第5話 逃げ込んだ先で
第5話
フェリー乗り場のすぐ横──
出島にそびえるコンテナ群の影。
長距離貨物トラックがずらりと並ぶ、運送会社の私有地。
「……ここは……『濃霧』が届きにくい立地みたいね」
美優は肩で息をしながら、冷たいコンテナ壁に背を預け、ずるずると座り込んだ。
港から流れ来る風は、大通りを通って街へとなだれ込んでいく。
ここは、その風の通り道から外れた場所。周囲は白い鉄板で覆われている。
美優は一つ、小さなため息をついた。
夜風が頬をなでるのに、胸の鼓動はまるで逆に火照っている。
「とりあえず……助かった、ってことか?」
「ここの壁は高いし、反対側は海。『ゴースト』だって這い上がってこられない……まあ安全かも」
翔太も隣に腰を落とし、大きく息を吐いた。
と、その時。気付いた。
美優の張りついたシャツが汗で肌が透けそうだ。
翔太は思わず目を逸らす。
だが隣に腰を落とせば、月明かりが彼女の脚線をすらりと浮かび上がらせているのが分かる。
本人はまったく気にせず息を整えている。
(……き、気にしてないのか……)
芽瑠は小さな肩を上下させ、翔太の服をぎゅっと握りしめて離さない。
──ほんの束の間の、安堵。
翔太は、隣に座る美優の横顔を盗み見てしまう。月明かりに照らされた頬。幼い頃と同じ瞳。
けれど女の子ではなく、すっかり“少女”になっている。
(……きれいだな……)
六年生で転校して以来、会えなかった四年間。両親を事故で失い、芽瑠と二人で教会兼自宅に戻ってきたのはほんの一ヶ月前──そのとき自分も両親の事故に巻き込まれて入院していた。
始業式で再会した時の美優の顔は、今でも鮮明に覚えている。
驚くほど、きれいになったように感じた。その時、美優は、少し驚いたように、でもどこか照れて笑っていた。……けれど結局、声はかけてくれなかった。
(そりゃそうだよな。俺のことなんて、もうあんまり覚えてないだろうし。四年も前だぞ)
かぶりを振る。
でも今。
その美優が、こうして隣にいる。
手が触れそうな距離に。
(昔は“隣に座る”なんて、当たり前だったのに……)
思い出が溢れそうになる。心臓から血管を通り体中に満ちていく。
その時、美優が小さく口を開いた。
「……ねえ翔太くん」
「ん?」
ドキっとした。名前を呼ぶ声が妙に甘く響いた。そんな翔太の心を知らずか、美優は続ける。
「実は私……ずっと、見ていたんだよ」
「え?」
何のことか分からなかい。
「始業式のとき」
「し、始業式?」
「うん。翔太くんが戻ってきてたこと……すぐわかった。でも……声かけられなかったの」
美優の頬が赤く染まる。そして、そっぽを向く。
翔太の胸が再び、きゅっと鳴る。
「なんで……?」
「だって……背も伸びて、声も低くなってて……。子どもの頃の翔太くんと違って……」
言葉が途切れた。
暗がりでもわかる。
彼女のまつ毛が震えている。
「……なんか、照れくさかったの」
こんな状況なのに、翔太の顔も熱くなる。
慌てて、言葉を噛まないよう注意しながら翔太は言う。
「……お、俺も」
「え?」
「み、美優が……すごく……なんていうか。大人? いや、えっと……。きれいになってて。……覚えてくれてないかもしれないって、声かけづらかったんだ」
言っていて恥ずかしくなる。
二人は同時に目を逸らす。
だが逸らしたと思ったら、ふとまた視線がかち合う。
また慌ててもう一度逸らす。余計に胸の鼓動が早まるのを、どちらも誤魔化せなかった。
ぎゅっと──
まだ手を握り合っていることに美優が気づいたのは、その時だった。
言葉はたどたどしいのに、握る手の力だけは昔よりずっと強い。
骨ばった掌が、迷いながらも“離さない”意思を伝えてくる。
(……こんなに力強かったっけ、翔太くん……?)
無意識に胸の奥がざわついた。昔の泣き虫な翔太の面影が一瞬でかき消えるほどに。
そして──ようやくこの事態の意味を知った。
美優の胸が跳ねた。これに翔太も、遅れて気づく。
思わず、お互いパッと手を離す。
「うわっ……ご、ごめん!」
「ち、違うの! 私も気づいてなかっただけで……!」
二人の声が重なり、顔が真っ赤に燃える。
慌てて目が合い──今度は、二人で吹き出してしまった。
芽瑠が首をかしげて覗き込んできた。
「お兄ちゃん、美優お姉ちゃん……なんで笑ってるの?」
「な、なんでもない!」
「なんでもないわよ!」
再び声が揃い、また目が合った。もう笑いをこらえられなかった。
そう、まるで昔みたいに。
転校前まで、ずっと一緒に遊んでいたあの頃。けれどもう今は、ただの幼馴染でいられない。
──二人は、互いに「男女」としてもう一度、出逢ってしまった。
(これが吊り橋効果ってやつ……)と美優。
心臓がうるさくて仕方がなかった。
だが。
美優は、気を取り直した。
──そんなこと考えてる場合じゃない、と。
当たり前である。
キュッと唇を結び直した。
「……『濃霧現象』」
そして言う。その声は、さきほどの甘酸っぱさはどこへやら。
鋭く緊張を帯びていた。
「翔太くん、一ヶ月前にこの街に戻ってきたばかりだよね。でも小さい頃、聞いたはず。転校前に学校でも習ってたでしょ」
「俺たちが生まれた年……十六年前の、あの『カスケード』のこと……か」
「そう。国際魔術会議関係の人はそう呼ぶわ。でも世間では単に『濃霧現象』って呼ばれてる」
美優はとても静かな、真剣な瞳を向けてきた。
「でもね、それだけじゃないの。直近では一ヶ月前にも起きたのよ、知らないでしょうけど」
「え……!?」
「翔太くんが事故で病院に運ばれて、意識不明になっていた時期。だから知らない。国際魔術会議は、あの霧を『カスケード』と呼んでいる。ここまでは翔太くんもお父さんから聞いていた通りだと思う」
「……国際魔術会議。親父が所属していた……あれだな……」
翔太の声が低くなる。
美優は小さくうなずいた。
「そう。『United Nations Magic Council』。その頭文字を取った呼び名が『UNIMACON《ユニマコン
』。実際、私の父も会員だし」
「俺の親父は教会関係だと聞いてた。カトリック系の……ただし正規じゃなくて亜流の」
「でしょうね。国際魔術会議は秘密結社のように言われてる。霧や魔術的現象を調査する機関なのが表の顔。もっとも、裏で世界を操ってるなんて噂だけは、やたらと飛び交ってるけど」
そこまで言って美優は、深いため息をついた。
「そこまで分かってても……やっぱり謎だらけね。この水城市も、国際魔術会議も」
「親父が生きていたら、もっと聞けていたんだろうけどな」
「仕方ないわ。こんなに短い間隔で『濃霧現象』が現れるなんて前例がないんだもの」
互いの瞳が交錯する。
だが。今は冷静でいられる。
「でも、長くは留まれないわ」
美優は顔を引き締め、コンテナの隙間から霧を見やった。
翔太も慌てて、気を取り直す。
「確かに……。なんだか嫌な予感がする」
翔太の心の奥で“アンテナ”が震えている。それは『ゴースト』ではない、別のものへの危機反応。
いつの間にか、周囲の霧が濃さを増していた。
鉄と油の匂いにまぎれて──湿った恐怖が、霧の奥から息をするように蠢く。




