第68話 すすり泣く人魂
第68話
地蔵事件と、ほとんど同じ刻。
瑚桃の家の別荘から、そう遠くない林の中。
潮騒も届ききらない、土と湿った葉の匂いだけが濃い場所だった。
「ここにありました。ベレスさま」
セイレーンが静かに告げる。
この世とあの世をつなぐ、あの小さな“亀裂”の一つだ。
「ふむ……規模は“下の中”か。だが、問題は位置だね。翔太くん──“獣”の核に近すぎる。この兆候は不吉だ。活性化する前に、静かに終息させてほしい」
背後には魔王ベレス。
ベレスは足先で土を均し、目を細める。
「波形が粗い……雑だが、湧き出る“数”が多いね。
最優先は、数そのものの無力化だ。頼むよ」
ベレスは考える。
陰皇が珍しく姿を見せたのだ。
この辺りに亀裂が集中しているのも嫌な予兆を感じさせる。
セイレーンもベレスのその想いは承知していた。
「承知しました」
そう言って、手のひらの上に、壺のような物体を召喚した。
「起きなさい。レプラコーン」
その声に呼ばれて壺の中からわらわらと這い出してきたのは、小さな子鬼たち。ケルト神話などに登場する妖精・レプラコーンだ。
その異形の者たちは、それぞれが腕に古い金貨を抱えていた。いつの時代のものか。相当な歴史と特殊な魔力を感じさせる。レブラコーンらは無言で金貨を“亀裂”の中に投じる。ひと枚ごとに脈打ち、鈍い紫色の光を放ち始めた。
レプラコーンはせっせと金貨で“亀裂”を埋めていく。
やがて、その亀裂は苦しむようにもがき、紫色に光りながら人間の“唇”の形になった。
『ウ……オオ……ォオオオ──ン……!』
その叫びは、人の悲鳴というより、閉ざされた井戸の底から響く嘆きのようだった。
だがレプラコーンたちは止まらない。さらにその唇の中に、金貨を詰め込む。魔王ベレスの特殊魔力が込められた金貨を。
そして数分後。口内を金貨で埋め尽くされた紫色の唇はぐったりとなった。
闇が喉を鳴らすみたいに沈んでいく……
「……遅いね。手順は正確だが、儀式の“速度”が悪い。
遅滞はすなわち、被害の増大を意味する」
ベレスは時計も見ないで言う。
「また別の手法を探さなければならないか」
「おっしゃる通りです。ですが、”亀裂”は小さすぎて、気配もほぼ感じさせません。
これほどの小規模の『カスケード』……
すべて見つけ封印するのは相当に難しいと思われます」
「確かに。だが──この現象は、既存の“幽世”の理とは合致しない。
もっと違う“何か”……呪詛とも、我々の魔術体系とも違う、“地の理”が動いている可能性がある。
……それこそ、『第三の理』そのものが、ゆっくりと目を覚まし始めているのかもしれないね」
名の由来も、成り立ちも分からない。ただ一つ、聖典として選ばれたどの“西の書”にも載っていない理だということだけが知られている。
直後。
その横、数十メートル先。
そこで突如、幾何学模様に緑色の光が数本走った。
ドサドサドサッと何かが倒れる音がした。
そしてその闇から姿を現したのは。
デルピュネーだ。
その片手には、“地蔵”の頭だけが掴まれていた。
斬られた首。デルピュネーに鷲掴みされたその首の断面からは鮮血が滴り落ちていて……
あの六本腕の首だ。
「……間に合わなかったようですね。そちらでも、怪異が暴れましたか、デルピュネー」
セイレーンの言葉に、デルピュネーは無表情で答える。
「はい、セイレーンさま。抵抗は強靭でしたが、たった今、首を刈り、魂ごと確保しました」
デルは血の滴る首を地に置かず、腕を水平に保ったまま膝をつく。
「汚しませぬよう」……そう言って、セイレーンの前にひざまずく。
セイレーンは、その首を蔑んだかのように見て、「もうよろしい、デル」と告げた。
かなり強力な怪異を、一瞬で葬った痕跡が、そこにはありありと残っていた。
「セイレーンさま……罰は、覚悟しております」
「事実として“遅かった”のですね。デルピュネー。コレがあそこまで北藤翔太に近づく前に、気づくことはできなかったのですか?」
