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幽世のリリン  作者: R09(あるク)
第二章 怨霊編~胎児よ、胎児、湖面はそこだ

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第64話 九天の王

第64話


 青が消えた。

 空が、ない。

 黒だけが、頭上に貼りついている。

 さっきまでの雲とは違う。

 雨雲とも違う。

 動かない。

 落ちてこようとしている。


 その黒のまん中が、割れた。

 裂け目みたいな筋が、ゆっくりとほころぶ。

 中から、“目”が、ひらいた。


 一つだけ。

 丸い穴みたいな黒の瞳。

 見返すことを、許さない視線。


 その単数の視線は、見ているというより、量っていた。

 見られるだけで、光が飲まれる。地平が、上下ひっくり返ったような錯覚に陥る。


 足裏の砂が遠のき、重力の向きが分からなくなる。

 翔太は、かすれそうな声で、やっとのことデルへ尋ねた。


「デル……。あれも魔界の……?」

「いいえ。翔太さま」


 デルピュネーの声もいつもと違う。話し口調は変わらず穏やかだが、鬼気迫る緊張が混ざる。


「あの類は、情緒体アストラルにも記録がございません。位相が合わないのです。ただ……」

「ただ?」

「“同じ世界のもの”として、きちんと形を掴めない、という意味でございます」

「よく……分からない……」

幽世かくりよの最高クラスのリリンに並ぶやもしれず、それを横合いから無視できる力──。わたくしでは、おそらく、相手を認識し終える前に終わります」

「つまり」

「瞬殺……でございます」

「デルが……!?」


 デルピュネーの実力を知っているからこそ、その告白が信じられない。


「アレが攻撃へと転じれば、顔を見た時には、もう敗北している……そんな相手でございましょう」


 明らかな本音だということを本能的に翔太は感じる。

 

「お気をつけ下さい、翔太さま。敵意そのものは感じられませんが、アレは確実に翔太さまに目をつけています。正確には、翔太さまの、その“魂”の形に」


 翔太は、宙でたなびく指環カメアを握りしめる。

 警戒の光がその指の間から漏れる。


 俺の“魂”の形──


 翔太があの時、見せられたのは、エジプトの古代神・太陽神ラーと、世界を破壊する666のけもの=反キリストが、互いを喰い合っている姿だった。


 一つの魂の中で、神と獣が引き裂き合っているような光景。


(666の獣……)


 栗落花淳事件のことがあったとはいえ、正直、翔太自身では、その実感が薄い。

 自分がそんなだいそれた存在であることが、どこかで信じられない。

 だが、あんな巨大な瞳孔で見つめられると──


 ──俺が、一体、何したっていうんだ……


 なぜ、デルさえ恐れる化け物に、この夏の一時ひとときが、ここまで危険にさらされなければならないのか。


 自身の中に巨大な破壊のエネルギーが隠されている感覚がじわじわと心を蝕んでいく。


 生の熱と死の冷たさが、同じ指先で脈を打つ。

 翔太の心が強い不安で締めつけられ、どんどん浅くなっていく呼吸に耐えられなくなったその時である。


 砂の熱がいきなり弱まった。

 木陰の匂いが、松脂まつやにとともにすっと流れ込む。


「デル、槍を納めろ。刺激は要らない」


 突然、背後からの声。

 足音はしない。声だけが先に到着した。


 金縛りがとけたようになり、慌てて振り返る。

 その声の主は魔王ベレス。成宮蒼なりみやそう、その声だった。

 夏にもかかわらず、相変わらずの全身黒スーツ。長身に長い髪。切れ長の目……

 味方だと語るが、真意は分からぬ悪魔。


「ベレスさま!」

そうさん……」


 魔王ベレスはデルピュネーの横まで静かに歩いて近寄った。

 そして、デルピュネーの槍に、軽く上から手を添える。


「ベレスさま……この手は一体……?」


 そんなデルに魔王ベレスは優しげな口調で言う。


「安心しろ、デル。アレは僕の旧知の仲の者だ。警戒を解け。手を出してくることはないよ」


 そうは言うが、ベレス自体が慎重な言動を心がけているように翔太には見える。

 まさかこの魔王をして、恐るに足る存在……?

