第64話 九天の王
第64話
青が消えた。
空が、ない。
黒だけが、頭上に貼りついている。
さっきまでの雲とは違う。
雨雲とも違う。
動かない。
落ちてこようとしている。
その黒のまん中が、割れた。
裂け目みたいな筋が、ゆっくりとほころぶ。
中から、“目”が、ひらいた。
一つだけ。
丸い穴みたいな黒の瞳。
見返すことを、許さない視線。
その単数の視線は、見ているというより、量っていた。
見られるだけで、光が飲まれる。地平が、上下ひっくり返ったような錯覚に陥る。
足裏の砂が遠のき、重力の向きが分からなくなる。
翔太は、かすれそうな声で、やっとのことデルへ尋ねた。
「デル……。あれも魔界の……?」
「いいえ。翔太さま」
デルピュネーの声もいつもと違う。話し口調は変わらず穏やかだが、鬼気迫る緊張が混ざる。
「あの類は、情緒体にも記録がございません。位相が合わないのです。ただ……」
「ただ?」
「“同じ世界のもの”として、きちんと形を掴めない、という意味でございます」
「よく……分からない……」
「幽世の最高クラスの神に並ぶやもしれず、それを横合いから無視できる力──。わたくしでは、おそらく、相手を認識し終える前に終わります」
「つまり」
「瞬殺……でございます」
「デルが……!?」
デルピュネーの実力を知っているからこそ、その告白が信じられない。
「アレが攻撃へと転じれば、顔を見た時には、もう敗北している……そんな相手でございましょう」
明らかな本音だということを本能的に翔太は感じる。
「お気をつけ下さい、翔太さま。敵意そのものは感じられませんが、アレは確実に翔太さまに目をつけています。正確には、翔太さまの、その“魂”の形に」
翔太は、宙でたなびく指環を握りしめる。
警戒の光がその指の間から漏れる。
俺の“魂”の形──
翔太があの時、見せられたのは、エジプトの古代神・太陽神ラーと、世界を破壊する666の獣=反キリストが、互いを喰い合っている姿だった。
一つの魂の中で、神と獣が引き裂き合っているような光景。
(666の獣……)
栗落花淳事件のことがあったとはいえ、正直、翔太自身では、その実感が薄い。
自分がそんなだいそれた存在であることが、どこかで信じられない。
だが、あんな巨大な瞳孔で見つめられると──
──俺が、一体、何したっていうんだ……
なぜ、デルさえ恐れる化け物に、この夏の一時が、ここまで危険にさらされなければならないのか。
自身の中に巨大な破壊のエネルギーが隠されている感覚がじわじわと心を蝕んでいく。
生の熱と死の冷たさが、同じ指先で脈を打つ。
翔太の心が強い不安で締めつけられ、どんどん浅くなっていく呼吸に耐えられなくなったその時である。
砂の熱がいきなり弱まった。
木陰の匂いが、松脂とともにすっと流れ込む。
「デル、槍を納めろ。刺激は要らない」
突然、背後からの声。
足音はしない。声だけが先に到着した。
金縛りがとけたようになり、慌てて振り返る。
その声の主は魔王ベレス。成宮蒼、その声だった。
夏にもかかわらず、相変わらずの全身黒スーツ。長身に長い髪。切れ長の目……
味方だと語るが、真意は分からぬ悪魔。
「ベレスさま!」
「蒼さん……」
魔王ベレスはデルピュネーの横まで静かに歩いて近寄った。
そして、デルピュネーの槍に、軽く上から手を添える。
「ベレスさま……この手は一体……?」
そんなデルに魔王ベレスは優しげな口調で言う。
「安心しろ、デル。アレは僕の旧知の仲の者だ。警戒を解け。手を出してくることはないよ」
そうは言うが、ベレス自体が慎重な言動を心がけているように翔太には見える。
まさかこの魔王をして、恐るに足る存在……?
