第63話 凝視する瞳
第63話
「砂浜から見たねずみ島」
【撮影】愛媛県八幡浜市大釜地区
思えば、同じご近所さんといっても、美優と瑚桃、三人で一緒に遊ぶことはほとんどなかったと記憶している。
昔の瑚桃は、どちらかといえば、引っ込み思案でおとなしいタイプ。自ら翔太を遊びに誘いに来るのも稀であり、翔太と美優が一緒にいるのを見かけると、いきなり逃げ出してしまうような子だった。
そう思いながら今の瑚桃と接していると、なんとも感慨深い。
確かに背伸びをしてギャルっぽく明け透けに振る舞ってはいるが、今は瑚桃から積極的に美優に絡もうとしている。翔太と美優との間に、なんとか割り込もうとしている瑚桃の姿……。それは成長だ。
翔太と美優と同じように、瑚桃も大人への階段を上っている。
そりゃ、四年も水城市を留守にして、帰ってきてからの瑚桃の変貌ぶりには最初戸惑った。
だがもともと幼なじみ。よく知る子だったため、翔太の心の鍵はゆるくなっていた。
今は、当然のように現在の瑚桃を受け入れられている。
(皆で海水浴来て良かったな)
と翔太は思う。
それにしても……
単に日焼け止めを塗るだけ――それなのに、体温が指先に集まり、“女”を強く意識してしまう。そこで動揺して、昔の癖で自分を責めそうになる。悩みを一人で抱え込んでしまう性格だったからだ。だけど、俺も少しずつ成長して行かなくてはいけない。心のトラウマも、人が苦手でどこかで怖さを感じることも。
──そして、知らず知らず自身の魂のなかで変異していく“破壊の権化”への不安も。
魔王ベレスこと成宮蒼は、俺の「平穏な日々」を守ると言ってくれた。
“666の獣”が完全に太陽神ラーを侵食し食い殺してしまわないように。
悪魔が言っていることだから、どこまで本気か信用はできない。
だが実際、デルピュネーやシャパリュもはじめ、あの魔王も俺を守ってくれている……
そんな深刻なことを考えていたのだが、やはりそれは翔太の思春期男子の本能には勝てなかった。
結局、今、翔太はこうして美優の背中にサンオイルを塗っている。
その体温、生の感覚。男としての本能が徐々に指先へと集中していく。
それほど美優の背中は翔太には刺激が強かった。
うすい膜のようなやわらかな肌の下に筋肉が感じられる。
そしてその肌は、翔太が想像するよりもやわらかで滑らかだった。
(女子の体って、こんなに柔らかいのか)
完全に今の状態へと意識が連れ戻される。
シラットの組み手では分からなかった感触。
(それに、こんなに美優の背中って小さかったっけ)
くっきりと浮き出た肩甲骨。引き締まった肩に、細い二の腕。
否応無しに、男子との肉体との違いを意識させられる。
翔太のオイル塗りは、美優と瑚桃、二人並んでの同時進行だ。
その瑚桃。
瑚桃はやや肉感的であり、指がその背中に沈み込んでいくほど肌がやわらかい。
痩せ型だと思っていたが、ほどよい肉のつき方をしていて、無駄がない。
発育はいい方だし、美優とも遜色はない。だが、ウエストのくびれとムチムチとしたヒップの大きさのギャップは、いかにも“女性”であり、美優とは違う“女の子らしさ”を感じる。
平静を装っているが、翔太の顔は真っ赤に染まっていた。
(おさまれ、おさまれ……! 俺の本能!)
だが、瑚桃にバックストラップのリボンを外された時は、さすがに“女子に興味ない自分”の仮面にヒビが入った。背中だけを見ていると、裸に見えてしまうからだ。
ただオイルを塗っているだけ。ただオイルを塗っているだけ。
そう言い聞かせても思考がまとまらなくなる。(俺、こんな事してていいのか)という罪悪感が、また昔のように自分をひどく痛めつけてくる。
故に翔太は、それを横で見ている美優の、少し嫉妬にかられた視線には気づかなかった。
(何よ。顔、真っ赤にしちゃって……)
そんな美優も美優だった。翔太にオイルを塗ることを自分からお願いしたくせに、その指が実際に背中の肌に直接触れた瞬間、思わず心の中で悲鳴を上げてしまっていた。
──ひっ……!
