第67話 石にされた子どもたち
第67話
瑚桃は恐怖で声も出ない。
喉に鍵穴があって、鍵だけを誰かに飲み込まれたみたいだ。
尻もちのまま、床を──ずる、ずる……
自分が動いているのか、床に引かれているのか分からないほど弱い力で、這う。
二階へ……。早く寝室へ……!
だがただらぬ気配を感じてその方を見た。
大窓。その外側いっぱいに、地蔵の顔、顔、顔──
細い筋のような目孔が、“いっせいに”、瑚桃を追った。
(ひっ……!)
瞳はないはずなのに、しっかりとこちらを見ているのが分かる。
視線の温度がない。
波の音は遠のいて、虫の声だけが、耳の奥に針みたいに刺さる。
氷より冷たく、夜より濃い“無関心”だけが、こちらをなぞっていた。
早く……、早く、自分の部屋へ帰らなきゃ……!
息が浅い。肺に入れた空気が、胸の途中で固まって、出てこない。
瑚桃はようやく階段へ手をかける。だが、立てない。
指が震えて、段を掴みそこねる。爪の裏が、木材を引っかく。
一段。そして一段。
──止まった。
視線の先に、“足首だけが”、先に見えた。
それが石だと気づくまで、一秒の遅れがあった。
湿った夜気を飲んで、ひやりとした石肌。苔が薄く貼りついて、闇と静寂の強度を増す。
ゆっくりと見上げる。
そこに立っていたのは。
六本の腕を持つ地蔵が階段の影ごとせり上がってきた。
その無表情は、闇の中で“息だけがない像”のようだった。
首には、色の褪せた紐。鈴のような金具が下がっているのに、鳴らない。鳴らないのに、耳の奥で、ちり、と音がする気がした。そして。
『供養シないぽする逆賊ゆえの不届き者ヘロピは石になるアふガむ』
(え……?)
その地蔵が何か言葉を発した。
『攫う人、はるタソガくもまシロウイわかサスル連れていがムピロなむ』
古い祝詞が、欠けた歯で揉まれて、舌の上で崩れたみたいに、意味の形を保てていない。
そしてそれ《・・》は、六本の腕をうごめかせた。
冷たい掌が、瑚桃へ伸びる。影が重なる。
(いや……!)
反射で振り払った右手が、石の腕に当たる。
「ご」、と鈍い手応え。
六本腕の地蔵の重心がわずかにずれ──
ダンッ!
ガランッ!!
ゴロゴロゴロッ……!!
石地蔵が、階段を叩きながら、見事に転げ落ちた。
階段の板がきしみ、家全体が小さく震えた。
その時、家が反転したみたいに、空気が割れた。
ガシャァアアアアアン──ッ!!
一階の大窓が、内側へ花のように砕けた。
海風が一息に流れ込み、硝子の鳴き声が部屋の底で延びる。
地蔵が雪崩れ込んできたのだ。
ゴツン、ゴゴゴツン、ゴロン、ドカン!
前列の地蔵が倒れ、その背を、さらに地蔵が踏み台にして、ゆっくり、ゆっくり、あふれ入る。
何十体いるのか。
そのすべてが、瑚桃を、その瞳のない目で見る。
「なんだ、何があった!」
奥の部屋から、瑚桃の父・伸一郎が飛び出してきた。
そして、見た瞬間、固まる。
「こ、これは……」
今度は地蔵の目がいっせいに、伸一郎を見た。
「パパ、助けて!」
瑚桃の声で、伸一郎は我に返る。
引き返し、机下のバッグを引き寄せる。
拳銃。
金属の冷たさが、掌の汗に貼りつく。
安全装置。
(室内での発砲……背景、弾道、貫通、二次被害。正当防衛の立証。監督責任。報告書。記者会見。世論──)
頭の中で、規定が、条文が、次々に点滅する。
「撃てば終わる。撃たねば終わらない……どっちの終わりだ、これは」
だが、部屋の外では娘が、我が大切な瑚桃が震えている。
選んだ。伸一郎は“父”であることを選択した。
「ええい、ままよ!」
再びLDKへ飛び出し、拳銃を構える。一瞬、冷静になる。
今撃てば、弾は石を砕く。弾は弾かれる。弾いた先が瑚桃にならないよう狙いを定め……。
撃つ!