その翔太の疑問をデルが代弁するかのように質問する。
「ベレスさま、失礼ながら力を隠しきれてないご様子。あの者をご存知なのですか?」
「ああ」
ベレスの表情も固い。
そしていつもより厳しめの声色でこう言った。
「ヤツは九天の王。読みは二つある。陰皇、あるいは陰皇」
「陰皇……でございますか」
聞いたことがない……デルピュネーの表情が物語っていた。
あれだけ怪異にくわしいデルピュネーですらまだ知らない存在。
ベレスは、そんなデルの頭をぽんぽんと叩いてから、その空の目を睨みつけた。
陰皇もギョロリとベレスを見る。
二人の視線がぶつかった先で、何かが弾けた気がした。
ベレスはデルに説明を続ける。
「そうだよ、デル。彼の名……“陰”は、“隠”るの古訓。“この世ならざる者を意味する。いわば“鬼”の語源だ。つまり、幽世ではなく、この世に棲む魔の者たち。それを統括する存在という意味から、陰皇と呼ばれている」
「わたくしの知らぬ”王”……」
「いわゆる呼称だね。現れることは滅多にないのだが……。実は僕も、アレとは手合わせをしたことはない。だが、幽世の者でアレに勝てる者は見当たらない。今の僕ですら分からない」
「ベレスさまも、ですか……!?」
「そうだね。この世と幽世、その二つの概念の外側にいる、『第三の理』の存在だから、謎は多いんだよ……まあ、迂闊に手を出さない方がいい」
ここで翔太に疑問が浮かんだ。率直に聞く。
「……蒼さん。もしかしてあれが、前回の『カスケード』で来たヤツってことは?」
「いや、それは違う、翔太くん」
ベレスは優しく微笑んだ。
「さっきも言った通り、アレは幽世の者じゃない。『リリン』が生まれるより前から、この世に存在していた者だ。人間界では、どの文献にも記述はない」
「つまり、元々ここにいる存在……?」
素朴な疑問にベレスは言葉を選びながら、「今は、理解しなくてもいい。聞き流してもいい。理解できるところだけ覚えておいてほしい」と前置きしてから、ゆっくりと答えた。
「ちと、複雑な話になる。……神や悪魔──すなわち『リリン』は幽世の存在だ。幽世の神魔は“法則の書”の上で動く。だがこの世の在来の魔は、土着の無名の怪異と言っていい。祀られぬものども。名がないゆえ、法則の縛りも薄い。陰皇は、それら無名の者たちの総意が形になった“王冠”と言える」
確かに、翔太には意味がよく見えてこない。
「だが、アレが人類や歴史に手を出したという話はない。アレは、”いる”だけ。ただそれだけで、この世を統括できる存在なんだよ」
「つまり、蒼さんたちとは別の次元の存在?」
そう尋ねたのは美優だ。
「そんな話、私、お父さんから聞いたことありません」
「それは、人間には見分けがつかないからね」
ベレスは微笑を浮かべながら静かに答えた。
「怪異について、人類が知らないことはまだまだ多い。魔術や錬金が科学へと進化してからは特にそうだ。もっとシンプルに言えば、『カスケード』が起こらなくても、アレらはこの世にいる。古代も古代、太古からの先住民。すなわち『第三の理』。僕も、これまで数回しかお目にかかったことはないよ」
その横では、瑚桃が完全に腰を抜かしていた。
無理もない。瑚桃はまだ怪異に慣れてない。
芽瑠はまだ幼いからだろう。スコップで砂を掘って遊んでいる。「落とし穴~♪ 落とし穴~♪」
「では、ベレスさま。アレは、なぜ今、ここに姿を現したのでしょう」
今度はデルピュネーが質問した。
「わたくしはベレスさまより様々な知識を得ました。そんなわたくしでも知らないこの世の『王』。それが何をしにここへ?」
ここでベレスは驚くべき事実を口にした。
「それはこの地が、彼の巣だからだ」
──巣……!?