 その翔太の疑問をデルが代弁するかのように質問する。


「ベレスさま、失礼ながら力を隠しきれてないご様子。あの者をご存知なのですか?」

「ああ」


 ベレスの表情も固い。

 そしていつもより厳しめの声色でこう言った。


「ヤツは九天くてんの王。読みは二つある。陰皇おんのう、あるいは陰皇いんのすめらぎ

陰皇いんのすめらぎ……でございますか」


 聞いたことがない……デルピュネーの表情が物語っていた。

 あれだけ怪異にくわしいデルピュネーですらまだ知らない存在。

 ベレスは、そんなデルの頭をぽんぽんと叩いてから、その空の目を睨みつけた。


 陰皇いんのすめらぎもギョロリとベレスを見る。

 二人の視線がぶつかった先で、何かが弾けた気がした。

 ベレスはデルに説明を続ける。


「そうだよ、デル。彼の名……“陰”は、“おぬ”るの古訓。“この世ならざる者を意味する。いわば“鬼”の語源だ。つまり、幽世かくりよではなく、この世に棲む魔の者たち。それを統括する存在という意味から、陰皇いんのすめらぎと呼ばれている」

「わたくしの知らぬ”王”……」

「いわゆる呼称だね。現れることは滅多にないのだが……。実は僕も、アレとは手合わせをしたことはない。だが、幽世かくりよの者でアレに勝てる者は見当たらない。今の僕ですら分からない」

「ベレスさまも、ですか……!?」

「そうだね。この世と幽世かくりよ、その二つの概念の外側にいる、『第三のことわり』の存在だから、謎は多いんだよ……まあ、迂闊に手を出さない方がいい」


 ここで翔太に疑問が浮かんだ。率直に聞く。


「……そうさん。もしかしてあれが、前回の『カスケード』で来たヤツってことは?」

「いや、それは違う、翔太くん」


 ベレスは優しく微笑んだ。


「さっきも言った通り、アレは幽世かくりよの者じゃない。『リリン』が生まれるより前から、この世に存在していた者だ。人間界では、どの文献にも記述はない」

「つまり、元々ここにいる存在……?」


 素朴な疑問にベレスは言葉を選びながら、「今は、理解しなくてもいい。聞き流してもいい。理解できるところだけ覚えておいてほしい」と前置きしてから、ゆっくりと答えた。


「ちと、複雑な話になる。……神や悪魔──すなわち『リリン』は幽世かくりよの存在だ。幽世かくりよ神魔リリンは“法則の書”の上で動く。だがこの世の在来の魔は、土着の無名の怪異と言っていい。まつられぬものども。名がないゆえ、法則の縛りも薄い。陰皇いんのすめらぎは、それら無名の者たちの総意が形になった“王冠”と言える」


 確かに、翔太には意味がよく見えてこない。


「だが、アレが人類や歴史に手を出したという話はない。アレは、”いる”だけ。ただそれだけで、この世を統括できる存在なんだよ」

「つまり、そうさんたちとは別の次元の存在?」


 そう尋ねたのは美優だ。


「そんな話、私、お父さんから聞いたことありません」

「それは、人間には見分けがつかないからね」


 ベレスは微笑を浮かべながら静かに答えた。


「怪異について、人類が知らないことはまだまだ多い。魔術や錬金が科学へと進化してからは特にそうだ。もっとシンプルに言えば、『カスケード』が起こらなくても、アレらはこの世にいる。古代も古代、太古からの先住民。すなわち『第三のことわり』。僕も、これまで数回しかお目にかかったことはないよ」


 その横では、瑚桃こももが完全に腰を抜かしていた。

 無理もない。瑚桃はまだ怪異に慣れてない。

 芽瑠はまだ幼いからだろう。スコップで砂を掘って遊んでいる。「落とし穴~♪ 落とし穴~♪」


「では、ベレスさま。アレは、なぜ今、ここに姿を現したのでしょう」


 今度はデルピュネーが質問した。


「わたくしはベレスさまより様々な知識を得ました。そんなわたくしでも知らないこの世の『王』。それが何をしにここへ?」


 ここでベレスは驚くべき事実を口にした。


「それはこの地が、彼の巣だからだ」


 ──巣……!?


