第65話 君の横顔
第65話
『第三の理』の”王冠”である陰皇が去り、夕暮れが訪れた。
そして。
大きなバンに乗って、このねずみ島に現れたのは、瑚桃の父・秋瀬伸一郎。
バンのドアが弾けるように開き、坊主頭とピチTと業務用クーラーBOXが、夕焼けの赤を無造作に押し返した。
「ガハハハ。翔太くん、美優ちゃん、実に久しぶりだなぁ! そうです。私が、瑚桃の父親で、ございます」
砂の上に車輪の跡が伸び、まだ停まる前から、この通る笑い声が波音を飲み込んだ。
そして、おどけて、ぺこり、と頭を下げる瑚桃の父。その体は、驚くほどよく鍛えられている。広い肩、厚い胸板、瑚桃の太ももより太い腕。美優のヒップほどの太さがありそうな、岩のような太腿。ピチピチTシャツに坊主頭。
いつ見ても圧倒されてしまう。
そんな瑚桃の父は、顔を上げると再び、ガハハハと豪快に笑った。
せっかくの人なつこい笑顔なのに、いくつもの傷痕が浮かんでいるのが怖い。
「もう、遅い~! パパ!」
瑚桃が頬を膨らませた。
「いやあ、すまないすまない。仕事が終わらなくてな」
「ママは?」
「んー。パパも誘ったんだがな。この機会に、溜めておいたドラマを一気観したいと言い出して……」
「あー。また始まった。娘とのバケーションより、相変わらずあの人は自分の趣味かー」
「あれは、昔から、そうだからなあ」
ガハハハ、と響くたびに、傷だらけの声帯のせいか、もはやほぼホラーだった。
「まあまあ、たまにいいじゃないか。ママだって仕事が忙しくて全然、趣味に時間取れないらしいからな。たまには、俺も女房孝行しないと」
そう言いながら、瑚桃の小さな背中をバンバン! あまりの剛力に瑚桃は前のめりにつんのめってしまう。
「もう! 何するのよ! パパ!」
「いやあ! もう我が娘ながら可愛くってな! ついついスキンシップしたくなっちゃうんだよ」
さらにバンバン叩かれ、瑚桃の体が砂浜に打ち飛ばされる。
「ふぎゅ」
砂浜に瑚桃の体が吹き飛ばされた後が残る。瑚桃は砂をぺっぺと吐き出しながら大声を出した。
「何すんだよ、このクソ親父!!」
「いやあ。すまんすまん」
呆気にとられてこのやり取りを見ているしかない面々。
「……なあ、美優。確か、瑚桃のお父さんって……」
翔太が美優にヒソヒソと話しかける。
「うん、確か、お巡りさん……」
これを聞いて瑚桃の父は背筋をピンと伸ばし、敬礼をした。
「現職、警視正・水城市警察署長。職務上の都合で本日の父性は通常の三倍となっております!」
「……!」
なんという出世コース。
しかもたったの数年で……?