翔太は驚いた。
どうしてこんな四国の片田舎なんかに……
「それは……なぜですか? やはりこの地が……」
「ああ。古代メソポタミア人もあれに導かれてこの地に来た。なぜだか知っているかい? この地はそもそも神に由来する地なんだ。さらには、彼ら古代人がたどり着いた場所」
そこにいる誰もが、ベレスが何を言っているのか理解できない。
ベレスは当たり前といった風で、なぜか、日本神話についての解説を始めた。
「日本国の『古事記』。そこに記されているのは、イザナギ、イザナミの夫婦神が最初に作った島が淡路島だということ。次が、この四国だ。その名を伊予之二名島という。四国の由来は、この伊予之二名島に“四つの顔”があったからだ。その神の一つの名が、愛比売。すなわち、愛媛なんだよ。名の意味は“うるわしい女神”。いわば、ここは『聖女』の聖地でもある」
「『聖女』の地……」
「愛媛は、日本都道府県47のうち唯一、“神”の名を冠した地。いわば『聖女』の『聖地』。ヤツがこの地を住処に選んだのは、それもある」
正直、成宮蒼というこの青年が何を伝えようとしているのか、現状では翔太には分からない。
だが彼は、「それ”も”」と言った。
『聖女』の『聖地』──他に、何か理由が……?
その翔太に、ベレスが目を向ける。
「そこで、だ。翔太くん。なぜ、ヤツが今、姿を表したか……」
「……ええ……」
翔太の肩はすくみそうになる。今度は、どんな恐ろしいことを明かされるのか。
だがベレスの言葉は完全に翔太をぽかんとさせた。
「単に、興味があったんだと思うよ。翔太くんに、ね」
「は?」
思わず聞き返したくなる。
──それだけ?
「王様の“暇つぶし”に選ばれた、くらいの感覚でいい」
暇つぶしで、これは、あまりにも大げさだ。
「王は退屈に耐えない。彼はこの水城という場所の監視人でもある。そして、彼が守護しようとしているこの地に生まれる獣を警戒もしている……。だがそれは安心していい。その指環は、翔太くんの覚醒と正体を隠す防御壁にもなっている。故に、陰皇も翔太くんを測りきれず、ただ自分よりも強いかもしれない存在が表れたこと。これが珍しくて、見学に来ただけなんだよ」
この言葉を聞いて美優の脳裏に、あの光景がフラッシュバックした。
栗落花淳。
囚われの美優。
気味悪い固有結界のなかで、翔太の額に開いた“第三の目”。
その瞳に刻まれた“666”の刻印──。
(翔太くんが……あの、目玉の化け物より……強い……)
美優は顎をわずかに上げ、翔太を見て、視線を一度だけ外す。
(怖くない。怖くない──)
その言葉で手の震えが止まる。
翔太も混乱している。
なにせ、いまだ自覚がない。
翔太は単に普通の人生を歩みたいだけだった。
大学に進学し、就職をし、そしていつかは誰かと結婚して子どもを作り、子や孫に看取られながら自身の生を終える。自分の子どもが見たかった。孫も見たかった。
過去のいじめの経験もあり、「これだ」という強い意志も目的も持てずにいた。
だから心の底から求めるのは『平穏』。
成長して体格も人並みになり、いじめられなくなった今。
それだけでも幸せを、『平穏』を感じていたのに。
両親の事故死、頻発する『カスケード』、栗落花淳事件、そして新聞で特集されていた謎の「商店街大量死体遺棄事件」。ただでさえ『平穏』が遠のいていく。
(いつか、蒼さんが言っていることを俺が理解できる日が来るのか……?)