 翔太は驚いた。

 どうしてこんな四国の片田舎なんかに……


「それは……なぜですか? やはりこの地が……」

「ああ。古代メソポタミア人もあれに導かれてこの地に来た。なぜだか知っているかい? この地はそもそも神に由来する地なんだ。さらには、彼ら古代人がたどり着いた場所」


 そこにいる誰もが、ベレスが何を言っているのか理解できない。

 ベレスは当たり前といった風で、なぜか、日本神話についての解説を始めた。


「日本国の『古事記』。そこに記されているのは、イザナギ、イザナミの夫婦神が最初に作った島が淡路島だということ。次が、この四国だ。その名を伊予之二名島いよのふたなのしまという。四国の由来は、この伊予之二名島いよのふたなのしまに“四つの顔”があったからだ。その神の一つの名が、愛比売えひめ。すなわち、愛媛なんだよ。名の意味は“うるわしい女神”。いわば、ここは『聖女』の聖地でもある」

「『聖女』の地……」

「愛媛は、日本都道府県47のうち唯一、“神”の名を冠した地。いわば『聖女』の『聖地』。ヤツがこの地を住処すみかに選んだのは、それもある」


 正直、成宮蒼というこの青年が何を伝えようとしているのか、現状では翔太には分からない。

 だが彼は、「それ”も”」と言った。

『聖女』の『聖地』──他に、何か理由が……?

 その翔太に、ベレスが目を向ける。


「そこで、だ。翔太くん。なぜ、ヤツが今、姿を表したか……」

「……ええ……」


 翔太の肩はすくみそうになる。今度は、どんな恐ろしいことを明かされるのか。

 だがベレスの言葉は完全に翔太をぽかんとさせた。


「単に、興味があったんだと思うよ。翔太くんに、ね」

「は?」


 思わず聞き返したくなる。

 ──それだけ?


「王様の“暇つぶし”に選ばれた、くらいの感覚でいい」


 暇つぶしで、これは、あまりにも大げさだ。


「王は退屈に耐えない。彼はこの水城という場所の監視人でもある。そして、彼が守護しようとしているこの地に生まれるけものを警戒もしている……。だがそれは安心していい。その指環カメアは、翔太くんの覚醒と正体を隠す防御壁にもなっている。故に、陰皇いんのすめらぎも翔太くんを測りきれず、ただ自分よりも強いかもしれない存在が表れたこと。これが珍しくて、見学に来ただけなんだよ」


 この言葉を聞いて美優の脳裏に、あの光景がフラッシュバックした。


 栗落花淳つゆりじゅん


 囚われの美優。


 気味悪い固有結界のなかで、翔太の額に開いた“第三の目”。

 その瞳に刻まれた“666”の刻印──。


(翔太くんが……あの、目玉の化け物より……強い……)


 美優は顎をわずかに上げ、翔太を見て、視線を一度だけ外す。

(怖くない。怖くない──)

 その言葉で手の震えが止まる。


 翔太も混乱している。

 なにせ、いまだ自覚がない。


 翔太は単に普通の人生を歩みたいだけだった。


 大学に進学し、就職をし、そしていつかは誰かと結婚して子どもを作り、子や孫に看取られながら自身の生を終える。自分の子どもが見たかった。孫も見たかった。


 過去のいじめの経験もあり、「これだ」という強い意志も目的も持てずにいた。

 だから心の底から求めるのは『平穏』。


 成長して体格も人並みになり、いじめられなくなった今。

 それだけでも幸せを、『平穏』を感じていたのに。


 両親の事故死、頻発する『カスケード』、栗落花淳事件、そして新聞で特集されていた謎の「商店街大量死体遺棄事件」。ただでさえ『平穏』が遠のいていく。


(いつか、蒼さんが言っていることを俺が理解できる日が来るのか……?)


 おそらくその時は、翔太の『平穏』への夢が遠ざかってしまった日なのだろう。


 その翔太の悲しみにも似た、心の動きに気づいた者がいた。

 瑚桃こももだ。


(センパイの背中……)


 瑚桃の瞳が翔太の背中に注がれる。


(なんだか、泣いてるみたい……)


 瑚桃は砂を払うふりで、そっと翔太の肘に触れた。


(泣かないで、って言えたらな)