単なる幼なじみのつもりだった。
自分には恋愛なんて、遠い世界の話だと思っていた。
なのに。
なのに、どうして私、こんなにもドキドキしてしまうのかしら……
いじめられっ子だった翔太。自分よりはるかに背が低かった幼なじみ。
この子を守るのは私だ、と小さい頃から思っていた。
姉のように自分のことを考えていた。
だが、今は身長も体格差も逆転してしまっている。
(成長期だもんね。男の子ならそりゃそうか……)
そう。
美優のなかでも翔太は、もうすでに“男”になっていたのだ。
その“当たり前”に、美優はここに来て、改めて気付かされた。
(やだ。私、顔とか赤くなってないわよね)
気軽にオイルをお願いしたことを、今は猛烈に後悔していた。
ダメだ。
くすぐったい。
恥ずかしい。
(バカ! いまのはなし。忘れて! 忘れるの!)
それとは裏腹に、もっと触れていて欲しい……そう思っている自分がいる。
(いやそれはないから!)
もう一度、自分で自分にツッコむ。
まだ美優は、自分の心の奥底で生まれそうな、何かの“想い”を。その“芽”を、見たくなかったし、認めたくなかった。
断じて。
そう、断じて。
そんなはずなのに……
自分の横で、裸の背中にオイルを塗られている瑚桃と、翔太の姿を見ると、その生まれたての“想い”がさらに強く自分を支配して来ようとする。
やめて、と言いたい。
私だけにして、と言いたい。
でも言い出せない。言えるわけがない。
(弟みたいな存在……だったはず。ずっと、そうだったはず)
でも、隣の瑚桃にも翔太がオイルを塗っているのを見ると。
(ずっと、私のものだったはずなのに……)
思いもしなかった心の声が漏れ出した。
“私のもの”──自分でも驚く。なに、今の? 動揺する。
そしてあの冷静なはずの美優の羞恥心が一瞬にして沸騰した。
まるで、ボン! と音を立てて小さな水蒸気爆発が起こったようだ。
(ああ、もう! どうしてこうなっちゃうのよ!)
そう。美優の翔太への想いが“淡い恋心”の芽生えだとは、決して美優は認めてなかった。
認めるわけにはいかなかった。
だけど……
そう。美優は自分では決して認めないが、瑚桃に嫉妬している。
いや、嫉妬なのか。それとも、お気に入りのおもちゃを取られた子どものようにヘソを曲げているのか。
その瑚桃の方だが……
こちらはうぶな性格の分、美優よりも大変なことになっていた。
(あわわわわわわわ……)
翔太にオイルを塗られることで完全に目を回していたのだ。
元々、そんなに開放的な性格ではない。
でも中学生になったし、自分の手足も伸び、大人になった気がしていた。
引っ込み思案だった自分を変えたい、そう思っていた。
瑚桃はファッション雑誌を参考にするようになった。
そして少しずつギャルに憧れていった。
変わったつもりだった。でもまだ完全じゃない。
だから、翔太が水城市に戻ってきたと知った時、瑚桃は「これは神様がくれたチャンス」だと思った。
だが。
それが“恋”だと明確に気づいたのは最近である。
あの夜。
諏訪崎で、ラ・ヨローナに襲われた時。
そこへ、翔太が助けに来てくれた時。
瑚桃は自転車の荷台で、その背中から翔太の心臓の音を必死にさぐろうとしていた。
(センパイ……。北藤翔太くん……)
その時だった。瑚桃は、翔太のことを好きになってしまっている自分に気づいた。
いや、昔から、好きだったのかもしれない。
ゆえの動揺、焦燥、恥ずかしさ。そして美優への小さな嫉妬。
緊張しすぎて体はピクリとも動かせなかった。
で、でも、うみちゃんセンパイはあんな平気そうな顔してる!
アタシ、負けたくない!
(“背伸び”って、こういう時に使うんだよね。よし、笑う。アタシ、笑ってみせる!)