おそらくその時は、翔太の『平穏』への夢が遠ざかってしまった日なのだろう。
その翔太の悲しみにも似た、心の動きに気づいた者がいた。
瑚桃だ。
(センパイの背中……)
瑚桃の瞳が翔太の背中に注がれる。
(なんだか、泣いてるみたい……)
瑚桃は砂を払うふりで、そっと翔太の肘に触れた。
(泣かないで、って言えたらな)
声にはしない。無理に作った笑顔の角度だけを上げる。
瑚桃の胸がキュンと痛んだ。
苦しくなった。
──アタシに出来ることはないのだろうか。
瑚桃の胸の内には、幼いながらも小さな母性の芽生えがあった。
それにしても、この成宮蒼という人が話していることは正直、よく分からない。
でも、ベレスとも呼ばれてもいる。
そもそも何者なのか。どうやらデルピュネーの主人であることは分かるが。
「ともかく、今は、アレにはそうそうに退散してもらおう」
そのベレスが、ゆっくりと翔太たちの前へと歩み出た。
そして大きく手を掲げ、その目玉に呼びかける。
「九天の王よ。陰皇と呼ばれ、陰皇と畏れられる者よ。この者は、我が庇護し、管理をしている存在だ。決して、『王』に危害を加えないという約定を今、この魔王ベレスの名において結ぼう。旧知の友の言葉に免じて、今はこの場を去ってもらいたい」
陰皇は、ベレスを睨みつけた。
消える気配はない。
「聞こえないのか。陰皇よ! 今はまだ、お前の出番ではないと言っているのだ!」
魔王ベレスと九天の王。
強大な存在の睨み合いは数秒続いた。
だが、その緊迫の対峙は、あっさりと幕を閉じる。
陰皇の目が、まるで、眠りの礼をとるように。
ゆっくりとまぶたを閉じていったのだ。
陰皇の姿が完全に消えていく。
そして、“それ”がいた場所に、まばゆい光が走る。
その光を中心に、うごめく不穏な暗雲は、そこから広がる光の輪に呑まれるように消え。
もとの夏空に戻った。
砂浜に残された翔太たち。
デルピュネーはいつもの平穏な表情を取り戻していた。
「ベレスさま、ありがとうございました。デルでは手に負えなかったでしょう」
「いや、いい。それも僕の役目だ」
「ところで、でございます。アレが現れたのは、今現在、極小の『カスケード』が水城市内で口を開いているこの状況。何か関係があるのでしょうか」
ベレスは一度目を伏せ、それが海を見やりながら答える。
「それは僕にも分からない。そもそも前回の『カスケード』で、何がこの世に来たのかも分かってないんだ。あらゆる面において、警戒するにこしたことはない。とにかく今、翔太くんのことが彼に露見したとしたら、それは最悪の事態となる」
「……わたくしで、翔太様を守りきれるでしょうか」
陰皇への恐怖に、すっかり自信を失いかけているデル。
そんなデルピュネーの頭にぽん、とベレスは再び、やわらかく手を置いた。
「いや。実際、デルはよくやっている。これからも翔太くんのボディーガード、頼んだよ」
その言葉に、デルピュネーはベレスを見上げる。
ベレスは優しい微笑みをデルピュネーに返す。
そして。
「はい」
デルピュネーは、心底うれしそうに、そう返事をした。
◆ ◆ ◆
だが、実はベレスには、そこでまだ明かさなかったことがあった。
『カスケード』の活発と共鳴するように、『第三の理』に属する“魔”が動き始めていること。
その第三勢力が、この水城市に、次の悲劇をもたらそうとしていること。
砂浜を離れ、ベレスは再び林の中のセイレーンの元へと戻った。
「陰皇が姿を現した。あまり良くない予兆だ」
「存じております。ベレスさま」
セイレーンはうやうやしく頭を下げる。
「ですが、陰皇は、本当に我々、幽世の『リリン』たちや、北藤翔太、あの者に危害を加える可能性はないのでしょうか?」
「それはない。”今の状態”ならな」
ベレスは素直なところを述べた。
「バフォメットの結界が”目視不可”の属性を持っていたのは不幸中の幸いだ。ヤツは直接、”獣”が表れたことを認識できていない。だが、それでも、僕たちが考えているより、ずっと酷いことが起こるかもしれない。だから見逃すな。小さな狂いは、大きな破局の種になる」
「仰せのままに」
「その為に必要なのは、変わらず、北藤翔太の『平穏』だ。その『平穏』を我々が取り戻さなければならない」
そうなのだ。
もし、“反キリスト”が、完全に翔太を支配してしまったら。
この世界は、確実に。
幽世も。
陰皇ら『第三の理』もまとめて。
終わる──