「申し訳ありません、セイレーンさま」
謝罪し、深く頭を下げる。
「あまりにも、小さすぎる反応でしたので……。捨て置いて良いものと油断をしておりました」
セイレーンは歩を詰めず、距離を保ったまま手の甲だけを返す。
「遅延は死──それが、わたしたちの掟。
理由は価値にならない。
己の過失を認めるというのなら……罰は、最小限に留めましょう。
覚悟はよろしいですね、デルピュネー」
セイレーンの声には怒りはなく、ただ冷ややかな“規律”だけがあった。
慈悲も情も排した、よく研がれた刃物のような裁定の響き。
それこそが、悪魔の世界の絶対律だった。
「はい。このわたくしの首ひとつ──喜んで差し出します、セイレーンさま」
その声音は、一滴の揺らぎも帯びていなかった。
“仕える者”としての誇りが、恐怖や未練よりも先に立っていた。
デルにとって、自らの命より重いものが、すでにこの町に眠っているからだ。
「さすがの肝が座りよう。ギリシア神話でも名のある怪物だけありますね。よろしい。あなたに相応の罰を」
「どうぞ、セイレーンさま。心の準備はできてございます」
「レーン。その辺でいい」
そう止めたのは魔王ベレスだった。
「とりあえず解決はしている。僕も、この程度なら放っておこうと思うだろう。デルは悪くない。それに、”亀裂”をすべて防げていない僕たちにも非はある。責められるのは僕たちも同じというわけだ。それに今、首を落とせば戦力が空く。復帰に一日──その間に“獣”へ別筋が寄ったら大変だ。費用対効果が悪い。手を下ろせ」
「しかしそれでは示しが」
「レーン」
ベレスはやや強い口調でセイレーンを諌めた。
「悪魔の掟は厳しい。残酷だ。
だが──デルはすでに怪異を討ち、被害を止めた。
この功績に免じて、今回は赦してやってほしい。
デルも理解したはずだ。“いまの水城では、一瞬の油断が死を呼ぶ”とな」
しぶしぶ、セイレーンはその手を下ろした。
ベレスはひざまずいたデルピュネーの前に膝をつき、その頭にぽん、と手を置く。
「いい子だ。むしろ、よく防いでくれた。それで……その怪異は何だったんだ?」
デルは顔を上げて言う。
「強力かつ大変な速さを持つものでしたが……妖精の類でした、ベレスさま。この国の言葉で言えば“妖怪”と呼ばれるものです」
「妖怪か……なるほど」
「日本の山陰地方には──“人さらい地蔵”という逸話がございます」
「うん。なんだい? それは?」
デルは語り始めた。
「名の通り、地蔵の姿を借り、人里で“子ども”だけを攫う妖。
優しい顔の下に、千もの子の泣き声を抱えていると伝わります。
今回は、さらわれた子どもたちの霊も、石化され、地蔵の妖として、操られておりました。
この現世に棲み、悪戯を繰り返していた者たちでしょう。
おそらく、その『カスケード』の亀裂により力を得たものかと」
「“人さらい地蔵”が亀裂の『カスケード』で活性化したと」
「そう考えて間違いないと思われます」
ベレスは考え込む素振りを見せた。
「なるほど。それで。“それ”の狙いは翔太くんだったのか? それとも単なる偶然だったのか?」
「偶然でございます。アレらに翔太さまを狙おうとするような、高尚な意思はございませんでした。人の気配がしたので、そこへ向かった……。哀れな妖怪の、哀れな猿知恵で、目的があったとは思い難く」
「良い分析だ」
微笑んで、ベレスは立ち上がった。
「ありがとう。いい子だ。デル、君の任務は変わらない。戻ってまた、翔太くんを守護してくれ。念押しのために問う。君の任務は?」
「翔太さまを刺激しないこと。『平穏』にございます」
「その通りだ。では頼むぞ、デル」
「かしこまりました。即時に」
うやうやしく頭を下げ、デルピュネーはまた林の中へと消えていった。
それを見送りながらベレスが言う。
「レーン。少し我々も、今回の『カスケード』の活発化を甘めに見ていたようだ。徐々に力を増し、拡大している。ちょっとやり方を変えてみるぞ」