 声にはしない。無理に作った笑顔の角度だけを上げる。

 瑚桃の胸がキュンと痛んだ。

 苦しくなった。

 ──アタシに出来ることはないのだろうか。


 瑚桃の胸の内には、幼いながらも小さな母性の芽生えがあった。


 それにしても、この成宮蒼という人が話していることは正直、よく分からない。

 でも、ベレスとも呼ばれてもいる。

 そもそも何者なのか。どうやらデルピュネーの主人であることは分かるが。


「ともかく、今は、アレにはそうそうに退散してもらおう」


 そのベレスが、ゆっくりと翔太たちの前へと歩み出た。

 そして大きく手を掲げ、その目玉に呼びかける。


九天くてんの王よ。陰皇おんのうと呼ばれ、陰皇いんのすめらぎと畏れられる者よ。この者は、我が庇護し、管理をしている存在だ。決して、『王』に危害を加えないという約定やくじょうを今、この魔王ベレスの名において結ぼう。旧知の友の言葉に免じて、今はこの場を去ってもらいたい」


 陰皇いんのすめらぎは、ベレスをにらみつけた。

 消える気配はない。


「聞こえないのか。陰皇いんのすめらぎよ! 今はまだ、お前の出番ではないと言っているのだ!」


 魔王ベレスと九天の王。

 強大な存在の睨み合いは数秒続いた。

 だが、その緊迫の対峙は、あっさりと幕を閉じる。


 陰皇いんのすめらぎの目が、まるで、眠りの礼をとるように。

 ゆっくりとまぶたを閉じていったのだ。


 陰皇いんのすめらぎの姿が完全に消えていく。


 そして、“それ”がいた場所に、まばゆい光が走る。


 その光を中心に、うごめく不穏な暗雲は、そこから広がる光の輪に呑まれるように消え。


 もとの夏空に戻った。


 砂浜に残された翔太たち。

 デルピュネーはいつもの平穏な表情を取り戻していた。


「ベレスさま、ありがとうございました。デルでは手に負えなかったでしょう」

「いや、いい。それも僕の役目だ」

「ところで、でございます。アレが現れたのは、今現在、極小の『カスケード』が水城市内で口を開いているこの状況。何か関係があるのでしょうか」


 ベレスは一度目を伏せ、それが海を見やりながら答える。


「それは僕にも分からない。そもそも前回の『カスケード』で、何がこの世に来たのかも分かってないんだ。あらゆる面において、警戒するにこしたことはない。とにかく今、翔太くんのことが彼に露見ろけんしたとしたら、それは最悪の事態となる」

「……わたくしで、翔太様を守りきれるでしょうか」


 陰皇いんのすめらぎへの恐怖に、すっかり自信を失いかけているデル。

 そんなデルピュネーの頭にぽん、とベレスは再び、やわらかく手を置いた。


「いや。実際、デルはよくやっている。これからも翔太くんのボディーガード、頼んだよ」

 

 その言葉に、デルピュネーはベレスを見上げる。

 ベレスは優しい微笑みをデルピュネーに返す。


 そして。


「はい」


 デルピュネーは、心底うれしそうに、そう返事をした。


 ◆  ◆  ◆


 だが、実はベレスには、そこでまだ明かさなかったことがあった。


『カスケード』の活発と共鳴するように、『第三のことわり』に属する“魔”が動き始めていること。


 その第三勢力が、この水城市に、次の悲劇をもたらそうとしていること。


 砂浜を離れ、ベレスは再び林の中のセイレーンの元へと戻った。


陰皇いんのすめらぎが姿を現した。あまり良くない予兆だ」

「存じております。ベレスさま」


 セイレーンはうやうやしく頭を下げる。


「ですが、陰皇いんのすめらぎは、本当に我々、幽世かくりよの『リリン』たちや、北藤翔太ほくとうしょうた、あの者に危害を加える可能性はないのでしょうか?」

「それはない。”今の状態”ならな」


 ベレスは素直なところを述べた。


「バフォメットの結界が”目視不可”の属性を持っていたのは不幸中の幸いだ。ヤツは直接、”けもの”が表れたことを認識できていない。だが、それでも、僕たちが考えているより、ずっと酷いことが起こるかもしれない。だから見逃すな。小さな狂いは、大きな破局の種になる」

「仰せのままに」

「その為に必要なのは、変わらず、北藤翔太の『平穏』だ。その『平穏』を我々が取り戻さなければならない」


 そうなのだ。


 もし、“反キリスト”が、完全に翔太を支配してしまったら。


 この世界は、確実に。

 幽世かくりよも。

 陰皇いんのすめらぎら『第三のことわり』もまとめて。


 








 

 終わる──

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