さすがに瑚桃も恥ずかしがる。
「やめて! 父性に倍率つけないで! もう十分だから。うざ絡みはアタシの十八番なんだから!」
「ガハハハ! まあ最近はいろんな事件が起こってるから残業、残業でな。娘にもかまってやれなかったってわけよ。ゆえに! 今日は皆さんには存分に楽しんで帰ってもらう。それが署長として、父としての責務なのだ」
その瑚桃の父を見て、美優は翔太にしか聞こえないぐらいの小声でボソっとつぶやいた。
「こういう時だからこそ、瑚桃ちゃんのあの語彙が急に頼もしい……」
翔太は思わず吹き出した。
確かに、こういう時だけは瑚桃の語彙が頼もしい。
あんな存在を目の当たりにし、さらには理解の難しい世界の仕組みの話を聞いた後だと……
それにしても、瑚桃の父はこう見えて、相当優秀なんだろう。
叩き上げでキャリア組ではない。
かなりの成績を上げたか、相当上の人に気に入られたのか……
とりあえず美優は、突如、優しいお姉さん風に瑚桃に手を貸した。
「相変わらず、明るいお父さんね、瑚桃ちゃん」
美優の手を掴みながら瑚桃は答える。
「あー、うみちゃんセンパイもそー言いますかー。そーですよねー。誰でもそー言いますよねー。みんな。でもアタシはパパ大好き。だから、敢えてアタシもうみちゃんセンパイに言いますね。『え、明るいって犯罪でしたっけ、水城市は。うちのパパの人権、水城市民、認めてくれてます?』」
「いや責めてないし」と美優。
「認めてます」と翔太。
「認める~♪」と芽瑠。
「え~……?」
瑚桃だけはちょっと疑い気味だ。
これに気づいた翔太は瑚桃を慮って瑚桃を褒めた。
「さすが警察官の娘……。若干、こっちを加害者気味にしてきたな。やっぱすごいわ」
「ある意味、最強の親子ね。これは下手なこと言えないわ……」
これに、美優が続く。
それを聞いた瑚桃の父は、にんまりと笑った。
その笑顔には瑚桃の面影が少しある。
「まあ、まあ。愛する我が娘の先輩方には、しっかり楽しんでもらうつもりだから。期待しててくださいよ、ネ!」
その顔でこんなこと言われても逆に怖い。
「バーベキューセットに、牛肉、豚肉、鶏肉、羊肉! 野菜、とうもろこし、南国のフルーツ、ラストは皆で花火大会! ん~? どうです~? 楽しそうでしょう~?」
「あ、あの。あまり顔近いと怖いです」
と美優は引き気味に言う。
その背後で、芽瑠だけが飛び跳ねて喜んでいた。
「やったー! バーベキュー! フルーツ! 花火~♪」
◆ ◆ ◆
瑚桃の父が用意してくれたバーベキューの食材は、どれも上等だった。
火も炭火。備長炭を豪華に使い、次々と焼き上げていく。
炭がぱちと爆ぜるたび、肉の断面から月の雫みたいな脂が滲む。
噛めば、塩と煙が握手する。
「美味しい……」
美優も目を丸くする。
炭の香りもさることながら、そもそも素材が良い。間違いなく高級品だ。
「でしょー! でしょー! うちのパパ、こういうアウトドア系は得意なんですよねー! あと顔の怖さも!」
自慢げな瑚桃。
フルーツも、オレンジ、マンゴーさまざま。
だが、何かやたらと毛が生えた謎の物体が……
「ああ、これですか。これは、ランブータンと言ってな。東南アジアではメジャーな果物なんですよ。『毛』を意味するマレー語“ランブッ”が語源で――つまり“毛むくじゃらの果物”。ナイフで切り込みを入れて剥いて食べたら、これがもう美味いのなんの! 毛むくじゃらに見えて可食部は天使。それがこのランブータンで……ございます」
知識をひけらかしたいのだろう。その言葉を背に、翔太が切り込みを入れると、中からは本当に白いライチのような果実が飛び出してきた。そして。確かに。匂いもいい。食欲をそそる。
おそるおそる口に入れてみると……
「旨い!」
思わず翔太は叫んだ。
ライチのようでライチじゃない。
いや、さらに酸味と甘みが上品で、ライチの上位互換と言っても過言ではない。
「そーでしょーそーでしょー」
と瑚桃が次々とランブータンを剥いていく。
「これ、見た目、超グロいんですけどね。ライチとはまた違った香りがあって、美味しいんですよ。まー何事も、見た目だけじゃ分からないってことですね。瑚桃は外見も中身もプリティですけど」
「……なんて言うか……。見直したと思っても、最後に台無しにする天才だなお前は」
