だ。つまり回路にラーの力が通線すれば、君は、寿命や病気以外では死ねなくなる。つまり不死身となる」
とんでもないことを、あっさりと言ってのけるのも悪魔らしい。
そして、ラーの目に宿る『セクメト』と呼ばれるエジプトの戦闘の女神をも使役できるとのこと。
半信半疑でしかないが、確かにデルに肉体を引き裂かれた時、翔太の体は死から生還した。
それに、もうバフォメットの時のように、美優を危険な目に遭わせたくない。
──だから、信じた。
「ラーの力を使えれば、自らの身を守れるだけではなく、“666”の“獣”を封じる力にもなる。一石二鳥、君たちの言語にはそんな言葉もあったね。だから励んでくれたまえ。これは僕たち、また世界のためでもある」
そう優しく笑うベレス。
そもそも、ベレスは特に“人間の味方”と自分で言ったことがない。
しかもそれを隠そうともしない。
悪魔は通常、甘い言葉で人を誘惑してくる。
しかしベレスの場合、“獣”復活阻止のみに焦点が合っている。
現に、最初の出会いの時、あんなに涼しい顔で、デルに翔太を殺すよう命じたではないか。
あれも試すため──。その冷酷さが「騙されているわけではない」と逆に、信頼につながった。
◆ ◆ ◆
今朝の朝食も美味しかった。今日は日曜日だ。美優も翔太もそれぞれくつろいでいる。
事件は、そんなのどかで平凡な朝に起こった。
「私がマリアさまのところにお花を持っていく~!」
朝食後、芽瑠がそう騒ぎ始めた。
マリアさまとは、教会の礼拝堂に設置してある白い石膏製のマリア像のことだ。祭壇の隣にある台座に、花瓶を置くのは、北藤家の慣習となっている。
「いえ、芽瑠さま。その花瓶は大変、重うございます。芽瑠さま、お一人では難しいかと」
困るデルピュネーを見て、美優が提案した。
「いいじゃない。それじゃ、私が手伝ってあげるわよ。芽瑠ちゃん、美優お姉ちゃんと一緒でもいい? 二人で持てば、もっと楽に運べるわよ」
「ほんと?」
芽瑠が目を輝かせた。
「うん、本当よ。お姉ちゃんが一緒に持っていってあげる。……デル、いいわよね」
「美優さまがそうおっしゃるなら……」
デルはかしこまった。
ここまでは何でもない普通の光景だ。
だが。
「うんしょ、うんしょ」
美優が抱えた花瓶に、芽瑠は必死に背伸びして手を添える。
そんな仲睦まじい光景が、キッチンから消えた。
美優がついているなら安心。翔太もそう思っていた。
だが、部屋を出て、ほんの数十秒後。
ガシャァァァァァアアアアアァァン!!!
花瓶が割れる音。
同じく。
「きゃああああああああああああああああああああああああ!」
芽瑠の悲鳴。
礼拝所からだ。
翔太の反応は早かった。
破裂音と悲鳴が響くのと、ほとんど同時に立ち上がっていた。
ラーの力を増幅させる術式の訓練を続けてもう一ヶ月以上。
肉体的な変化が現れ始めていた。
翔太は礼拝堂へと走る。
美優がヘマを起こすとは思えない。
芽瑠がふざけ過ぎるということも考えられない。
(『カメア』は……!?)
反応はない。
だが。
何かが、あったのは事実だ!
その翔太をデルが追い越した。
翡翠の閃きが、床の影だけを置き去りにした。
まるで、風。いや、それより速い。
重力をものともしない動き。
「見えた」と思った瞬間にはもう「いない」という結果だけが残っている──それがデルの速度だ。
これが、ギリシア神話最強クラスの力か……
そしてようやく近づく礼拝堂へのドア。
開かれたドアに飛び込んだ翔太が見たものは。
美優が左腕で芽瑠を抱き寄せ、右手で像を指さしたまま固まっている。震えは止めながら、視線だけは逸らさない。
(何が……?)
その横にはデルピュネー。槍を構え、戦闘モードに入り、周囲を伺っている。
その姿は美優と芽瑠をかばっているように見え、エメラルドグリーンの瞳がいつもより鋭く輝いていた。
「デル……?」
そう言う翔太の言葉も、あっという間に驚がくに呑まれた。
むごたらしい光景を、そこで見たのだ。
等身大の真っ白なマリア像。
では、なかった。
頭頂から喉まで、乾いた黒と生温い赤が層になって貼り付く。
何かの動物の内臓が首飾りのようにかけられ。
胸部には粗い黒ペンで円と点──母乳の象徴に対する狙い撃ちの嘲弄。
そして下腹部には『FUCK ME』と侮辱の言葉が落書きされている。
汚れなき“処女”。聖女マリアを冒涜する明らかにサタニックな光景。
──祈りの視線を受けるはずの像は、いま“見世物”として縛られていた。
(確か、新町商店街のポリバケツ事件でもこんな死骸や内臓が詰められ……)
あの事件とつながっているのだろうか?
泣いてしゃくり上げている芽瑠。
呆然としている美優。
マリア像の足元には聖水盤が伏せられ、十字架は逆十字として突き立てられている。
花瓶の破片には、誰のものとも知れぬ、無垢の象徴たる赤子のミトンが引っかかり、その上へ血のしぶき──この場の聖なる記号だけが、選んで丁寧に汚されていた。
“無垢”と“祈り”を意図して貶める行いだ。
この教会の結界……。そこへ踏み入れることができるということは──
──犯人は、人間……?
「これは……挑発、ですね……」
その翔太の横で、デルピュネーはやや口調に焦りをにじませながら言った。
「……挑発?」
翔太にも何が何やら分からない。
「はい。犯人は、“ここに見ている者がいる”と誇示しています。結界の内側で、信仰の中心を狙う──つまり、この地の核となる場所と、わたくしたちがいることを把握しているという合図です」
ゾッとする。誰かの視線だけが、壁に貼り付き、まだ剥がれていない気がした。
「……要は、気づいている、と」
「そうでございます。翔太さま。犯人は“見えない手紙”を置いていきました。内容は──『気づけ。次はもっと近くに行く』、そんなところでございましょう」
「結界は……!? この土地は結界に守られてるんじゃないのか?」
「はい。ですが、その結界だけでは不十分だと確認しました。至急、ベレスさまに対策をお願いしなければ……」
「この結界を破れる存在となると……」
「神話上の上位神格、もしくはバフォメットのような悪魔ごときではなく、魔王級の『リリン』。それとも、この世の、土着の大怪異……」
翔太は息を呑む。陰皇のあの単眼を思い出したのだ。
「いずれにせよ、“結界を素通りできる理屈”を持っている。理屈を持つ敵は、再現性がある──だから危険です。つまり……」
デルピュネーの口から尖った牙が覗いた。
幼い顔立ちに全生物を斬り裂く禍々しき刃──デルの魔の力が解放されかかっている。
「翔太さま。今から、この地は、これまでの水城市とはまったく違う場所になったとお考えください。幽世の常識すら通じない──『第三の理』。
それは、幽世の条でも、現世の慣いでもございません。そのどちらにも属さぬ古の掟が、いま着実に、わたくしたちを狙って動き始めているのです」