パン!
「ゴズッ」と鈍い音。
弾は見事、石の頭を撃ち抜いた。
地蔵の首がわずかに傾く──そして。
シューーーーー!
思わぬ光景に伸一郎はあんぐりと口を開けた。
その弾痕から、まるで壊れた水道のように血が噴き出したのだ。
(生命体……なのか……?)
顔は動かない。無表情のまま、血だけが流れる。
その不一致が、(怪異の証!)
伸一郎の表情が引き締まる。
続けざまに引き金を絞る。
ガン! ダン! ズン!
撃つ。撃つ。撃つ。
倒れない。
血だけがこのLDKを満たしていく。みるみるうちにそこは血の海地獄と化していた。
「倒れないとは……どういうことだ……」
信じられない。
(国際魔術会議のヤツらが言ってたのとは違った、聞いたことない現象!)
ミシッ、ミシッ。
地蔵の重みで床がきしむ。血の海で真っ赤な雫が跳ねる。
(確かに、報告書にも奇妙な怪談話みたいなもんはいくつかあった。それがこれか……! 一体、この水城で何が起こっていやがるんだ?)
水城市生まれなら、大抵はいくつかの怪異に遭遇している。だが、ここまでハッキリと実体化し、さらには血まで流す生命体のような怪異に遭遇するのは初めてだった。
しかし視界の端で、娘の肩が、震えている。
恐怖よりも、「守らなければならない」父性が勝る。
だがこいつらは死なない。
弾丸も尽きた。
入れ直さなければ。
取りに戻る時間は──ない!
伸一郎を、地蔵たちが囲んでいる。
(クソッ!)
その声を伸一郎を飲み込みかけ……。
「瑚桃ォォォォォォ!!!!!」
父の叫びが瑚桃の心の悲鳴と共振した。
その瞬間──音が消えた。
波も、風も、地蔵の足音も、何もない。
その中で。
シュッ!
突如、祈りの色のようなエメラルドの光が、一直線に走った。
遅れて風切り音。
途端に。
伸一郎に伸びていた腕が、肘からきれいに切れていた。
切り口は陶器みたいに滑らかだった。
そこから、血が伸一郎の顔へ勢いよく打ち付ける。
「くっ! ゴホッ! グボッ! な、な、なんだ……ブホッ!?」
すぐに瑚桃の周囲にいた地蔵たちもまとめて倒れる。バラバラに。石の体それぞれが。
その光景の中、伸一郎も瑚桃も指一つ動かせないでいる。動かせるわけがない。それほど異常な光景。
そこに女の子の声が響いた。
「ご無事でございますか? 瑚桃さま、お父さま」
この地獄に見合わぬ、温かくて穏やかで、おっとりした可愛らしい声。
──デルピュネーだった。
デルピュネーが一瞬で、そこにいた地蔵のほとんどを切り刻んでいたのだ。
「あ、あんたは……、あの……」
「デルです。──お下がりください! 伸一郎さま」
まだだ、と言わんばかりに、デルピュネーは、槍の石突……つまり、柄の底に嵌め込んでいた青い宝石を引き抜いた。
それを、宙に放る!
たちまち青い光が、部屋を縦横に走る。
光の中に、細い糸がかすかに見える。
そして見事に再びデルピュネーの手に戻る。
地蔵たちの動きが止まった。
時間が止まったかのようだった。
そこで部屋を縦横無尽に囲んでいたのは。
糸。
糸使いの術式。
魔法をコーティングされた特殊な鋼材で編まれた糸だ。
その糸を絡め、地蔵たちの動きを封じた。
そして。
デルピュネーは宝石に仕込まれていたその糸を、指で「ピン!」と弾いた。
糸が弾かれた音と共鳴するように。
バラバラバラッ!