「なんですか! センパイ! せっかく可愛い後輩が盛り上げてあげてるっていうのに~! ってかアタシ、見直されることしました? じゃあ見直したままにしといてください!」
またぷうっと膨れる瑚桃。
その後ろでは芽瑠がマンゴーに真剣にかぶりつき、必死な表情で大格闘をしていた。
「ムグムグムグ」
そんな芽瑠に皆、目を引かれる。
結局、芽瑠には誰も敵わない。そこにいる誰もが思わず笑顔になった。
そして、バーベキューが終わったら……定番を逃す手はない瑚桃の父ではない。
現職、警視正・水城市警察署長。その総力を集めた、特別花火大会だ。
とにかく、花火の量がえげつない。さらに明らかに普通の市販のものではなく、特別製。
この日の為に、知り合いの花火師が、お得意さんにだけ配る代物だと瑚桃の父は説明した。
すでに浜辺は薄暗い。
そして瑚桃の父は、翔太らに花火を楽しませている間に、明かりもろくにないまま、テキパキとバーベキューセットを片付けていく。
束の間の幸福な時間。
そこにいる誰もが、ここ昨今の水城市で起きた凄惨な事件のことを忘れていた。
「砂浜で花火なんて、何年ぶりだろ……」
花火に火が移る音は、何かがほどけていく速度に似ていた――遅いのか早いのか、判然としない。
美優の指がマッチの赤い粉をはらい、火が小さく霧散する。
その美優の横顔が花火に照らされる。翔太は見惚れそうになってしまう。
「童心に戻るってこういうことね」
やわらかそうな手。その細くしなやかな指でつままれている花火。
たまに目が合う。そのたび、翔太はドキリとしてしまう。
美優としては深い意味なんてないのだろう。だが今の翔太にとって、美優にどんな顔をして、美優の視線にどう応えたらいいのか、分からなくなってしまっていた。
だがそれは、表に出さないだけで美優も同じだった。
美優が放つ言葉は意味を失いながら波間へ運ばれ、海へほどけていく。
会話にならない会話が続いた。
確かに話は紡がれるが、それはまるで風のように透明になる。
花火を見つめながら話している翔太。
美優はチラと翔太を見る。
その横顔の顎のラインも、その下に見える立派な喉仏も。
花火の灯りでそれがくっきりと影になって浮かび上がり、翔太が“弟的存在”から“男”になったことを、ありありと映し出す。
たくましくなった。
確かに、まだ、どこか心の弱さは見える。
だけど、こうやって外見だけ見ると……。
話しかける前に、花火がぱっと弾けて、言葉の居場所がなくなったかような感覚。
目が合う。合ってしまう。
逸らす。火の粉が落ちる。指先が少しだけ逃げ遅れる。
美優は思う。
今、ビキニの上に水色のパーカーを羽織り、今、こうして翔太の横にいる。
成長してちょっぴり強くなって、声も低くなって。
幼少期の翔太との思い出が白黒写真になったかのような距離さえ感じる。
でも……。
突如、心に亀裂が走り、そこに、あの《・・》事件の翔太が映し出された。
事件の影は、硝煙の匂いに紛れて、喉の奥の方で蘇ってくる。
彼の額の“第三の目”――人体の配列がおかしくなる、あの恐怖。
怖くない、怖くない。小さく唱えるだけで、手の震えはマシになる。
でも。
美優も決して忘れることが出来ないあの事件。
美優でさえ、そうなのだ。
あの事件がどれだけ翔太を戸惑わせ、そして悩ませているのか。
普通の高校生でありたかったに違いない。
普通に大学受験をして、就職活動、就職。
そして普通に恋をして、もしかしたら結婚……
そこまで考えて、ハッと美優は現実へ引き戻された。
(恋……)
そう、恋。
二人とももう高校生だ。
自分はともかく、翔太がいつ、誰かに、恋をしてもおかしくない。
急に切なくなって美優は翔太を見た。
まるで心が通じたように、翔太の花火を見つめていた目もこちらを向いた。
目が合った。
二人はその視線を外せない。
美優は思う。
その目の奥に、どんな想いが隠されているのか……
やがて翔太は照れるようにして、うつむいた。
美優も花火に目を戻した。
私は、いつまで、こうして、翔太くんの横にいられるのだろう。
『濃霧』、サバトの悪魔、栗落花淳、そして多くの同級生たちの死。次々と起こる水城市での怪異現象。猟奇事件。
私たちは普通の学生生活を送っていたはずなのに。
それまで、退屈なほど、何もなかったのに。
私たちの進む道は。
いつの間にか。
血でべっとりと穢れている──!