それでも、意識とは逆行して目がナルトのようにグルグル回っている瑚桃の背中を、翔太がピシャッと叩いた。
「さ。終わったぞ。あとは自分で塗れ」
そう言った翔太に、「ありがとうございます、センパイ!」と笑顔を見せるぐらいの気力は出した。歯の奥で小さく「いける! いけるはず!」と言う。だが、その笑顔は、誰がどう見ても少し引きつっていた……
この三者三様の想い。
何事もなかったような心の静寂に、波が打ち寄せては引いていく音が流れ込んでいる。
その音と風景が噛み合ってないような錯覚に陥る。
夏の音は賑やかなのに、三人の心だけが置いていかれる。
三人は同時に思っていた。「疲れた……」と。
ぐったり。
そして誰もまったく口を開かず、不自然な間が砂浜に満ちていた。
「お兄ちゃんたち、どうして、そんなに静かなの?」
突然の芽瑠の声に、三人同時に、ビクンと肩を震わせる。
「みんな、変なの~!」
芽瑠の笑いで、やっと波のテンポに音が追いついた。
キャッキャッと騒ぐ芽瑠の純粋な姿に、三人の心は少しずつ溶かされていった……
◆ ◆ ◆
「よし。せっかくの海だし、泳ぐか!」
始まりは翔太からだ。
翔太のその一喝で、なんとか気を取り直し、再び海で遊び始めた一行。
だがそこで突然、デルピュネーが目を見開いた。
そして、ものすごい速さで立ち上がり、灼熱となっているはずの槍を平然と構え、人差し指を添える。
そのいきなり発せられた強烈な緊張感に、そこにいた全員の目がデルピュネーに集中した。
「え……?」
ふいに、翔太の胸の指環が浮かび上がる。
浮くなんて初めてだ。さらには、不思議な淡い光を周囲に放ち始める。
「な、なんなの? その光、翔太くん、何が起こったの!?」
「セ、センパイ? 何……それ……?」
「デル、これは……!?」
翔太が海から砂浜のデルピュネーへ叫ぶ。
デルピュネーの目がいつも以上に警戒をしていた。元々、ギリシア神話の怪物。その“怪物”を隠しきれていない今のデルの瞳に、翔太はただ事ではないと悟る。そしてデルピュネーは口を開いた。
「翔太さま、美優さま、瑚桃さま、そして芽瑠さまも。今すぐ海からお上がり下さい」
戸惑って顔を見合わせる美優と瑚桃。
「早く! 全員、わたくしの後ろへ!!」
デルが珍しく大きな声を発した、その時だった。
入道雲が浮かぶ真っ青な空。
そこに突然、縫い目を裂くみたいに、真っ黒な雲が現れた。
大きい。それはあっという間に入道雲を隠してしまう。
見る見るうちに空を覆い尽くしていき、やがて空のほぼ全体を“黒”に染めた。
光は消えたのではなく、その黒い雲に吸われていったかのように見える。
いきなり夜が訪れたかのようだった。
さっきまで耳を刺していた蝉の声だけが、どこか遠く、幾重にも重ねって届いてくる。
「な、何、あれ……」
美優が驚いて声を上げる。
その後ろでは、瑚桃が腰を抜かして座り込んで震えている。
「デル! これは……何が起こってるんだ……!?」
デルは答えない。そのデルの口元……“牙”が生えているように見える。
大気が震えるような気迫。デルピュネーはその槍を黒雲に向ける。
空を覆うその黒い雲は、雨雲や雷雲のそれとはまったく異質であり、さらには大きくうごめいていた。
明らかに異変であり、この世の現象ではない。
翔太の胸の指環は、強く警戒の波動を発し、まるで風にたなびいているかのように揺れ続けている。
そして、急激に気温が下がっていった。
まるで冬のように凍りつく風が海から吹いてくる。
風は冷えるだけでなく、匂いを奪う。
波は規則を忘れ、浜から海へ巻き戻る。
逆だ。この世が自然の法則を裏切ったかのように、海は波の逆転現象を起こしている。
その歪な水音が、耳の奥をじわじわと冷やしていく。
「デル! 答えてくれ!!」
翔太の心にも恐怖が芽生える。
――そして、それは現れた。
空を覆い尽くし、うごめく真っ黒な異形の雲。
その雲が、ゆっくりと裂けるように。
一つの巨大な“目”が、雲の中で、重そうなまぶたを持ち上げた。
「な、なんだ……、あれは……」
虹彩は色を持たず、夜の穴だけがこちらを測る。
瞳がギョロリと動き、群衆にではなく、明らかに翔太個人を見つめていた。
デルピュネーの全身に、強張ったかのような強い緊迫が張り詰められたのが分かった。