石が裂ける音。
首が落ちる。胴が斜めに割れる。腕が転がる。脚が跳ねる。
切れたところから、血が、息をするみたいに脈を打って噴き、壁に、天井に、窓に、朱の霧が散った。
大量の血が噴き出る。まるで大きな血の噴水の中。あたり一面、血の海に呑まれる。
「こ、これは……」
伸一郎は血の雨の中で、目だけを動かす。
自分の頬を伝う赤が、自分のものなのか、石のものなのか、判別できない。
「まだです!」
そう言うと、デルは槍を返し、階段下の六本腕へ投げる。
まだ、いた。
六本腕が。
刃は空気を裂く。だが頭をかすめ、後ろの壁にビィィィンと突き立つ。
「──かわしたのですか……!」
そう、避けられたのだ。
とてつもなく速い。
他の地蔵とは明らかに違う。
『動クイこんなコトがある知らない逃げルダメこいつ誰だガジルロ』
欠けた声が、瑚桃と伸一郎を震え上がらせるほどの迫力を帯びた。
だが。
逃げた。
襲ってこずに。
それはまるで陸上選手のようなフォームだった。六本の腕が規則正しく宙を掻く。
膝が高い。そして何より速い!
脚で血を跳ねながら、あっという間に割れた窓から外へ駆け出す。
松の影を踏み、夜の闇に溶けていく。
撮った写真がブレて姿が滲む、あの残像のような歪みが見えるほどの速度だった。
「追います!」
すぐさまデルピュネーは階段へ飛んで、壁から槍を抜く。
跳ねた血が、背中に点々とついて、すぐに闇へ紛れていく。
デルピュネーが消えたあと。
そこに動いている地蔵は──もう一体もいなかった。
◆ ◆ ◆
LDK。
赤と硝子。石の粉。時計の秒針だけが、正気の音を保っている。
窓の外の潮騒は、さっきまでと同じ。だが寒い。
家の中だけが、別の季節に入ってしまったみたいだ。
その時になって、ようやく翔太と美優が二階の廊下へ出てきた。
「なんです……? 一体、何があった……?」
「すごい音がしたんですけど……?」
その寝ぼけ眼が、一息で削ぎ落とされる。
見下ろす。息が止まる。
血の海となったLDKに数え切れないほどの石の欠片たち。その光景が広がっていた。
「こ、これは……!?」
その翔太の声をかき消すように、一転、部屋全体の空気がおそろしく歪んだ。
ふらつく。たまらず目を強くつむる。そして再びまぶたを開けた時。
それは表れた。
二階まで吹き抜けになった天井に。
男の子。女の子。
色が薄い。古い映写みたいに、姿が揺れる。
皆、年はまだ小さい。
髪が濡れて見える。額に土の筋。唇は色がない。
そして。
首から下がない!
年端も行かぬ男の子と女の子の無数の頭だけが、宙に映し出されている。
「な、なに……これ……」
美優ですら、見たことがない現象。
ふいに、その子どもたちの誰かの口が、開いた。
『僕らは、さらわれた、だけなのに……』
古いフィルムに録音されたようなひび割れた声。泣いている。全員がすすり泣いている。
『僕らは、さらわれて、石にされただけなのに……!』
『おやすみって、言われたのに』
『まだ、ねむくないのに』
『おかあさん、むこうから呼んでたのに』
その声にだけ、“今も呼ばれたい”という未練が混ざっていた。
よく見ると、子どもたちの頭からは、へその緒のような紐が垂れていた。それが血の海に沈む石の破片につながっている。目を凝らさないと見えないほどの細さだ。
すすり泣きが少しずつ大きくなる。
そして全員が一緒に。
『どうして、僕たちを、殺したの……!』
そこにいる全員が息を呑んだ。
『なんで、これ以上、痛い想いをさせるのッ!!!!!!』
悲鳴の合唱。
呼応するように天井のシャンデリアが“裂け”、落ちた。
ガシャァアアアアアアアアアアアン──!
ガラスの破片が飛ぶ。
伸一郎と瑚桃は腕で庇う。ガラスが肌を切る。
切り口から、血が細い糸になって垂れる。
血の海に、星のように欠片が落ちる。
そのガラスの光は小刻みに震えているように、翔太には見えた。
静寂。
次に、子どもたちの生首が浮かんでいた場所にもう一度、目を遣る。
だが。
──消え失せていた。
子どもたちの泣き声ごと、跡形もなく。
まるで最初から何もなかったかのように。