「やり方を変えると言うと……?」
ベレスはニヤリと笑った。
その笑顔にセイレーンはゾッとする。
「陰皇まで現れたんだ。きっと僕たちが思うよりもずっと面倒なことが起きる。この亀裂のような『カスケード』だけじゃ済まない。かなりの大きな何か……。幽世の『カスケード』の影響で、この世の大悪霊が目を覚まそうとしている可能性を感じる」
セイレーンはゴクリ……とつばを飲んだ。
「つまり、『第三の理』……」
「だが、潰せ。目覚める前に。幽世の者より厄介かもしれないからね。早めに手を売っておいたほうが良い」
「しかし、どうやって……」
「泳がせる。観測して、刈る」
事も無げにベレスは言う。
「亀裂は塞いで回る。これ以上、幽世の力をこの世に満たしてはならない。いずれ、その大悪霊も尻尾を出すだろう。その前に、本来の『カスケード』でこの世に顕現した者を潰しておいた方が懸命だ。さすがに複数の邪魔が入るのは危険すぎる」
「仰せのままに。私のこの力を用いて、亀裂が発する波のゆらぎを探知していまいりましょう」
その会話に、いつの間にか、何者かのすすり泣きが紛れ込んでいた。
そして、ボッ! ボッ! と人魂が浮かび上がる。
ベレスとセイレーンは無数の人魂に囲まれた。
だがそれは、襲うためというよりは、単に右往左往しているだけだ。
「この下等な者どもは……」
ベレスは苦笑いした。
「デルの話に繋がったよ。例の妖怪……“人さらい地蔵”にさらわれた子どもたちの霊だね。ここにあった亀裂が埋まって、存在できるだけの力を失ったんだ。成仏を許されず、それで帰る場所は幽世を求めるとは……。哀れなものだな」
「ベレスさまは感傷的すぎます。こんなもの、さっさと始末してしまっては?」
「いや。そうするまでもなさそうだ」
「……? どういうことでしょう」
人魂は泣き続けている。
いつの時代の子どもたちなのだろうか。
突然さらわれ、おそらくその肉体は喰われ、無念のまま、妖怪の手先となり、操られていた。
『……おかあさん……』
『もう泣かないよ……わがままもしない……だから……いまからでも迎えにきて……』
『くらい……さむい……こわい……ここ……どこなの……?』
それは泣き声というより、薄い膜の向こう側で、何十年も同じ言葉だけを繰り返してきた者の響きだった。
時間の流れだけを奪われ、幼い願いだけが凍りついて残った声。
聞いているだけで、胸の奥のどこか柔らかい場所が、きしりと音を立てる。
誰かに届くはずもない「ごめんなさい」と「ただいま」が、そこには幾重にも折り重なっていた。
何百年という、途方もない時間──
成仏も帰還も許されず、ただ“さらわれた瞬間”だけを繰り返させられてきた魂たち。
幼い感情が年輪のように幾重にも積み重なり、そこは小さな牢などではなく、“時間そのものが閉じた監獄”になっていた。
外側の世界だけが先へ進み、自分たちだけが置き去りにされる──それが、彼らにとっての永遠だった。
人生をまっとうしたかっただろう。
子や孫を見たかっただろう。
その遺憾の念が今……
「……もう、維持できませんね。
“人さらい地蔵”という拠り所を失えば、これらは留まる場を失う。
なんとも……悲惨な形です」
西の魔術書にも、古い契約書にもページがない。
聖典からこぼれ落ち、「偽書」として切り捨てられた側の理。
それでも世界のどこかでいちばん早く、最初の「約束」として刻まれていたもの──
それが『第三の理』だ。
星図にも、天球にも記されない、もっと古い配列。
──その理の外へ、この哀れな子どもたちも出ることはできなかったのだろう。
そのベレスの前でセイレーンは、静かに手をかざした。
風が、指先ひとつでかき消される火のように──
その小さな魂たちは、まとめて断ち切られた。
消える刹那、いくつかの声が重なった。『ただいまって言いたい』『ごはんの匂いがした』──
次の瞬間には、風が何も持たずに通り過ぎた。