陽はすっかりと暮れ、夜の真っ暗な海に、月に照らされた光の筋が一本、走る。
芽瑠と瑚桃は、花火で大はしゃぎしている。
瑚桃が両手に花火を持ち、着火したままでクルクルと回転する。
芽瑠は、手を叩きながらそれを見てケタケタと笑っている。
緑の火は海藻の色で、赤は体温に近い。
空の高いところで、光がひと呼吸だけ遅れて咲く。
そのわずかな遅れが、胸の奥の“好き”に触れるようで、美優は息をのんだ。
美優の持つ花火の火薬が力尽きて、火が消えた。
この、消えゆく花火のように。
私たちのこの関係が、ふと、理不尽に、消えてしまうこともあるのだろうか──
◆ ◆ ◆
デルピュネーにとっては、これが初めての花火遊びだったようだ。
「とても、美しいものなのですね……☆」
そう、うっとりするデルピュネーのエメラルドグリーンの瞳が、花火の明かりで宝石箱のようにさまざまな色の光を反射している。
「よーし! そろそろ大物を打ち上げるぞ~!」
瑚桃の父が、噴き出し花火や打ち上げ花火を大量に抱えて、美優たちの所に近づいてきた。
瑚桃も芽瑠も大騒ぎして、その周囲に駆け寄る。
瑚桃の父は、空き瓶に打ち上げ花火を差し込んだ。そしてライターで火をつけ、すぐ遠ざかる。
ジュッ……
数秒。
一本の光の矢が夜空へ向かって放たれた。
そして。
想像以上に、大きな花火が夜空にその美しい花弁を散らしていく。
「たーまやー!」
瑚桃が甲高い声を上げた。
打ち上げ花火は次々と空高く舞い上がっていき。
そして、小さな閃光と、小さな爆音を残して、闇の中に希望のような光をいくつも灯した。
キレイだった。
赤や紫、緑の小さな火花が。
パラパラと舞い散り、夜空を異世界のように彩るその輝きが。
こんな普通の日常が。ありふれた夏の楽しみが。
いつまでも続くようには感じられなかった。
それが、美優にとっては、痛かった。
心の中で、自分の居場所を失っていた。
迷い子のように、心の闇の中を、手探りで彷徨う。
そんな侘しさや怖さが、美優を襲う。
火が尽きる。線香花火みたいな最後の粒が落ちる。
美優は、言えるはずの言葉を一つ、指の中で丸めてしまう。
そして自分の胸の前で右手を握りしめた。
その手が微かに震える。
そんな美優の横顔を、右手を。
翔太はただ、黙ってじっと、見つめていた──
◆ ◆ ◆
ひとしきり遊んだ後、翔太たちは、瑚桃の父のバンで別荘まで運んでもらった。
バンのヘッドライトが松の幹を白黒写真にしていく。
そして到着した先は……。
おそろしく立派な西洋建築の建物だった。
こんな片田舎では、見たことがないようなモダンなデザイン。
「わーい」
見るなり、芽瑠は飛び上がった。
別荘の中に灯りがつき、全員がそこへ入った。
玄関灯が点くと、家は息を吹き返したように感じられた。
自分たちしかいないのに、そこに“生”の気配が灯り、美優はやっと生きた心地を取り戻した。
海水浴、バーベキュー、花火。
そして。
高級ホテルにも負けない、今夜の宿。
そこで本格的な“夜”が始まる。
そして――“闇”の本番が。
翔太、美優、瑚桃たちの足元へ、静かに、確実に、忍び寄っていた。
「瑚桃の別荘へ向かう道。右手の坂を上った先にある」
【撮影】愛媛県八幡浜市・真網代の海岸線