夜気の温度さえ、元通りに戻る。
ここに“いたはずの誰か”の痕跡だけが、世界からきれいに拭い取られていた。
「苦痛の延長は、不要……ゆえに、刈り取りました」
「慈悲深いじゃないか、レーン」
「いけませんでしたでしょうか……?」
ベレスは笑った。
「いや。これは“日の本”特有の怪異……。
この土地の“死”や“苦悶”は、わたしたちの理とも、幽世の理とも、別の仕組みで動いている。
人間の苦悶は、良い“観測素材”だ。
『第三の理』──その実体はいまだ霧の中のままだよ」
それは、どの星図にも、どの聖典にも書き込まれなかった“最初の法”。
にもかかわらず、世界のどこかでずっと前に、誰より早く夜空へ刻まれていたかのように。
◆ ◆ ◆
やがて朝が訪れた。
翔太たちを別荘から市街地まで送り届けるバンを運転する瑚桃の父の肩はガックリとうなだれている。
それはそうだ。あんなひどい夜のあとじゃ。」
リビングはぐちゃぐちゃ。
それに拳銃を使ってしまった。
この後始末が大変だ。
「何よ、パパ! 全員、無事だったんだから、良かったじゃない!」
「いやでも瑚桃……。せっかくの別荘が……。修繕費が……」
「男らしくない! いつもの男気はどこへ行ったんですか~? ねえ、センパイも、うみちゃんセンパイもそう思いますよね!」
苦笑いする翔太。瑚桃の立ち直りの早さは一級品だ。いや、これも強がりかもしれない。
父や翔太を元気づけようとしているだけだろう。
この辺りの道は狭い。昭和から変わらぬ道路。細道。町並み。令和の時代ではなかなか見ることが出来ない住宅街だ。
「デルちゃん、あれって“人さらい地蔵”っていう怪異だったのよね?」
美優がデルピュネーに訊いた。
「左様でございます。美優様。山陰地方で知られる怪異でございます」
「山陰地方って、日本神話の舞台でもある場所よね。オオクニヌシの。そんな聖地にもあんな妖怪いるの?」
「ええ。妖怪というものは各地方にそれぞれ伝わっていますゆえ」
「そっか……。ここに現れても、不思議じゃないよね……水城なんだし。
……ねえ、デル。あの“人さらい地蔵”に囚われてた子たち……
あの魂も、もう解放されたんだよね?」
「…………」
デルは、あえて言葉を選ばなかった。
肯けば甘い嘘に、否めば重すぎる悲しみに。
そのどちらも──美優には、まだ似つかわしくない。
「そうだったら、いいなぁ。なんだか可哀想だったし」
美優はデルの想いに気づかぬまま、バンの窓を開けた。
暑い、だがすがすがしい潮風が一気に美優の顔に吹き付ける。
翔太は後部座席のシートベルトを固く握った。
「帰ろう」
それしか言えなかった。
胸の『カメア』が何かを伝えてくれている。
だからデルの沈黙の理由が分かったからだ。
感じた。
報われなかった子どもたちの涙の色を。その悲しき運命の終わりを──
(……守るための沈黙って、あるんだよな。
誰かが背負えば、誰かは傷つかずに済む──そういう種類のやつが。
父さんも、きっとそういう沈黙を、たくさん選んで生きてきたんだろう……)
バンは海岸線を超え、徐々に水城市内地へと近づいていく。
その水城市は亀裂による『カスケード』の影響により、ますますどんよりと瘴気が漂う場へと変貌している。
『カスケード』で滲み出した幽世の住人たち。
そして、土地そのものに根づいた妖怪や怨霊たち。
本来なら交わらないはずの両者が、いま──
ゆっくりと溶け合うように混ざり合っていた。
その混ざり方は、どちらの理でも説明できない。
“第二の理”でも“幽世の理”でもない、もっと古い“地の声”──
『第三の理』が、沈黙のまま、土の下で胎動していた。
まだ誰も、その名前の本当の古さを知らない。
この島国のどこかにだけ、かろうじて残り続けてきた、最初の夜の約束だということを──
「瑚桃の別荘から市街地へ戻る通過点・真網代。昭和レトロな家と町並み」
【撮影】愛媛県八幡浜市・真網代




